マルティン・ルター
著者:徳善 義和
1932年生まれのルター研究者―そして恐らく自身もプロテスタント神父なのであろうーによる2012年出版のルター伝である。著者は、東大工学部を卒業後、改めて日本ルーテル神学校(そんな学校があるのだ!)を卒業後、出版時点ではルーテル学院大学、ルーテル神学校名誉教授ということなので、筋金入りのルター研究者のようである。内容については神学的議論、協議問答的な部分も多いが、それでもルターの生い立ちから宗教改革に至る道程とその歴史的意味について、当時の政治・社会情勢も考慮しながらの分かりやすい説明となっている。
ドイツ中部、旧東独チューリンゲン州のアイスレーベンで、裕福な実業家の子供として1483年に生まれたマルティン・ルターは、親の期待を受け、家業を継ぐために大学エアフルト大学で法学を学んでいたが、ある日、目の前で雷が落ちたのを境に突然大学を辞めて修道士となる決意をする。親の激怒と猛反対を受けながらも彼は修道士としてエアフルトにあったアウグスティヌス修道院に入る。こうして彼の偶然の意趣変更が、その後の欧州の歴史的大転換をもたらすことになったとされる。ルターが雷に遭遇し啓示を受けた場所には、今でも記念碑が立っているということでその写真も紹介されているが、この辺りはある種「伝説」的なものもあるのだろう。
修道院での厳しい修行生活が始まり、著者はその様子を克明に描写しているが、そこでルターが様々な教理的な葛藤を抱えながらも、修道院にあった、聖書を始めとする当時としては貴重な書籍を読み漁りながら、神学者への道を突き進む様子が語られる。彼は確かに優秀な研究者であると共に、聖書を通じて真剣にキリスト教そのものと向き合っていったことは間違いない。そして1511年、教会の命令でヴィッテンベルグ大学教授となるが、ここで彼の名声が一気に高まったということである。
ヴィッテンベルグは、エアフルトトベルリンの略中間に位置する街で、人口も当時2000人程度で、そこの大学も単なる新設の田舎大学であったが、ルターと、その後彼の同伴者となるメランヒトンの評判で、ドイツ各地から多くの学生が殺到し、宿舎にも困る事態になったという。シェイクスピアが、デンマーク王子ハムレットの留学先としたのもこのヴィッテンベルグ大学であったというのも、面白い話である。
こうしてルターは聖書研究と大学での講義を進めると共に、街の庶民とも接触し教理の伝搬に努めるが、その中で彼が葛藤する様子が描かれる。この辺りは教理問答的なので省くが、こうした中から既存のローマ・カトリック教会の活動に疑問を持ち、聖書のみを拠り所にする、という後のプロテスタント教義の中心概念を確信していくことになる。それが表明されたのが、1517年に彼が教会の扉に掲げた「95箇条の提題」であり、これは宗教改革の嵐の始まりとなったことは良く知られている通りである。
以降は、この宗教改革の展開が、当時の政治・社会情勢を絡めながら説明されるが、ローマ・カトリック教会からの「異端」告発に対し、当時新たな社会勢力として勃興しつつあったドイツ北部の選帝侯がルターの支持に回ったことが、カトリック側からの攻撃(アウグスブルグ審問、ライプチッヒ討論、ウォルムス喚問という3つが大きな山場であった)を阻止し、ルターがこの運動で勝利する要因となる。この辺は大昔の西洋史で習った宗教改革の復習であるが、ウォルムスからの帰途、彼が突然消息を絶ったのが、ルター支持派の選帝侯による偽装誘拐であったというのは知らなかった。そして彼はワルトブルグ城に匿われ、そこで聖書ドイツ語訳を完成させる。そしてそれを完成させた後は再び民衆の下に姿を現し、自らの主張を直接庶民にも訴えていくのである。その過程で、一方では例えばヴィッテンベルグの街で過激な改革運動が発生した時は、それを抑える側に回る等、政治的なバランスにも配慮していく。その意味で、やはりルターが、教理面のみならず、社会運動家としてのとてつもない才能も有していたことが、この運動の成功をもたらしたと考えられる。また当時グーテンベルグにより発明され急速に広がった活版印刷術も、ドイツ語訳聖書を含めたルターの著作が広まる一因になったというのも良く知られている通りである。他方、礼拝における讃美歌(コラール)歌唱という習慣もローマ・カトリックにはなく、ルターが始めたということ、しかしこの時ルターが作曲した「神はわがやぐら」(ルターには音楽的な才能もあった!)がそれから400年余り後、ナチスの行進曲として使われたというのは知らなかった。また1525年には運動に共感した修道女と結婚し、男の子を設けたという話も披露されているが、そうしたルター家の末裔は、今はどうしているのだろうか?
こうして宗教改革の大きなうねりと、晩年のルターとエラスムスの論争や、ドイツ農民戦争へのルターの態度、そしてヴィッテンベルグ大学での最後の聖書講義等が紹介され、その講義を終えた1546年、彼は生まれた町アイスレーベンで63歳の生涯を閉じることになるのである。誠に壮大な人生であったと改めて感服する。
もちろん彼には、後にナチスにより政治利用された反ユダヤ的発言もあったり、ドイツ農民戦争等で示された過激主義への嫌悪など、現在でも議論を呼ぶ論点は多い。他方個人的には、彼が聖書のドイツ語訳を完成させたワルトブルグ城は、ドイツ駐在時に何度も客を案内して訪れた懐かしい場所である。しかしヴィッテンベルグを始めとする旧東独にあるその他のルター所縁の街には行く機会がなかった。この新書に紹介されているこうした街を訪問する機会を持ちたいと改めて感じさせられた著作であった。
読了:2024年3月4日