サラマンダーは炎のなかに
著者:ジョン・ル・カレ
前掲の「リトル・ドラマー・ガール」と同様、この小説も直接ドイツをテーマとしたものではないが、主要な舞台が、ベルリン、ミュンヘン、ハイデルベルグということもあるので、ここに掲載させてもらう。
2003年刊行、著者19作目の作品である。話の軸は、1960年代末のドイツ学生運動の最盛期を生きた二人の男の友情と疑惑、そして彼らの殉教を描くが、執筆の直接の動機は、2001年の米国多発テロ後、国際世論を無視して対イラク戦に踏み切った米国ブッシュ政権と、それに無批判に追従した英国ブレア政権に対する批判であったという。しかし、それに留まることなく、ここでは第二次大戦後のインド、パキスタンの分離独立から、60年代末のドイツ学生運動、そしてソ連崩壊と冷戦終了以降の「68年世代」の生き様を壮大なスケジュールで描いている。
その二人は、英国人のテッド・マンディとドイツ人のサーシャ。テッドは、インド駐在の英軍少佐の息子として現在のパキスタン領で生まれるが、家族は独立の混乱に巻き込まれ帰国。その後英国パブリック・スクールからオクスフォードに進むが、60年代の学生運動の高まりの中でベルリンに留学し、そこで運動の指導者であったサーシャと知り合う。サーシャは、ルター派の神父の息子であるが、厳格な父親(しかし、その父は、後で西独に送り込まれたシュタージのスパイであったことが判明する)に反発し、学生運動に身を投じている。
物語は、イラク戦争後のドイツはミュンヘン。テッドは、トルコ人の母子と同棲しながら、ルードヴィッヒ2世が建立したリンダーホフ城の英語ガイドで生計を立てている。その彼が、サーシャと再会するところから始まるが、そこから一気にテッドの英領インドでの少年時代、そして英国帰国後のドイツ語との関りや、オクスフォード進学後の左翼思想との関りに遡っていく。父親の死後、彼のインドからの帰国が不祥事の結果であったことや、彼の出産後直ぐに死んだ母親が、それまで聞かされてきたような両家の娘ではなく、アイルランド人子守であったことなどが語られ、それまで優等生エリートの道を進んできたテッドの内面に影がかかっていく。その結果が、大学で知り合った初めての恋人で急進左翼思想を持つ娘の影響によるドイツでの学生運動に参加するためのベルリン自由大学への留学であるが、そこで騒乱に巻き込まれ、足の不自由なサーシャを救出するが、テッドはドイツから追放されるのである。
このテッドとサーシャのベルリン時代の描写は、まさに「68年世代」の世界である。学生コミューンにはカストロ、毛沢東、ホー・チ・ミン、ゲバラの肖像が溢れ、ホルクハイマー、マルクーゼやファノン(「抑圧された人々が行使する暴力は常に正当である」)が議論され、ヴェトナム戦争反対、パレスチナ支援のデモが繰り広げられ、そしてイラン国王訪問に反対したオーネゾルグやドゥチュケへの銃撃が語られる。「帝国主義者に対するテロは正当である。」そうまさに「遅れてきた青年」としてこの時代のドイツを追想した私自身のあの時代が表現されているのである。そうした中で培われたコミューンの「ルームメイト」であるテッドとサーシャの友情が、その後の鍵となる。
英国に追放されたテッドは、パキスタンを含め、かつての日々の名残りを探しつつ、田舎学校のドイツ語教師、地方新聞の記者、あるいはニューメキシコで小説を書いたりしながら失意の日々を送ると共に、行方知らずとなったサーシャに多くの手紙を送るが、返事は届かない。「68年世代」の喪失感。結局テッドは、「英国文化振興会」で当面の生計の糧を得ると共に、その仕事で地方学校の副校長のケイトと知り合い結婚、一子をもうけてしばらく平穏な日々を送ることになる。
