アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第十一章 その他
膨張するドイツの衝撃
著者:西尾幹二 / 川口マーン惠美 
 保守系評論家と、ここのところ何冊か読んできたドイツ在住の女性評論家による対談集で、2015年8月の出版である。西尾については、膨大な著作がある割には、今まで余り読む気にならなかったーここで昨年(2021年)11月に、韓国の反日姿勢を中心に論じた韓国人との対談集(別掲)を読んだことを思い出した。今回彼の議論に接して、改めて彼の議論は私の好みには全く反していることが分かったが、それに対し、川口のそれは、それなりに理解できるものであった。何が、そうした感覚を分けているのだろうか? 

 主たる話題は、@ドイツでの歪曲された日本報道、A戦後の戦争責任を巡る日独両国の環境相違、Bドイツの存在感上昇(「ドイツ帝国の復活」)、そしてC原発問題といったところである。この中で、まず日本駐在のドイツ・メディアの報道により、ドイツの一般民衆間での日本の印象が悪化している様子が危惧されている。この部分は、現在ドイツに住む川口の報告が印象的で、左翼的な感覚を持つドイツ・メディアの日本駐在記者が、当時話題となった朝日新聞による従軍慰安婦問題の修正等を契機にする「戦争犯罪隠蔽」といった、安倍政権の「修正主義的」な政策についての批判を繰り返しているということである。そしてそれは、ドイツが、戦後、周辺国に対する戦争責任を明確に謝罪し、周辺国との関係を改善したのに対し、日本がそれをきちんと行わず、相変わらず韓国や中国と歴史問題で揉めていることに対するドイツの優越感―それは経済力で日本に凌駕されたことについての劣等感―が反映したものであるとされている。その日本批判がより鮮明になったのは、2001年の福島原発事故を受けたドイツの原発廃棄宣言であったことも、良く知られている通りである。

 この辺りの日独関係の展開は、歴史的な多くの要因が複雑に絡まった結果である。明治維新後、日本の明治政府が憲法や軍隊、教育など、往時のプロイセンを参考にしたこと、そして第一次大戦は、日本は連合国側に立ち、青島のドイツ軍を攻撃したこと(しかし映画「バルトの楽園」で描かれた通り、捕虜にしたドイツ兵士に対する処遇やドイツ文化への敬意は維持していた)。そして第二次大戦で、枢軸国として同盟、敗北し、敗戦国としての戦後を送ってきたが、ドイツは近隣の西欧諸国に受け入れられるための政策をとったのに対し、日本は近隣が中国や南北に分裂した韓国であったといった国際環境の相違があったこと。そして現代では、60年代の学生運動を共通に体験しながら、ドイツはそれが環境や反原発運動として継承されたにもかかわらず、日本では政治的遺産が残らないまま現在に至っていること等も、現在の両国関係に反映していると考えている。その意味で、ドイツ・メディアのジャーナリストが日本、特に安倍政権の保守修正主義的な政策に批判的であることは十分理解できるが、だからと言って両国間関係がぎくしゃくすることはない。実際、川口が述べている通り、安倍政権の戦争責任関係についてコメントを求められた当時のメルケル首相は、日本のそれには敢えてコメントせず、自国の対応だけ説明するという姿勢を貫いたのであった。川口は、こうしたドイツ人の日本観に懸念を示しながらも、ドイツ側の配慮も的確に伝えている。
 
 これに対し、西尾は、こうした議論に便乗し、特に第二次大戦時の日本による大陸侵略等は、アジア諸国の欧米列強からの解放であり、尚且つ欧米から追い詰められた結果行われたもので、ナチスによる侵略とは異なっている、また東京裁判は勝者による敗者弾劾で、「東条等は戦犯ではない」等々と主張することになる。確かに慰安婦や徴用工問題で、何度も「ちゃぶ台返し」を行う韓国への批判は受けるにしても、日本の戦争責任を真っ向から批判する(「日本は正しい戦争をした」!)こうした西尾の感覚は全く理解不能である。もちろん、ドイツも、ホロコースト故に、ユダヤ人やイスラエルには賠償を行ったが、当時のソ連を始めとする東側のみならず、ギリシャやイタリア等の西側諸国からの賠償請求も拒絶し、ただひたすら謝罪する外交を繰り返してきたことは知られている。それに対し、日本は少なくとも韓国に対しては賠償を実行しているし、東南アジア諸国に対しても同様の対応を行っている。それは少なくとも、両国が、当時の国際環境の中で、それなりに戦争責任を認めたことを意味しており、それを日本が否定することは道義的にも許されることではない。しかし、西尾はこうした戦争観を主張する著作を別に多く出版しているようである。そうした主張をする人間とは接触を最小限にしたいものである。

