ハ−メルンの笛吹き男
著者:阿部 謹也
ハ−メルンの宙吹き男の話は、我々が幼少時よりグリム童話等で親しんできたものである。童話の挿し絵に描かれた極彩色のピエロ風の服装をまとった笛吹き男の印象は強烈で、丁度私の幼少期にまだいた、どこからともなく現れ子供を引き付け、どこへともなく消えていく紙芝居屋のイメ−ジと共に子供の心に刻印されたものだった。この阿部謹也の本は、中世のハ−メルンを発祥地とするこの伝説を、テキスト・クリティクにかけ、この物語が伝承として成立していく過程を検証しつつ、それを通して伝承の担い手となった人々の当時の生活を探ろうとしたものである。結果的には著者の意図は見事に示され、通常の政治・経済史では必ずしも表面に現れないドイツ中世の民衆の生活や、政治的事件の民衆への影響等が生き生きと描かれることになった。鼠に悩まされるハ−メルンの町に、見知らぬ男が現れ、報酬を条件に鼠退治を請負った。男は笛を吹き、町中の鼠を集め、川に誘い込んで退治したが、町の人々は報酬の支払いを拒絶。怒った男はその後再び町に現れると、今度はその笛で町中の子供を集め、130人の子供たちと共にどこへともなく消え去った。それは1284年6月26日の出来事であり、悲しみにくれるハーメルンの人々はその後の歴史を、「子供たちが居なくなってから何年」と数えるようになった。
この物語は本当にあったのか、あるいは子供たちの何らかの理由による失踪が、笛吹き男の物語を通じて語り継がれたのか、そしてそれが伝承の過程で如何に変容していったのか、そしてその変容の理由は何だったのか。これが著者の思考の出発点である。
最初の2つについては既に400年にわたる研究史の中で数々の説が出されてきた。その中で著者が検討に値すると見るのは9つ。以下項目だけ挙げると、@舞踏病、Aジ−ベンビュルゲンヘの移住、B子供の十字軍、C偽皇帝フリ−ドリッヒ2世の後を追った、E崖の淵から水に落ちて死亡、E地震による山崩れで死亡、Fゼミュ−ンデの戦いでの戦死、G死の舞踏、そしてH東ドイツ植民、以上である。そしてこれらの説を検討していく中から、中世の民衆の生活が浮き彫りにされてくるのである。
これらの説の中でまず著者が取り上げるのは、Fの仮説である。政治的に見ると、13世紀のハ−メルンは、この地域の伝統的権力であるフルダ修道院とその上部組織であるミンデン司教区という教会権力と、従来からの守護職であったエ一フェルシュタイン家及び新進の領主、ウェルフェン家という封建領主の間で三つどもえの争いが繰り広げられていた。こうした中でミンデン司教と、エ−フェルシュタイン家及び市民軍との間で戦われたゼミュ−ンデの戦いは、教会側が勝利したとはいえ、この時期の都市の勃興を物語るものであったといえる。この時期に成立したこの民話の原形は、この戦いで戦死した市民軍の若者たちの鎮魂であり、笛吹き男はこの軍の先頭に立った「喇叭手」であったと見るのである。
しかしこの解釈は、この民話を都市の勃興期における「祖国解放戦争」のイデオロギ−とする限り、時代意識を反映しているものの、実際には民話の成立年代とのずれや、「笛吹き男」や「鼠捕り男」との結びつきの欠如等の問題がある、と著者は見る。こうして著者は大状況の事件から、より背後に潜む民衆の生活に視線を下げていく。そこで提示されるのがHの東ドイツ移民説である。
