現代ドイツ史入門
著者:W.M.マ−ザ−
前著が終戦直後の政策に焦点を当てていたのに対し、「分裂から統合への50年」というサブタイトルを有する本書は、その出発点から始まるドイツ戦後史全体を課題としている。また第五章で紹介する永井清彦の書物が、ベルリンを象徴としてドイツ戦後史を「分裂」という観点から捉えているのに対し、むしろドイツ全体をサブタイトルのとおり「分裂と統合」という観点から整理したものである。
翻訳の文体のせいか、あるいは連合国の交渉を外交文書により跡付けるという方法論のせいか、やや焦点がぼけ、ある意味でアカデミズムの無味乾燥さを示す典型例でもあるが、ドイツ人によるドイツ戦後通史の試みとして、論旨の大枠を確認しておこう。
戦後ドイツ史を見る際、著者が依拠しているのは、ドイツの地域的重要性につき、アメリカがソ連程の認識を持たなかったことがその後の分割を促した、とする視点である。チュ−リンゲンとザクセンには旧東独地域の半数に近い人口と工業地帯を抱えており、「ドイツの分裂は、アメリカが1945年に占領した(これらの)土地に踏み止どまっていれば、不可能だった。」しかしこれらの地域の統治をソ連に任せることを深く危惧したチャ−チルのトル−マン宛の訴えは無視され、その結果、戦後ドイツの新体制作りは、ベルリンでそうであったように、全独ベ−スでもソ連主導で進められた、というのが著者の基本的なスタンスである。
当初茫然自失の状態であったドイツ人からの動きは、西側においては強烈な反ベルリン意識を持つアデナウア−によりもたらされる。そして公には「ドイツの分離に賛成したことは一度たりともなかった」と言いつつも、著者の考えでは、アデナウア−の頭の中では既に1945年10月の時点で「ソ連地区やソ連とポ−ランドに占領されたドイツ東部地域は、統合されるべき地域に入っていなかった」と言う。
こうした連合国アメリカの無関心とドイツ側指導者の諦観が、狡猾なスタ−リンの攻勢を許すことになった。前述の永井の書物でも触れられているデモンタ−ジュや新たな国境線の外側からのドイツ人追放でさえ、ポツダムで合意された正当な政策であった。問題は、その基本合意の具体的な実行方法であり、スタ−リンは最大限の解釈と冷酷な手法でこれを実行しただけであった。多くの局面で警告を発したチャ−チルら欧州政冶のプロの助言は、理想主義者アメリカに無視されることになる。著者によると、ソ連は1945年9月以降、「管理理事会と西欧諸国の見守るなか」占領地域での公然たる共産主義的土地改革及び農業集団化をいっきに実行するが、著者はこれを「とりかえしのつかないドイツ分割への措置」であったと評価する。ソ連は更に共産党の不人気(1946年1月の市町村議会選挙での得票率は3.5%)に対応するため、占領地区での社民党との合同を進めるが、西側が行ったのは、西側の社民党シュ−マッハ−がこの要請を敢然と拒否し、このソ連の策動が西側でも実現されることを阻止したことのみであった。こうしてポツダム協定に言われた「ドイツを経済的に一体とみなす」という理想は誰の目にも不可能であることが認識され、西側における通貨改革からベルリン封鎖に至る決裂をもたらしていくのである。
戦後の数年で興味深いのは、ソ連とその他運合国との対立に加え、ソ連とフランスの対立が多くの局面で顕在化したことである。特に戦略的発想からとはいえ、常に統一ドイツを政策の核に掲げたソ連に対し、これを徹底的に回避すべく反対の主張を行ったフランスの主張が、結果的にはアデナウア−を始めとする西独側の反共政治家に、グロ−テボ−ルを始めとする東独側政治家からの統一要求を無視する後ろ楯を作ることになった。
