アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第一章 序論 歴史からの出発
物語 ドイツの歴史
著者:阿部 謹也 
 ハ−メルン研究から始まったこれまでの3冊が、ドイツ中世の民衆世界そのものへの旅であったとすれば、著者のこの新しい著作は、こうして蓄積した細部への造詣をもとに現代に至るドイツ史を中世に形成された概念を軸に語ろうとする意欲作である。その意味では、これまで取り上げてきた出発点としてのドイツ中世が、いかに現代に至る流れの中に位置付けられるかを著者自身が試みた作品であると言える。それが説得力を持つかどうかがこの書物への最大の興味であったが、結論的にはそれはやや物足りないものであった。ここではその不満がどこから来ているのかを中心に考えてみたい。

 著者が通史の基底に置く概念は、まず欧州におけるドイツの位置(所謂「ドイツ問題」)、次に中世の庇護権(アジル)、そして呪術的なものに対する憧憬と近代化指向の対立という3つであるが、特に後二者がより重要な概念となっているように思える。

 まずアジルについては、本来の逃避場所としての教会に加え、12、13世紀に成立しつつあった都市が「独立した法を持つ閉鎖的共同体」として現れ、それを担う聖俗界の諸侯が独自の倫理と文化を持つ人間集団を作り出していったため、中央集権が欠如し、自力救済に依拠する不安定な社会の中に、公権力も介入が制限されるオアシスが形成されるという、特殊ドイツ的展開を遂げたと言う。12世紀の皇帝によるラント平和令は、こうした公権力を排除するアジルを公権力が設定しようとした皮肉な試みと理解されるが、こうした逆説は確かにドイツの近代にまで連綿と持続したと解釈できないことはない。

 ドイツの位置については、こうした都市の成立と中世以降の東方移民が一つのヒントを示している。即ち中世以降の西部ドイツでの近代化の歪みによる緊張は、政治レベルにおける諸侯国家の確執を帝国が調整したのに対し、「民衆の生活の危機はドイツ本国と東方植民地との文化的均衡と都市市民層と農村の封建秩序との解きがたい二元性の中で抑えられた」と言われる。後に「ドイツ問題」として、地勢学的にドイツが直面する問題は、既に中世ドイツの拡張過程で、東方植民地という周辺部と、都市という中心部の2つのアジルにより取り合えずは吸収されていったと理解されるのである。しかし、14、15世紀の中世末期には、まずはペストの流行(死の舞踏)、続いて宗教改革・農民戦争の勃発という形で国内的な危機が深まっていく。またこうしたアジルに保護されず、逆に迫害の犠牲者となる民族として、従来から定住していたユダヤ人に加え、ロマがこの西ヨ−ロッパ地域に出現するのも、この中世末期であったと言われている。

 ルタ−の宗教改革は決してドイツの近代を生み出したわけではなく、そこで生まれたのは「国家と宗教が結びついた身分制国家」であった。しかし他方でそれが「ヨ−ロッパが11、12世紀に個人を誕生させて以後、その個人を一切のしがらみから解放する舞台を作った」点については著者も評価している。後にト−マス・マンがゲ−テと対比させて論じたルタ−のファナティズムはある意味で、呪術的ドイツと近代的個人の確立という啓蒙的ドイツの緊張の現れであったと言えるのである。

 農民戦争の終結を受け、領邦国家としてのドイツの枠組みが固まることになる。各領邦で権力が君主に独占されていったが、それは何よりも宗教の独占を通じて行われ、その結果ドイツ内部で宗派ごとに特色のある生活空間が生まれることになった。これは、ジェントリ−による支配が行われていたイギリスとも、絶対王政下のフランスとも、市民の共和国を作ったオランダとも、また貴族の共和国であったボ−ランドとも異なった体質をドイツにもたらしたと言う。そしてこの領邦国家としてのドイツ的特質は、17世紀初頭の30年戦争による荒廃を経て18世紀の啓蒙専制の時代にまで受け継がれていく。

 ゲ−テの時代と称されるこの18世紀は、政治・経済・社会的枠組みに変化は見られないものの、アジルとして独自の発展を遂げた都市の中で、個人の意識が変革されていった時代であった。ケ−ニヒスベルグでの「日常生活の小秩序」に埋没しながらも、宇宙へと意識を飛躍させたカント、あるいはドイツが政治的に国家の体をなしていないが故に様々な文化活動の中にアイデンティティを求めていったゲ−テのような啓蒙理性が誕生することになったのである。そしてフランス革命の影響も受けながら、この流れは所謂教養市民層の成立を促していくが、これがまた特殊ドイツ的発展を遂げたことは、後に第四章で取り上げる野田宣雄の研究で明らかである。

