アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第一章 序論 歴史からの出発
ワイマル共和国
著者:林 健太郎 
 「ヒトラーを出現させたもの」という副題がついた、1963年11月初版発行のワイマル政治史の古典で、私が今回手に取ったのは2018年8月の第45版。ドイツのこの時代については若い頃から多くの著作に接してきたが、この何故かこの古典は読んでいなかった気がする。そして実際読み始めると、もちろん大きな流れは知ってはいるものの、この「民主主義」が如何に崩壊し、1933年のヒトラー政権獲得に至ったかを詳細に論じられていることから、改めてこの時期のドイツ政治の問題を確認することができた。著者は、1913年生まれで、2004年に逝去しているが、私の記憶では、大学紛争時代に保守派の立場からそれに批判的な立場を取っていた。そんなこともあり、若い頃は彼の著作を読む気にならなかったのかもしれないが、今となっては、そうした「若気の至り」を恥じるばかりである。

 そのワイマル時代であるが、1918年11月、第一次大戦での敗戦を受け、ドイツで革命が起こり、帝政が崩壊し、当時「史上最大の民主的憲法」に基づくこの共和国が生まれる。しかし、その共和国は、当初から敗戦に伴うヴェルサイユ条約による膨大な負債とその履行を強要する連合国、なかんずくフランスによる政治圧力、そしてそれによる天文学的なインフレから混迷を極め、一旦はそれを収めるものの、1929年の大恐慌勃発と共に再び混乱し、結局ナチスによる独裁政権の成立で消滅していったというのが、誰でも知っている大きな流れである。しかし、そこでは多くの政治家が危機を回避すべく動いていた。それにも関わらず何故この共和国が失敗したのか?それを改めて復習することになるのであるが、結論的には、それもよく言われるように、この共和国が「小党分立」する状態が続き、またそうした政党が、ドイツ国家や国民全体の利益を考慮することなく、自らの利害関心に拘泥していたからだ、ということになる。しかし、この著作で細部を見ていくと、単純にそう言い切れる訳でもなく、そこでは多くの有能な政治家がそれなりの努力を示していたことが分かる。しかし、それにも関わらずそれが報われなかったのは大きな「歴史の皮肉」であった。現代の民主主義国に生きる我々にとっても、この時代の歴史は何度復習しても十分と言えることはない、というのが改めて感じるところである。著者は、そうした諸政党と主要人物の駆け引きを中心に、この「共和国」の展開を詳細に描いているが、ここでは夫々の時期のポイントのみを簡単にまとめておくことにする。

 まず「共和国の成立」であるが、社会民主党主導によるこの体制は、キール軍港での兵士の反乱やそれへの労働者の合流といった「大衆運動」の結果として成立したもので、その社会民主党も政権が転がり込んでくるとは予想していなかったという。そして「(エーベルト等の)党首脳部と党を支持する大衆ないし(労兵協議会等の)中間の下部指導者とのあいだには、気分において少なからぬ相違がある」中、指導部は、依然力を持つ軍部の力も借りながら、極左的な革命運動は押しとどめたものの、その「議会主義」は、旧帝政派を含めた右派にも配慮した体制とならざるを得ず、首都ベルリン等では極左グループと軍部等の右翼の抗争が頻発することになる。しかし、成立直後にこの政権は労働時間制限や失業者救済といった「労働者の社会的地位の公的な承認」といった政策も矢継ぎ早に実行したというのは注目される。

 1919年1月の「1月蜂起―スパルタクス蜂起」とそれに対する軍部の介入とカール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルグの虐殺。著者は、特にローザ等は、この武装闘争に反対であったが流れに引きずられ、結果的に軍部により殺されたとう見方を取っている。そしてこの事件を契機に、軍部や右翼義勇軍が力を増すことになったが、著者はそれを「ナチスの萌芽」と表現している。

