アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第十一章 その他
無邪気な日本人よ、白日夢から目覚めよ
著者:川口マーン惠美 
 今年の9月に、同じ著者の2009年刊行の「日本はもうドイツに学ばない?」と題した単行本を読んだ、ピアニスト出身でドイツ・シュトゥッガルト在住の著者(昭和31年生まれなので、私と略同世代である)による、2021年6月出版の新書である。この著者については、他に2016年と2021年にユーロ論についての新書を読み、評まで二重に掲載してしまったが、そこでは、ギリシャ債務問題や難民問題の2016年時点での状況を、著者は、現地での各種報道等を基に、当初予想した以上に鋭い視線から分析、報告していた。そして前回読んだ単行本は「20世紀の戦争をどう克服すべきか」という副題がついているが、ドイツの戦後処理を中心にしたその関連の議論のみならず、当時のドイツが直面していたその他の外交問題や、ドイツ統合の後遺症、そしてゴミ処理や教育といった日常的な話題も取り上げていた。既に10年以上も前の著作であるが、不思議に古さは感じない。むしろ改めて著者の冷静な視点と分析に大いに共感するところがあったくらいである。そして、一時期は、貿易やエネルギー供給を主目的に、ロシアや中国に接近したドイツであったが、今やそれは大きな転換点に差し掛かっている。そうしたドイツ、あるいは欧州の10数年前の姿と、既にその頃から内在していた現在の問題の萌芽を十分認識することができた著作であった。そして表題の「日本はもうドイツに学ばない?」にある「?」は、個人的には、「依然学ぶべきことは多いが、あくまで批判的に学ぶ姿勢が必要である」というように理解した。

 しかし、この最新の新書では、著者の議論は、方向的には同じであるが、それ以上に一気に右寄りに進んでいる。ここでは、むしろドイツ(あるいは欧州全体)の環境政策やエネルギー政策は破綻しており、それを真似ようとする日本は決定的に間違っているとして、ドイツや欧州というよりも、日本の固有の問題を前面に出した議論を展開している。著者の立場は、一言で言うと、安全保障面では、日本の平和憲法の改廃と核配備、エネルギー政策面では原発推進という立場を鮮明にしている。あれ〜という感じであるが、私がまだ読んでいない著者の最近の著作を見ると、「ドイツの脱原発が分かる本」(2016年)、「復興の日本人論 誰も書かなかった福島」(2018年)、「そしてドイツは理想を失った」、「メルケル 仮面の内側」といった、この著作に連なるような作品が並んでいることからも、こうした著者の最近の傾向が読み解ける。著者の主張については、やや疑問に感じる点は多いが、それにしても、著者がこうしたもんだについての学習を進め、それを基盤に旺盛な著作活動を続けていることは確かである。

 それではそうした議論をもう少し深く見ていこう。まずは、日本の「核武装論」であるが、北朝鮮が核を保有したところで、韓国に対し優位に立ったこと、そして核不拡散条約(NPT)による核保有国、非保有国規定と、それを受け日本が米国の「核の傘」に入った経緯等が説明され、それによって日本人の安全保障に対する現在の「能天気」な国民感情が醸成された。それを乗り越えるには、米国任せではなく、自ら自国を守る気概が必要であり、そのためには日本の核武装も積極的に議論されるべきと示唆されるのである。

 北朝鮮が核武装で韓国に対し優位に立ったとはとても思えないし、少なくとも北朝鮮が核を使うときは、国が亡びる時である。毛沢東が核を「張り子の虎」と言ったのは、それなりに的をえており、核武装は、仮想敵からの先制攻撃は抑止するが、先制攻撃に使える武器ではない。ましてやそれ以外、例えば経済困窮での国の崩壊を防ぐことはできない。そうであるが故に、それを理由に、日本が核武装を進める理由にはならない。また国防については、フィンランドやスイスなどの「専守防衛」が例に挙げられているが、こうした国は、他国を侵略した歴史のない国である。かつてそうした侵略を行った日本が国際社会でそれなりの地位を得るためには、現在の平和憲法は必要であり、それが許容される範囲内での「自衛力」を維持すれば十分―核武装などはとんでもなく、それは米国の「傘」にいることで問題はないーと考える。ただ「世界の警察官」であることを放棄した米国が日本に対しそれなりの軍備拡大を要請してきているのは間違いないので、それに一定の範囲で答えていく外交努力は必要であろう。そうした対応は、決して日本の政治家や国民が「平和ぼけ」しているということを意味しない。その点で、「核武装」に関わる著者の張は、個人的には受け入れられるものではない。