 ナポレオンの支配から解放された、ウイ−ン会議が開催された1814年以降は、ドイツに国民国家が形成される過程に入っていく。プロイセンはザクセンの北半分とライン中流域を含む地域を手に入れるが、独立国家連合という形による統一ドイツ連邦を形成しようというプロイセン案はメッテルニヒにより阻止される。代わりに1815年6月にオ−ストリア、プロイセン他4王国等の緩い連合によるドイツ連邦が成立し、またプロイセン内部では農場領主に有利な不完全な形での農民解放に基づく「ユンカ−経営」と「官僚絶対主義」が誕生し、19世紀後半のビスマルクによる統一へと向かう歩みが開始される。39の異なった連邦国家が異なった貨幣と関税制度を持つという経済的分裂状態は、1834年のドイツ関税同盟となって前進する。F.リストの提唱による鉄道網の拡張も統一への大きな契機となった。こうして1848年のフランクフルト、パウルズ教会での憲法制定議会が開催されるが、それは民意によるドイツ皇帝冠をヴィルヘルム4世に拒絶され、反革命により潰されることになるが、この革命・統一運動の150周年を祝う展覧会が私のフランクフルト最後の日々を飾る企画となったのである。

 ビスマルクによる統一からドイツ帝国の発展と第一次大戦による没落、ワイマ−ルの狂乱とヒトラ−による破滅への疾走は、この書物の中では教科書的に語られるので、あえてここで記すべきことはない。むしろ著者は、最後にこの書物を貫く通奏低温である「アジル」につき整理しているので、これを見ておこう。

 ボン基本法で規定されている「庇護権」は、中世を貫いてきたドイツの国内的伝統上に位置すると共に、特に近代において多くの難民・亡命者を輩出してきたドイツからの回答であった。しかし、東西ドイツ統合とロシア・東欧社会主義国家の崩壊を経てドイツ国内における移民問題が、失業増大とネオ・ナチ運動の拡大という形で先鋭化すると、この現代の「アジル権」は1993年の憲法改正を経て政治亡命者の狭いカテゴリ−に限定されることになる。しかし限定されたとはいえ、それは存在しており、この点で著者は不法就労者が増大するものの庇護権規定のない日本の歴史と制度とは異なる、ドイツ固有の歴史から生まれた発想であると見なしている。

 分裂と戦争に彩られたドイツの歴史。著者は、その英国やフランスと異なるその不幸な中世の経験がドイツ人の性格(例えばとことん泥酔することのない酒の飲み方)を形成してきたというエリアスの見方を紹介している。都市における知的伝統と環境の中にドイツ人問題を解く鍵があると考え、不可視の世界を司る教会との密接な連合の上で生まれたドイツの帝国がその後のドイツに深い傷痕を残した。しかしナショナリズムの時代を終え、ドイツは今欧州連合の一員として更なる統合の道を歩んでいる。その過程で、ドイツ中世の伝統の内、最良の部分がどこまで残り、また問題ある部分がどこまで払拭されるかはまだ甚だ曖昧である。そしてこの点が、一般的に平坦な通史に比較すれぱ、歴史観の裏付けを持っていると思われるこの書物に対しても最後まで残った不満であった。

 現代ドイツの諸問題がドイツ中世に起因するという歴史観は確かに説得的である。そして著者はそうしたドイツ的特性が形成される様子を、専門領域である中世史の豊富な知識をもって跡付けている。しかし、そうした特性が、近代以降、就中20世紀の2回の悲劇の過程で如何に顕れていったか、という現代史の叙述に入ると、筆は突然表面的な事実記載に流れ、そしてまた最後に突然、その経験を受けた現代のアジル論に飛躍していくのである。しかし、実際に最も重要な「ドイツ問題」とは、著者が分析した中世ドイツの特性がドイツ現代史の通奏低音となったことを論証することにあったのではないだろうか。私がこの書物に期待していたのは、まさにこうした、「現代に反映している過去」をアクチャルな問題として議論することであった。戦後の庇護権の問題は、この悲劇の分析の中から自ずと導き出される結論である。
もちろん、著者は中世史の専門家であり、例えばフランクフルト学派が複数の有能な研究者によりやっと試みた、現代史の一部についての分析を、著者一人に負わせるつもりはない。その意味では、私の不満は、当初の期待の大きさ故であり、それを別にすれば、この書物が標準以上のドイツ通史であることは間違いない。その意味で、これから進めようとしているこの個人的なドイツ総括の中で、この課題は私自身の問題として提示されたと言える。そうした問題意識を持ちながら、これから阿部の中世ドイツ論を出発点としつつ、より広いドイツの荒野に足を踏み入れていこう。

読了:1998年9月11日