アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第十一章 その他
ドイツ惠光寺の建築物語 1985−1999
著者:柄戸 正 
 昨年秋から参加し、年初からは本格的に事務局業務を手弁当で手伝っているNPOでは、略毎月ドイツ関係者による講演会を開催している。その7月の定例会では、清水建設のヨーロッパ社長等を務めた著者による、「ドイツ惠光寺建設とその時代」と題した講演が行われた。もともとは建設専門の技師であるが、退職後は著作や翻訳などを精力的に行っているようで、この講演も、2018年の出版された著作に基づくものであった。当日会場で入手したこの著作を、講演会での話を反芻しながら読了することになった。

 ドイツはデュッセルドルフのオーバーカッセルという地域に、浄土真宗の寺院であるドイツ惠光寺があり、仏教寺院であると共に、広く日本文化を広める役割を果たしているという。正式名称は、「ドイツ「惠光」日本文化センター」。この著作は、1980年代から90年代にかけてドイツに駐在し、この建設に深く関わった著者による記録である。この時代は、私自身も1980年代のロンドンを経て、1991年から1998年までのドイツ・フランクフルト時代と重なる。当時、フランクフルトから約250キロ離れたデュッセルドルフには公私共々数えきれないくらい訪問したが、この寺については全く知らなかった。知っていればもちろん一度は行って良かった場所であるが、その建設の経緯とその時代に著者が体験した各種の政治的・社会的事件等も思い出しながら読み進めることになった

 元々は、あるドイツ人が埼玉県にあった3棟の日本家屋を買収し、解体してドイツに移送したことに始まる。2棟は売れたが、売れ残っていた一棟を、計測器メーカー「ミツトヨ」の創業者会長で、仏教普及に熱心な沼田氏が買い取り、それを自社の欧州拠点があったデュッセルドルフでの日本文化交流センターとして建設する計画を、1985年、著者が勤務していた清水建設ドイツ拠点に持ち掛けたのである。そして著者は、この建設計画を回想することになる。

 デュッセルドルフ市の認可当局との交渉から始まる、日本様式の仏教建築が、ドイツと日本双方の人材と技術を集めながら進められ、1990年2月に第一期工事が、1992年11月に第二期工事が、そして最後に1999年、併設された幼稚園が完成されていく様子が語られる。こうした工事の進捗に加えて、当時のドイツ生活を中心とした海外駐在員の生活実感や、その時期に著者が遭遇した数々の事件―1986年のチェルノブイリ原発事故、1989年のベルリンの壁崩壊と翌年のドイツ統一、1992年の欧州地震、更には1995年の阪神神戸大震災やサリン事件等々―が挿入されている。

 1980年代は、私は6年間のロンドン滞在を経て日本に戻っていた時期であるが、1991年以降はフランクフルトに滞在していた時期であることから、こうした著者の体験を自らの記憶と重ね合わせながら、懐かしく読み進めることになる。またこの建設計画を進めた企業「ミツトヨ」は、当時私が勤務していた銀行の主要融資取引先であったので、ドイツ時代も名前は度々聞いていたが、証券業務担当であった私は、企業の詳細は今まで知らなかった。今回、その創業者が熱心な仏教信者であり、会社自体も仏教の世界布教を大きな目的として作られたものであることを初めて認識することになった。その創業者であり、この建築計画の中心人物は、建設途上の1994年、97歳で逝去したという。

 また著者は、ドイツ時代に言語で読んだ、ドイツ人作家が1936年に出版した「対馬」という、当初邦訳時の1943年には、当時の軍閥政権により発禁処分を受けたという日露戦争を主題とする小説を数年前に翻訳出版したことも紹介している。これも著者の多面的な活動を示しており、機会があれば読んでみたいと思わせる作品である。かように、この著者は、現役時代のゼネコンの建築技師を経て、退職後は文筆家に転じ、過去の経験を使いながら充実した日々を過ごしているようである。こうした生き方は、3年前の退職後、やや惰性で生きている私にも多くの刺激を与えてくれる。私も、現役時代の経験と知識を生かし、もうすこし手触り感のある成果を創れる可能性があるのではないか。主題であるデュッセルドルフの寺院建設の話や同時代の事件、あるいはドイツや欧州観光旅行的な話以上に、そうした自分の今後の生き方に対する示唆を与えてくれた作品であった。

読了:2023年7月23日