ドイツ・ナショナリズム
著者:今野 元
先日読了した「中国・ナショナリズム」に続き、同じ中公新書の2021年10月出版の本書を読んだ。先に読んだ「中国ナショナリズム」は、清末以降欧米列強の侵略を受けた中国が、そのナショナリズムを、上からと下からの力関係の中でどのように操作しようとしてきたかを中心に中国近代史をまとめたものであったのに対し、本書は、著者言うところの、「『普遍』と『固有』のグローバルな対立の一事例として、2千年のドイツ史を説明する試み」である。著者は1973年生まれで、現在は愛知県立大学外国語学部教授として、ドイツ政治思想史等の研究を行っている。私は初めて聞く名前であったが、別にマックス・ウエーバーを扱った新書等も出版している。
ドイツ近現代史については、300以上の領邦国家が緩い繋がりで結ばれていた中世の神聖ローマ帝国が、近代の国民国家誕生の動きの中で、オーストリアを中心とするハプスブルグ帝国と、プロイセンを中心とした北ドイツ同盟にまとまっていき、後者が19世紀末に最終的にドイツ帝国として統一されたというのが、大まかな私の認識である。この著作でもそうした枠組みは変わらないが、著者はそれをもっと詳細に追いかけていく。そうした中で、中世キリスト教文化から、近代の「自由・平等・人権」、そして現代では「EU、環境・ジェンダー」といった「普遍」価値とドイツ「固有」の意識がせめぎ合いながらこの国を巡る歴史が形成されていることを確認した上で、第二次大戦以降は、いったんドイツ「固有」を自己否定し、「腰の低い脇役」であったドイツが、どのように「主体性に目覚め、欧州指導を引受ける覚悟を固める」に至ったかを跡付けようとするのである。
古代ローマ世界とゲルマン世界の接触から、神聖ローマ帝国という形で、キリスト教普遍世界が成立するが、その中では「ドイツ的固有」が表面化したのが「イタリアからのドイツ自尊心が火を噴いた」宗教改革であったということだけ抑えておけば十分であろう。その後続いた宗教戦争は、次第に「ドイツ国民意識」の基盤を形成していくことになる。しかし、ドイツがプロテスタントで統一された訳ではなく、引続きそこではローマ的キリスト教普遍世界と領邦国家への帰属意識という「固有」の共存は続くことになる。
これを決定的に揺さぶったのが、フランス革命による新しい「普遍」と、それに対するドイツ「固有」の反応であった。「身分制国家である神聖ローマ帝国は、『自由・平等・博愛』を唱えるフランス共和国との愛国主義の競争を迫られる。」そしてナポレオン没落後のウィーン会議を経てドイツ連邦が成立するが、これは「領邦君主制と国民国家原理との融合の試みであった」というのが著者の評価である。しかし、これは中途半端な理念から求心力を失い、結局ドイツ「固有」を体現したビスマルク率いるプロイセンによる「小ドイツ主義的統一(ドイツ帝国)」に席を譲ることになる。そしてビスマルク失脚後、益々そのドイツ「固有」意識を強めたヴィルヘルム2世の下で、ドイツに対する脅威を懸念した英仏露連合との戦争に向かっていく。ただこの対立は、私の見方では、欧州的「普遍」対ドイツ「固有」という理念の対立ではなく、単なる地政学的な覇権争いである。そして敗戦後、特にアメリカ的なリベラリズムという新たな「普遍」への適応を試みたドイツは、それに失敗し、「固有」としてのナチズムに傾倒していくことになる。第二次大戦での敗戦以降は、欧米型自由民主主義と、ソ連型社会主義という新たな「普遍」に国自体を引き裂かれることになるが、このあたりのドイツ現代史については、著者からの取り立てて新鮮な見方はないので、詳細は割愛する。
戦後の西ドイツの姿勢を著者は「萎縮」という言葉で表現しているが、それがより顕著な形で現れたのが「68年世代」による「破壊による再出発」であったことは言うまでもない。この運動について、著者は詳細に説明しているが、これはまさに私自身が強い影響を受けたものであり、久し振りにそれをまとめた記述に接することになった。しかし、著者は、そうした「68年世代」による思想や論争についての最近の流れまでフォローしているのが、私にとっては、この著作の最大の収穫であった。