いずれにしろ終戦直後から50年代始めに至る東西ドイツ双方からの統一へ向けての提案(例えば51年9月のグロ−テボ−ルによるドイツ制憲会議招集要請やソ連の対独平和条約提案や53年6月の西独議会による「全ドイツの再統一を促すことを連合国に促す提案」等)は、全て相手側が拒否することを前提にした政治宣伝の色彩が濃いものになったのは確かである。特にソ連側の論理「西独が『平和愛好国』としての地位を失いたくなければ、非武装中立を貫くべき」という主張と、西側の論理「統一はあくまで自由選挙で行われなければならない」とする主張は全く平行線を辿り、妥協の現実的可能性は最初からゼロに近かったことは疑いない。むしろ重要な点は、こうした正統性を巡る無益な議論の応酬の中から、50年代後半になると両ブロックの中で東西ドイツの存在を既成事実として受入れ、ドイツ統一の問題を従来のように戦勝4カ国の共同の決定により解決することに固執しなくなったこと、そして統一はあくまでドイツ人だけの問題である、という割り切りが生まれてきたことである。しかし、それが実証されるには更に30年以上を要することになる。
ドイツ人の意識−少なくとも西側のアデナウア−にとっては東独との対話は考えられず、東独ドイツ人を代表するのはあくまでボン政府であった。ハルシュタイン・ドクトリンはブラントの登場まで変わることのない西独の外交原則であり続けた。他方シュ−マッハ−に率いられた社民党は、東西両陣営から独立した勢力としての統一ドイツの形成を主張したが、これは保守勢力が米国追従姿勢を明確にし、野党が民族主義的自主独立を主張した戦後の日本政治の対立構造とほぼ対応する。しかしドイツの特徴は、その対立の前提に常に東西分裂国家の統一問題を抱えていたことである。アデナウア−の現実主義とシュ−マッハ−の理想主義の拮抗は、60年代のブラントによる東方外交の開始まで続くことになるが、、米ソの間で何度か発生した、ドイツ問題について頭越しの妥協を目指す動きは、例えば1960年のU2事件のような直接の軍事対立により凍結される。アデナウア−は明らかに米ソの緊張激化に自らの政治生命を賭けていたと言える。しかし歴史の流れは最終的に緊張緩和の潮流を生み、その時流を汲み取ったブラントの社民党の時代に入っていく。
1972年の東西ドイツの基本条約でハルシュタイン原則は正式に放棄され、また全欧規模では1975年の欧州安全保障協力会議の最終文書がその後80年代末の冷戦終結に至るまでの欧州政治の枠組みを決定したのである。永井のベルリン史と同様、このドイツ史も、最終章は89年の「壁」の崩壊に当てられているが、これについてはさして新たな事実や視点はない。
こうして戦後ドイツの政治史を、第一期:占領時期(45年の敗戦から49年の東西ドイツの成立まで)、第二期:2つのドイツ国家併存時代(分裂国家の誕生から61年の「壁」の構築まで)、第三期:緊張緩和期(「壁」から89年のその崩壊まで)そして第四期:冷戦後(89年から現在まで)に分けて辿った解説が終了する。著者がドイツ分割について依拠している、米国及びアデナウア−らの弱腰を受けたスタ−リンの攻勢という歴史解釈は議論があるところであろうが、いずれにしろこうした通史を我々が本当に自らの血と肉にできるとすれば、それはおそらくはこうした過去50年の現代史が、あるいは場合によっては19世紀末の統一以降のドイツ近代史が、我々が生き、実感している現在のドイツに如何なる意味と影響を与えているかを洞察することによってのみであろう。緊張緩和の後の第四期には、ドイツ再統一は実現したものの、時代全般については未だに「冷戦後」というネガティブな規定しか与えられていない。それが、欧州統合を通じての国民国家の廃絶期なのか、あるいはいくつかの書物が言うように、「分裂と統合」即ち先進国グル−プの一層の接近と周辺国のスピンアウトの併存期になるのか、あるいは先進国内部でも新たな緊張が醸成される時期になるのか、まだミネルバの梟は飛び立ってはいない。しかし、我々は、その前史を常に念頭に置きつつ、その梟が少しずつ眠りから覚めつつあるのを見逃さないよう、ドイツ書物の旅を続けていこう。
読了:1996年12月6日