序論
未曾有の不況の中で、日本は今第二の敗戦を迎えていると言われる。55年体制の崩壊という政治再編から始まり、規制緩和と金融秩序の再編という経済的大変革に至る流れは時代の変革がいかに早く進むかを我々に教えてくれる。冷戦の終了から僅か10年も経たないうちに、世界は新たな秩序を求め急速に変化し、日本はその中で、方向感を見つけられず、もがいている。
しかし、欧州、なかんずくドイツはまさにこの冷戦終了の瞬間に、日本よりも一足早く歴史の激動を経験していた。世界のグロ−バル化が、それまでは冷戦という構造で抑制されていたエネルギ−の急激な発散現象であるとすると、まさに足もとの世界的変革は1989年のドイツから始まったと言える。
しかしそうした激動の背後に、常にそうした一時的な熱狂を越えるような通奏低音があることを無視してはならない。そうしたそれぞれの国民国家、民族、文化の古層は、常に歴史的観察の中から見出されるのである。
そうした観点から、ドイツについての書物逍遥を始めるに当たって、私はまず阿部謹也の世界から始めることにしたい。何故なら、文献学的手法によりドイツ中世の庶民的思考様式を跡付ける彼の作品は、同時にそのある部分が、現代のドイツにおいても、ゲルマン的習俗とキリスト教が混交した世界の中に通奏低音として生き続けていることを示す格好の素材と考えられるからである。
個人的にも彼の書物は、私がドイツに赴任し、まずライン渓谷に沿った、こじんまりとしてはいるが美しくまとまった(その意味では典型的なドイツの田舎町である)ボッパルドという町で、2カ月にわたる泊まり込みのドイツ語の研修を始めた際に初めて読んだ、そしてまた約7年の滞在を経て帰国した後に日本で初めて読んだ、ドイツに関する書物であった。その意味で、私にとってもこの阿部によるドイツ中世史の世界は、今回のドイツ生活の開始と終了を象徴するという、個人的な思い入れのあるものなのである。