著者は、まずこの「68年世代」による「破壊による再出発」の発想には4つの含意があったとして、@「発想転換による苦痛緩和」、A「慣性的平和主義」、Bグローバル化≑アメリカ化への順応、C「道徳論の形態をした下剋上」を挙げている。このうちCについては、「道徳の棍棒による、安全安心ないじめ」とまで言っているが、論争をこうした表現で語るのはどうかな、というのが私の正直な感想である。そして1980年代の「歴史家論争」を経て、ドイツの社会思想が、「憲法愛国主義・多文化主義」に向かっていったのは、やはり画期的な流れであった。しかし、この流れも、1990年のドイツ再統一以降は、大きく変化していく。特に、この再統一は、「68年世代」にとっては晴天の霹靂であった。彼らにとっては、「ドイツ国民国家の復活など起きてはならない出来事」で、「知的な人々は統一など望んでいない」にも関わらず、統一ドイツが誕生することになったのである。確かに、ドイツ統一後、ハーバーマスやグラスは、実際に起こってしまった統一という事態の中で、立ち位置を模索することになり、その存在感を弱めていく。冷戦の終結により、新たな「普遍」として欧州連合(EU)の比重が増し、またドイツは、マルクを放棄することで、これに従う姿勢を示す。しかし、他方で、統一以降ドイツ「固有」の復活も見られるようになる。それは「68年世代」が「死滅」を予測した「国民国家」の復活を主張する「90年世代」の台頭という形で現れることになる。ここで著者が紹介しているハンス=ペーター・シュヴァルツやハイモ・シュヴィルク、ポート・シュトラウスといった名前は、私が初めて聞くものであるが、彼らは「市民」に基盤を置く「憲法愛国主義」は非現実的で、「固有」の基盤を有する「国民意識」の復活を主張することになる。それはまたEU内でのドイツの責任を強く意識させるもので、「68年世代」の「自虐史観」からの脱却を主張することになる。但し、こうした「国民国家復権論」は、周辺諸国の警戒感もあり、統一ドイツの国家方針となることはなかった。そして理論面では、「68年世代」と「90年世代」を架橋し、「欧州的国民国家論」を唱えるH.A.ヴィンクラーやH.シュルツェといった論者が登場したという。彼らの議論は、「ドイツが国際政治の舞台に復帰すること」を望みつつも、ドイツは「欧州的国民国家」になり、「欧州的価値」を牽引しながらも「他の西欧諸国に対して傲慢になることを戒める」というものであり、確かに西欧的「普遍」を尊重しつつ、ドイツの「固有」にも配慮するという、バランスのとれた議論であると言える。実際、まず1998年秋からのSPDシュレーダー政権は、「『68年世代』の理念を体制思想として定着させ、ドイツ連邦共和国を西欧的=『普遍』的価値の学習国から牽引国にすることに貢献」し、また2005年からのメルケル政権下でのドイツの振舞もこうした発想で行われ、結果的にEU内におけるドイツの指導力の向上と信頼感の育成に効果があったように思われる。
他方で、著者は、「過去の克服」への積極的な取り組みに加え、ドイツの国民的自尊心を再建するための諸政策(「固有」制の強調)も行われたとして、その例として、歴史学会を中心に、@西独史の称揚、A前近代史の発掘、B被害者としてのドイツ人への注目、C東独の否定、D軍事史の復興などの試みが現れたという。君主制(ベルリン王宮やコブレンツでのヴィルヘルム大帝像の復元等)、教会(ドレスデン聖母教会堂の復元等)、軍隊(各種軍事祭典や戦没兵士慰霊の実施等)に関しても、「NS政権に関わらない範囲」でも同じようなドイツの「固有」を打ち出す試みが登場してきた。著者は、こうした動きを、「68年世代」が主導した「知的戒厳令体制への反攻」と表現しているが、同時に旧東独での非差別意識の広がりや更に増大する移民問題、そして本書では触れられていないが、足元での新型コロナ対策やロシアのウクライナ侵攻といった問題が、ドイツにおける「普遍」と「固有」の緊張を高める可能性もある。著者は、「西欧的=『普遍』的価値の優等生とされるドイツも、アメリカのオバマ政権からトランプ政権へのような転換を、何時引き起こすか分からない状態にある」として本書を結んでいるが、こうした国際主義とナショナリズムの闘いは、ドイツだけでなく世界中で今後も続いていくのであろう。
既に1998年の私のこの国からの帰国時に、既にドイツの主体的な動きが目立ってきていたことは、別掲の「ドイツ読書日記」の序文にも記載したとおりである。それから20数年、政権としてはSPDのシュレーダーからCDUメルケル首班の政権を経て、上記の思想的動きも踏まえて、ドイツは慎重に欧州での主導的役割を増してきたと言える。現在のウクライナ危機は、足元は英国のEU離脱等による「欧州分裂」の流れを止め、欧州諸国の一体感を高めているが、もちろんそれはこの地域の本質的な課題を解決した訳ではない。国民国家を越える枠組みと国民国家の、そして国民国家とその内部での地域主義の緊張は、当然これからも続いていく。そしてそれに今回は、民主主義国家群と権威主義的国家群の対立の顕在化という新たな要因が加わることになった。そうした中で、新たに成立したSPDシュルツ政権と、そこでの社会思想がどのような展開を示すことになるか、興味は尽きない。
読了:2022年4月20日