 表題となっている「膨張するドイツ」で取り上げられているのは、こうした「謝罪」を核にしたドイツの外交姿勢が、ここにきて変質し、EU内での指導力上昇を受けて、新たな「ドイツ帝国」を目指すような野望を持ち始めているのではないか、という議論である。

 この点については、かつて私がドイツから帰国した1998年時点でも、ドイツの自己主張が目立ち始めている、という議論をしたことがあるが、それから20年以上が経過し、特にメルケル政権の下で、益々EU内におけるドイツの発言力が強まっていることは間違いない。ただそれが「ドイツ帝国の復権」というところまで行くかどうかは、個人的には大いに疑問である。確かに、この本の出版当時のガウク大統領が、突然トルコによるアルメニア人虐殺を主張し始めたことは、韓国による慰安婦や徴用工問題、あるいは中国による南京大虐殺の主張と同様の、戦略性―ナチスによるホロコーストや中国文化大革命での被害の相対化の意図―を感じさせるが、ナチスによるホロコーストは、かつてドイツの歴史修正主義者が主張したようなスターリンによる粛清やカンボジアでのポルポトによる虐殺とは比較にならない程の歴史的インパクトがあることは、ガウク大統領のみならず、ドイツの指導者たちは皆理解していると確信する。他方、日本による南京大虐殺―その被害者数については諸説があることは確かであるーや韓国による従軍慰安婦や徴用工問題も、それに比較するレベルの問題ではないことも確かであるが、それについても日本は、主張すべきことは主張しつつも、それなりの誠意を持って対応していかねばならないと思われる。

 最近のロシアによるウクライナ侵攻を受けて、欧州におけるドイツの立ち位置が、ロシア、あるいは中国との関係見直しで大きく変化が起こっていることは言うまでもない。そして、最近の日独関係についても、この本で懸念されている状況とは大きく変わってきている。それは、この本の最後に取り上げられている原発問題についても同様である。この問題では、むしろ西尾が反原発で、それに対し川口が再生可能エネルギーへの過度の依存に対する懸念を示しているのは面白いが、足元はロシアからのエネルギー供給断絶を受けて、さすがの反原発国ドイツもそれの廃棄期限の延長と、Co2排出増加を許容しつつ、石炭火力への依存を強めている。国際関係におけるNATO結束の強化―この著作では、西尾は「構成国のエゴから、ユーロはなくなり、マルクやリラが復活する」と主張し、川口は、「それはない」と反論しているーと、ドイツの日米への接近とロシア・中国との距離感拡大も顕著である(川口は、この時点での、ドイツ国鉄による中国製車両購入計画について疑念を呈しているが、それが実現したという話は、その後耳にしていない)。NATOを通じての、ドイツのウクライナへの武器支援の強化も、この本の時点とは大きく異なっている。その意味で、現状ではドイツは、川口が予見した方向に進んでいると言える。

 ということで、1935年生まれ、今年87−8歳になる西尾は、むしろ「過去の人」となっているのに対し、川口は、ドイツ在住という立場を生かした情報力により、先日読んだ新書を含め、現在の日本に対するそれなりの有益な提言を行っているというのが、この著作での私の評価である。ある仕事を通じて、ドイツとの関係を再び有することになったが、川口のコメント部分については、足元の日独関係の変化を勘案しながら、その仕事を進める上で、大いに参考となる著作であった。

読了:2022年10月26日