この時期、オランダや西部ドイツからドイツ東部、さらに東欧に大量の人口移動が見られたという。これは数百年後にナチによるドイツ人居住者保護を口実とする侵略と敗戦後のこれらのドイツ人の追放という悲惨な結果をもたらすことになるのであるが、重要なことは、この時期の人口移動が日本の農村に見られたような単なる逃散ではなく、都市の勃興、商業の発展、そして新たな形での領邦支配体制の確立という社会的激動を原因としたものであったということである。こうした新天地への移動は専門の植民請負人が人集めをおこなっており、従ってこの民話も「笛吹き男」である植民請負人と共に去っていった若者たちへの尽きぬ思いが伝承されたものである、と考えるのである。著者はこの説にも幾つかの疑問を呈するものの、基本的には共感を示しつつ、当時の民衆の姿をより子細に検討していく。
こうして勃興期の都市で渦巻く身分制原理と金銭・財力の原理との確執や、そのいずれからもはじき出される都市下層民の姿、あるいはその中における子供の地位、そして「笛吹き男」の原形たる中世の遍歴芸人の姿が生き生きと描かれていく。特にボッシュやブリュ−ゲルの図版をもふんだんに挿入しつつ描く中世の下層民、乞食、病人、子供たちの生活は、もはや笛吹き男の伝説を越えた、私がアリエスやフーコ−で親しんできたヨ−ロッパ中世の民衆史の世界である。また教会権力からも世俗権力からも疎外され放浪するゲルマンの遍歴楽士の世界も、山口昌男風にいえば、トリックスタ−と共同体との緊張した関係を示唆している。
こうした作業を経た後、著者は、16世紀以降、新たな政治秩序のもとでこの伝説が変容していく過程とその要因分析を行うことになる。1540年、ハ−メルン市は宗教改革を断行しルタ−派に移行した。この新しい秩序のもと、ルタ−派の理念は、2つの強力な敵との闘争の中で貫徹されねばならなかった。ひとつは中世以来長らく日常生活の外的規範を形成してさたカトリック教会の秩序に対する闘争であり、もう一つはこのカトリックの支配にもかかわらず民衆のもとで生き続けてきた異教的慣習との闘争であった。折りも折り、この時期ハ−メルンを数々の災禍が襲った。ベ−ゼル川の大洪水、干ばつによる飢饉、大火、ペストの蔓延、そしてまさにハ−メルン市の門前で戦闘が行われた宗教戦争。こうした不幸の連続の中で、この笛吹き男の伝承は、市当局とルター派により、カトリック信者に対する神の祟りというイデオロギ−的意味を付与され、また民衆の側も、この古い物語を今更のように想起していったのである。これ以降、笛吹き男のイメ−ジは、折りから行われていた魔女裁判とも相まって、一種魔術師的なものへと変容していくのである。
同時にこの時期に初めて笛吹き男の伝承に、鼠捕り男のイメ−ジが重ね合わされてくる。中世のみならず、18、19世紀に至るまで穀物保管に際して、鼠害を如何に駆除するか、というのは大きな問題であり、有効な対策がなかっただけに、この種の説話は欧州の至る所に残されている。ハ−メルンにおいて、この2つの伝承が組み合わされることになる要因を著者は、共同体の中で解決できない問題を処理するために現れる放浪者、即ち共同体を超越する超自然的な力の現れ、という点においての共通性に求めている。そして先に述べた、この時期の数々の災害が民衆にもたらした恐怖のもとで、このドイツの一都市の伝承が欧州全体にまで知られるほどの普遍性を持ち現代にまで伝えられることになるのである。
こうしてドイツ中世史における宗教改革という人為的文化創造が、ある一定の生産力レベルにある社会の土着性に及ぼした影響が、伝承という形で定着していく姿が明らかにされていくが、この社会過程はその後、日本と同様に文化的・社会的異質性を内包しながら、近代に至り新たな軋轢を生み出すことになる。第二次大戦後のドイツの再度の民主化は、こうした歴史の古層を持つドイツを如何に欧州の共通の友として受容させていくか、という試みであったように思える。その意味で、この阿部の作品は現代ドイツを理解する上での出発点としての価値を有しているのは確かである。しかし、ここではあえて先を急がず、彼のその他の作品にもまず目を通しておこう。
読了:1991年10月26日