 続けて、同様の危機意識の欠如として、外人、特に中国人による日本の土地買い占めや、尖閣などの離島防衛に触れられているが、前者は、外人による土地取得の一定の範囲名での制限で十分であり、後者はまさに日本政府も国民もそれなりの危機意識をもって対応してきている。また移民・難民問題は、今やドイツにとっては大きな問題であるが、海で隔てられている日本の場合は、流入が物理的に制限されることから、現在の慎重な政策を粛々と進めていくことで十分であろう。むしろ今後の若年労働力の減少を、無制限の流入に歯止めをかけながら、いかに外人労働者で埋めていくかという個別の議論の方が重要である。

 5章以下は、この新書の中心的課題である、電力供給を核とするエネルギー問題を、Co2排出削減=カーボン・ニュートラルに向けての政策と絡めながら議論していくが、ここでは先に読んだ本との関連で言えば、「もうドイツに学ばない」どころか、「ドイツの真似をするな」という主張が中心になる。福島の原発事故を受け、日本の原発政策は確かに「思考停止」が長く続いているが、電力の安定的な需給均衡を確保しながら、カーボン・ニュートラルを進めていくには、日本の場合、特に原発が重要であることは確かにその通りである。ドイツが、原発廃止政策を決定できたのは、欧州の周辺国との電力融通がそれなりに機能するからで、それでも多くの問題を抱えている。そうした国際的供給バランス・システムを持たない日本は太陽光や風力、地熱といった再生可能エネルギーだけで、この目的を達成するのは困難である。ましてや、日本は、従来から原発や核廃棄物のリサイクルについての先端技術を開発してきた。こうした技術を進化・発展させ、新たな安全で効率的な原発開発に使っていくことが、日本の電力安定に寄与するのみならず、その産業競争力を高めることになる、という著者の主張には、一定の留保をつけた上で賛成である。一定の留保というのは、やはり再生可能エネルギーへのシフトは、地球的課題であり、原発はあくまでそれに向けた過度的な対応であることは、常に留意すべきである、という点である。地球温暖化が、Co2排出の結果であったのかどうかは、常に議論のあるところではあろうが、国際的なコンセンサスを無視することはできない。また著者は、EV車へのシフトも、日本の自動車産業が積み上げてきた技術を犠牲にした「日本の産業競争力潰し」だとして、例えばトヨタ自動車社長の「ハイブリッド車も、この目的に適合することを明確に規定すべき」という発言を紹介している。もちろんハイブリッドは日本の車技術の結晶であり、環境問題への一つの回答であることは確かであるが、やはり国際的な流れは電気自動車に向かっており、その世界での技術的優位(例えば蓄電技術等)を高めることが日本の産業が求められている課題であることは忘れるべきではない。単に「電気自動車やソーラーパネルの安価な製造を通じての世界制覇を目論む中国の陰謀に注意しろ」というだけでは、日本は世界の潮流から取り残されることになることは間違いない。

 因みに、新たな原発技術の開発という点では、数日前(9月29日)に、日立製作所が、ジェネラル・エレクトリックと共同で、「電源がなくても液体の温度差を用いて、核燃料を冷やす冷却水が対流する仕組みを採用する」次世代型の小型原子炉(沸騰水型軽水炉(BWR))の開発計画を、また三菱重工も関西電力等電力4社と新型原子炉の開発計画を発表している。こうした具体的な原発関係の新技術開発を、政府も実用化に向け積極的に支援、宣言していくべきであろう。

 先に読んだ、同じドイツ在住が長い日本人女性ジャーナリストである永井潤子が、同じ意見を持つドイツ在住の友人たち(6人の魔女)と進めている反原発・再生エネルギー転換運動を含め、日本での原発対応が遅れていることを批判しているのとは対照的に、著者は原発推進の立場を明確にしている。単純な反原発・再生エネルギー転換運動では問題は解決しないことは明らかで、それは現在のウクライナ危機に伴う天然ガス等のエネルギー資源のロシア依存が、日本のみならず、特にドイツを脅かしていることは、何度も書いてきた。しかし、それをもってこれまた単純な原発推進運動に向かうのはやはり危険である。現実の政治、経済問題は常にそうであるように、各種の利害関係、主張の合理的な調整にある。政府の能力はまさにそうした面で評価されるべきである。二人のドイツ在住の女性ジャーナリストが、対極的な見解を主張しているのは面白いが、いずれにしろ日本の道は、その中間にあることは確かである。

読了:2022年9月30日