それが激変したのは、文化振興会の仕事でポーランドに赴いた際に、劇団員の一人がポーランド人青年と恋に落ち、彼を東ドイツ経由、西側に連れ出すことを決断してからである。そこで、東ドイツに移住していたサーシャと再会。サーシャは、その計画を手助けすると共に、学生運動終息後、東独に移住するが、その真実の姿に絶望し、西側のスパイとなっていることを打ち明ける。その計画の成功後、今度は英国情報部員エイモリー(彼は、かつてテッドがベルリンから追放された際に、彼の世話をした英国大使館員であった)の尋問を受けたテッドは、サーシャとの連絡係として英国情報部の仕事に携わることになる。他方、サーシャは、かつての急進左翼のテッドを、西側に反発する人間として、東独のスパイとして徴用したことにする。こうしてテッドは、二重スパイとなり、文化振興会の彼の東側への出張は、サーシャとの接触が主目的となり、東独側に西側の適当な情報を流すが、実際には英国情報部にコントロールされるという立場となる。(以上、上巻)
妻のケイトは、労働党の若手政治家として頭角を現し、地方の選挙区に移住、出張の多いテッドとは別居生活に移る。テッドの英国情報部の仕事にCIAも関心を示し、ロークと呼ばれる男がテッドに接触している。そしてテッドの「鉄のカーテンの向こうの任務」が49回を数える頃、ソ連でゴルバチョフのペレストロイカが始まり、そして東独を含めた東欧の傀儡政権が崩壊していく。西独による東独の統合はなく、二つのドイツが公正な選挙によりヨーロッパの中央に非武装中立のブロックを作り出す、というサーシャの期待は裏切られる。一方、テッドのケイトとの結婚も終わりを迎えている。ライン河沿い、バート・ゴーデスベルグで再会した二人は、「捨てられたスパイ」の今後を話し合う。サーシャは、英国情報部からの庇護提案を拒絶し行方をくらまし、テッドは、ケイトと離婚し、ハイデルベルグで英語学校の共同経営者となる。
10年が経過し、バイエルン地方の湖畔のしゃれた家で二人は再会する。テッドは、英語学校の共同経営者に金を持ち逃げされ、学校の債権者に追い立てられる中、ミュンヘンに移り、冒頭の場面のとおり、城のガイドをしながら、トルコ人の母子と同棲している。再会した二人は、イラクに侵攻した米国とそれにプードルのように従う英国に呪詛を浴びせるが、その場でサーシャは、テディに、ある資産家からの提案を打ち明ける。倒産したハイデルベルグの英語学校を再建し、そこを世界平和の拠点となる「真実の学校」にするという計画。その資産家とのオーストリア山中の邸宅での面会。テッドが受け入れると、その後、多額の資金が語学学校の債権管理銀行に振り込まれ、テッドは学校再建の準備を始める。
しかし、何かがおかしい。銀行は、振り込まれた大金の源泉はリヤドであり、その資金に疑惑を抱いている。サーシャに連れられて富豪と会ったオーストリア山中の館を再訪するが、そこは会った時の痕跡が全くない、ただの農家になっていた。そしてそこからの帰途、テッドは一群の反テロ部隊に拘束、拉致され、いずこかに移送される。連れ去られた場所で、取り扱いは変わるが、それは登場したCIAのロークのためだった。彼はテッドに、その農家はテロリストの関係する拠点として監視対象に置かれていたと述べる。そしてロークは、サーシャの「失われた10年」につき、テッドが知りえることを聞き出そうとしている。ロークは、テッドに資金提供した富豪は、世界のあらゆるテロリストに資金提供をしている黒幕で、サーシャは彼に繰られている、そしてテッドの学校があるハイデルベルグは、彼らが帝国主義者たちを攻撃するための格好の象徴性を持っていると言うのである。その上で、ロークは、サーシャや富豪のテロ計画を阻止するために自分たちに協力しろーそれはサーシャを売れと言うことであるーと述べる。テッドは、ロークとCIA、そしてサーシャと富豪のどちらを信じるか、ひたすら自問する。その間に、サーシャより、「真実の図書館」の準備の資材―それは図書室を満たす本だというーが届けられ、またサーシャも学校を訪問するとの連絡が入る。テッドは、学校に現れたサーシャをネッカー河沿いのピクニックに連れ出し、ワインを飲みながら、自分の疑惑を、サーシャに問い質す。