 1月蜂起直後の総選挙と国民議会の招集。社会民主党は、単独過半数は維持できず他の右派政党との連立政権となるが、少なくともこの選挙で「共和国と議会民主制」は国民の意志であることが示される。エーベルト大統領の下、憲法制定やヴェルサイユ条約交渉が行われることになるが、保守派からはシュトレーゼマンが参加する。彼が所属した政党は帝政復活を目指すことで、共和国には反対の姿勢を取っていたが、その彼がその後共和国の安定期に大きく貢献することになるのは皮肉である。

 1919年のバイエルンはミュンヘンでの共産党政権の成立とそれを巡る極左・極右両側からの攻撃、そしてそれがベルリンでの、一部極右軍部主導によるカップ一揆なども引き起こし、それを軍部主流派が鎮圧するといった過程を経て軍部の力が強まると共に、選挙ではそれまで政権の中枢を担っていた社会民主党が退潮し、以降ブルジョア政党主導の内閣が短命で交代することになっていく。それは、言わば革命によって誕生した共和国が、左右両極からの攻撃により、結果的に右傾化していく過程であった。しかし、ヴェルサイユ条約による膨大な賠償の賦課や国境問題、更にはコミンテルンによる干渉も加わり、そうしたブルジョア政権も国民からの安定的な支持を受けることはなかったのは言うまでもない。またロシアとの間でのラッパロ条約は、連合国のみならず国内右翼からの攻撃も激化させ、その結果ラーテナウの暗殺といった政権主導者への右翼テロを引き起こすことになる。そして1923年のフランスによるルール占領と天文学的なインフレ、そしてそれによる中間階級の没落という、共和国最大の危機を迎えることになるのである。

 その危機を乗り切ったのは、前述のシュトレーゼマン首相の内閣で、これは3か月の短命であったが、ルール危機とレンテンマルク導入によるマルクの安定という大仕事を成し遂げる。そして相変わらずヒトラーによるミュンヘン一揆等、左右両極間での武装紛争を中心に国内の政情不安は続き、大統領は労働者出身のエーベルトから大戦時の参謀総長であった右翼帝政派のヒンデンブルグとなるものの、シュトレーゼマンはその後も外相としてドイツの国際社会への復帰を進めることになる。他方、国内最大の政治勢力に成長していた軍部が、ヒンデンブルグが憲法遵守を鮮明にしたことで、逆に抑えられることになったというのも皮肉な展開であった。そして1924年から28年まで、ドイツ経済は奇跡的な回復を遂げ、資本家が利益を蓄積しただけではなく、労働者の生活水準も上昇し、社会保険制度等も整備される等、国内情勢も落ち着きを取り戻すことになるのである。この間、ミュンヘン一揆で逮捕・収監されたヒトラーが裁判で弁舌を奮ったり、収監中に「我が闘争」を執筆したりと雌伏の時期を過ごすが、一時の勢いを失ったことも良く知られている通りである。また本来は労働者革命により誕生し、「社会主義化」を目指したこの共和国が、結局この時期にいっきに「資本主義化」したことについて、著者は革命後の政権を握った社会民主党の責任について議論しているが、結論的には当時のドイツ社会の混乱を考えるとそこまで「社会化」を徹底する状況にはなく、またそれを主張する勢力も自派の党派的な視点からしか捉えず「国民経済全般に対する考慮はなかった」ということになる。その例として、この時期に発生した政治的混乱として君主財産没収問題や軍艦建造問題等が紹介されているが、これは個人的には全く知らなかった歴史であった。