サーシャは、戦争を仕掛ける帝国主義者と自分たちのどちらを選ぶか決める、と言い残しハンブルグに立つ。悩めるテッドは、資金の一部で、トルコ人母子に、母国での親戚の結婚式に出るための航空券と晴れ着を手配し、空港から送り出す。その彼を、英国情報部員エイモリーが訪れる。彼はテッドに、ロークを信じろと言い、テッドとサーシャ二人の逃走用の偽造パスポートを残して去るが、テッドは決断できない。学校に戻り、送られてきた荷物を次々に空ける。本だ、しかしそこには爆弾製造マニュアルも入っている。そしてサーシャの到着。その時学校は反テロ部隊の急襲を受け、サーシャとテッドは共に射殺されるのである。メディアは一斉に、ハイデルベルグの語学学校を装ったテロリスト拠点が摘発され、テロを未然に防いだと書き立てたが、一部には、それは当局のでっち上げであるという記事もあった。それが大きな話題になることはなかったが・・。(以上、下巻)
こうしてテッドとサーシャの長きにわたる友情話は終焉する。「68年世代」の二人の男の、それ以前、そしてその後を、大きな歴史と共に描いたこの作品も、この前に読んだ「リトル・ドラマー・ガール」と同様、著者の力量を堪能することができる素晴らしい小説であった。もちろん突っ込みどころは数多ある。特に、物語の終焉部、反テロ部隊の学校急襲については、そこに爆発物や弾薬があったかどうかは、全く触れられていない。それは読者が勝手に想像しろということなのだろうが、やはりやや唐突な終わり方である。あえて想像すると、著者が強く非難した米国のイラク侵攻が、結局見つからなかった大量破壊兵器の存在を錦の御旗として行われたことを皮肉り、そうした危険物の存在は、権力による攻撃にとっては真実である必要はなく、敵を叩き潰しさえすれば、それらは歴史の闇に葬り去られる、ということを示唆したかったのだろう。それにしても、サーシャはともかく、テッドが問答無用に射殺されるという流れは、やや理解不可能であった。
また「68年世代」の描き方についても、やや不満は残る。もちろん日本の同時代の学生運動を率いた人々のその後についてもいろいろ言われるとおり、それらは結局社会の大きな変革を導くことはできなかった。そうした無常観が、この作品の読了後に残ることになる。しかし、ことドイツについては、「68年世代」が、その後の環境運動―緑の党―を通じて実際の政策決定に大きな影響を及ぼすところまで成長することになった。実際、その世代の一人、J.フィッシャーは外相となり、また最近では、今年後半に行われる予定の議会選挙で緑の党が第一党となり、その党首ベーアボック(40歳なので、もちろん「68年世代」ではないが・・)が、メルケルの後任首相に選ばれる可能性さえ囁かれている。こうした「68年運動」の肯定的な評価は、この小説ではほとんど触れられることはない。それは、冒頭に記したように、この小説に向けた著者の動機が、反イラク戦争への批判と、しかしそれを止められない世界への諦観にあったことも理由なのかもしれない。
そうした突っ込みどころはあるにしても、この作品が、私自身が青春時代から関わってきた政治、社会、そして思想世界を、改めて眼前に突き付けたことは間違いない。私自身にも、こうした自分の人生を総括する義務がある。それを示してくれただけでも、この作品は思いがけない収穫であった。ル・カレ、誠に恐るべし、である。
尚、この小説の原題は「Absolute Friends」であるが、邦訳は「サラマンダーは炎のなかに」となっている。「サラマンダー」は、イモリ類の生物であるが、古来「火の中でも生きる」と言われ、そのためゾロアスター教を含め多くの地場信仰で「火の精霊」とされてきた。この「サラマンダー」は、本文中にも何度か出てくるが、確かに原題の直訳「完璧な友人」ではほとんど陳腐であることから、これが邦訳のタイトルとなったのであろう。本のみならず、ポップス系の音楽でも、とんでもない邦題がつけられていることがあるが、この作品に関してはなかなか考えたな、と言える。
読了:2021年5月22日