 しかし、この時期のドイツの経済成長は、主として米国資本からの短期資金により支えられており、国際収支は赤字が続いていたことから、米国発で世界恐慌が発生するといっきに財政危機をもたらすことになる。賠償問題についての1929年調印のヤング案等、外相シュトレーゼマンによる最後の国際舞台での活躍とそれに対する右翼資本家やライヒスバンク総裁シャハト等からの反対運動。ヒトラーもこの反対運動で再び政治の舞台に復帰することになる。そしてその心労からシュトレーゼマンが51歳(当時はケルン市長で、戦後活躍するアデナウアーは、彼より2歳年上であった)で死去した時、世界恐慌がドイツを巻き込み、ドイツ社会の右傾化がいっきに進むことになるのである。ヤング案承認やそれによる失業保険問題などが課題となる中、社会民主党が再び政権に復帰するが、右翼及び党内左派からの批判に対抗できず政権を投げ出す。これについて、著者は、当時の社会民主党政権の首相を務めたヘルマン・ミューラーの高潔な人格などは擁護しつつも、「あまりに党の組織と規律に忠実」で、その「党が組合の利益に動かされて視野の狭いプレッシャーグループに堕した時に、それを乗り越えた、より広い立場に党を導くための指導力は持たなかった」と総括する。そしてこの社会民主党政権の終焉はこの党の悲劇であったのみならず、「ワイマル共和国の議会政治の終焉」となるのである。以降は、ブリューニング首相らによる「大統領内閣」の下、軍部を掌握していたシュライヒャーによる、資本家そしてヒトラーのナチスへの接近と、共産党など左翼からのそれへの抵抗運動などで再び政治対立が高まる中、結果的にそうした対立を巧みに利用し、大衆の支持を獲得したナチスが合法的に政権を掌握、その後の独裁への道を歩むことになる。最後に著者は、この民主共和国終焉の要因について改めて総括しているが、最大の要因はヴェルサイユ条約による過大な賦課と世界恐慌という外的なものであったが、同時に社会民主党を含め、政党が自派の利益擁護を超えた国民的な課題を認識し遂行する能力を欠いていたという主張を繰り返している。政党政治が機能しなかった時に、最後に国を支えていたのは軍部と官僚であったが、その彼らは、国の混乱からの救済の道を政党ではなく、ナチスに求めることしかできなかったというのが、この共和国の悲劇であったとしてこの著作を締めくくることになる。

 「世界で最も民主的な憲法に基づく共和国」として誕生したこの国が、20世紀最悪の独裁政権と世界戦争を引き起こしたという歴史は、戦後のドイツのみならず世界中で多くの議論が行われ、それなりに戦後の国際社会の運営に生かされてきたことは疑いない。そしてその大戦での同じ敗戦国である日本も、それをもたらした軍事独裁の反省が戦後民主主義の出発点となったことも言うまでもない。民主主義は、いとも簡単にその反対の独裁政権に転嫁する。その教訓は、戦後のドイツや日本で共通の価値観となったが、もちろん「歴史は繰り返す」危険は常に存在する。特に現在は、国際社会で冷戦後に成立した米国一強体制が再び流動化している。ロシア・中国といった権威主義国家と、欧米日本といった民主主義国の対立に、中東でのイスラエル・ハマスの紛争が別の形で影を落とす。民主主義国家の中でも、こうした構造変化が、保護主義(米国では、トランプの「モンロー主義」回帰)や右傾化(欧州での極右運動の勢力伸長)をもたらしていることはいうまでもない。しかし、このワイマル共和国の分析で著者が指摘したように、まさに当時以上に人口の中核を占める「中産階級」の動向が、こうした動きの今後を決めることは間違いないだろう。日本のバブル崩壊やリーマン・ショックといった最近の経済危機は、こうした中産階級の経済状態を決定的に脅かすことがなかったことで、何とか政治的な危機に転嫁することは避けられたが、例えば、現在国内不動産不況の最中にある中国が、国内の不満を転化させるために台湾への武力侵攻に打って出る可能性もなしとはしない。その場合に米国や日本が台湾防衛に介入し、中国と結んだロシアが、ウクライナに加えて極東の紛争にも介入し、それが中東情勢も絡みながら世界的な紛争に拡大するというシナリオも排除は出来ない。夫々の国における国内の政党政治の今後も考えながら、この古い著作でもう一度このワイマル時代の歴史を復習できたことは十分意味があると感じている。

読了:2024年5月23日