過去の克服
著者:石田勇治
ドイツの戦争責任に係る通史である。ドイツの戦後の知的風景については、既に山口知三の二部にわたる力作があり、また戦後責任論については、戦後40周年でのヴァイツゼッカ−演説と永井清彦によるその解説でおおよその姿は掴めているが、この作品はそうした実績を踏まえながら、むしろ政治史的な観点を踏まえて、ドイツが戦争責任を果たしていく過程を、特にそれぞれの時代にドイツが置かれた政治環境を重視し、より精緻に整理したものである。戦争責任という観点では、ヴァイツゼッカ−の思想が、それ以前にブラントらにより表現されてきたものであったことを示している点が重要である。
従来のドイツの戦争責任を巡る議論は、どちらかというと、ブラントのポ−ランドでの跪きや、ヴァイツゼッカ−演説等、その事実についての倫理的な正当化を中心に展開してきたきらいがある。しかし、政治史的な観点を加えてこれらの現象を眺めると、そうした背景には、それを促した、あるいは注目させた政治環境があったことが示されてくる。確かに西独がナチによる不法の被害者に支払った戦後の補償額は1059億マルク(6兆円)に及び、その約8割は外国及び外国在住の被害者が受取っているにしても、また2000年7月からは戦時中の強制労働への補償としての基金(約100億マルク)が、政府と企業の出資により設立され新たな補償が始まっているとはいえ、それらは、単に倫理感だけから決定されたものではなく、夫々の環境下でいくつかの条件が重なった上での政治判断としてなされたものなのである。著者の整理によると、それらは@ナチ不法被害者の声のたかまり、Aアメリカ等の第三国からの補償実行への外圧、B時として国内世論に抗しても、それを実行することがドイツの中長期的利益になる、と判断する政治家の存在、そしてC被害実態についての歴史学者による解明と、その被害者・加害者双方での共有、ということになるが、それも具体的なケ−スでは複数の要因が錯綜し、決して単純であった訳ではない。著者はまずナチ政権下で頂点を極めるユダヤ人迫害に加え、ポ−ランド等占領地民族の強制労働といった「克服されるべき過去」を明示した上で、その克服に向けた動きを時代的に跡付けているが、ここではそれをまず各時代に分けて整理しておこう。
(1940年代後半)
言うまでもなく、ドイツの敗戦と共に、ナチの蛮行が次第に明らかにされる時期である。連合国側で戦時中一時説得力を持った集団罪責論/国民責任論(指導者と国民双方を有責と見なす考え方)は、戦争終了と共に影響力を失い、ナチの残虐行為を充分調査した上で指導者を裁判により処罰する方針が確立され、ニュ−ルンベルグ裁判とその際の「平和に対する罪」、「人道に対する罪」そして「共同謀議罪」という3つの犯罪構成要件が成立していく。しかし、この裁判で裁かれたのはあくまで戦争と関係のある戦時下の犯罪のみであり、戦前のユダヤ人差別立法や追放政策は戦争との関係がない、ということで対象とはならなかった、という。これは、その後のドイツ人の意識を見る上で重要である。なぜなら、この結果、後者のカテゴリ−は「あくまでドイツ人自身が、その評価を下す領域である」と戦勝国から認められた、という思いをドイツ人に抱かせることになったからである。
他方、極端な国民責任論はなかったとしても、戦後アメリカの主導による「非ナチ化」という形で、より広い国民層の責任を問う逮捕・公職追放が行われたが、地域社会の細かい人間関係に入ることができないための不公平への批判(最初に声をあげたのは「内面的な闘争」で戦争責任を回避した教会であった)が高まり、これもドイツ側に主導権が移っていく。実際、「強制収容所を含めたナチの蛮行について知らなかったドイツ人などいなかった」にも係らず、敗戦直後のドイツ人の中では、こうした残虐行為は、ナチの指導者たちの責任ではあっても、自分達には関係ない、という意識が一般的であったという(大衆は常にそうである)。
こうした中で、ヤスパ−スが連合軍的な「集団的罪」を批判しつつも、「刑法上の罪」、「政治上の罪」に加え、「道徳上の罪」と「形而上学の罪」という観点から、ドイツ人個人個人が担うべき罪を示したのが注目される。特に最後の2つは、40年後のヴァイツゼッカ−精神の嚆矢となったのである。
(1950年代)
ドイツの主権回復と共に、初代首相となったアデナウア−は、国民の連合軍に対する被害者意識と民主国家としての信任を得るための対外アピ−ルが相克する中で「過去の克服」を進めることになる。1949年9月の首相就任演説において、彼はドイツの文化的アイデンティティ−が「キリスト教的西洋」にあることを明示し、連合国の信任を求めると共に、戦争責任については、一部の重大な戦争犯罪人と刑事犯に限定し、更に非ナチ化の修正も求める、という両面作戦を展開している。著者によればアデナウア−は「占領軍の政治的・道義的糾弾から身を守ろうとするドイツ人の集団的心理」を理解し、それを占領軍に対する非ナチ化政策の転換を求める理屈としても使用したということになる。
こうして1950年12月、連邦議会は「重罪者と積極分子を除く非ナチ化の終了宣言文」を採択し、またそれに前後し重罪者以外の恩赦や失職した公務員の再雇用、再軍備決定や旧国軍の名誉回復等が実施される。これらの政策は、丁度日本でもほぼ同じ過程が繰返されたものであったが、決定的に違うのは、日本の場合は全て米国占領軍の意向のみで決定されたこれらの転換が、ドイツの場合は米国のみならず、英国やフランスという近隣諸国のコンセンサスを得ながら行われたということである。後にEECからEUに進んでいく地域同盟的発想が「過去の克服」の基礎にあったという点は、明確に押さえておかねばならない。
ドイツの主権回復(1955年)後、ナチ戦犯の追及件数は減少傾向をたどることになる。これは連邦共和国の司法関係者が、「人道に対する罪」を遡及適用するのは基本法上問題あり、と見なしたことにより、その結果、ナチ犯罪の追及はもっぱら従来のドイツ刑法(謀殺罪、故殺罪、謀殺幇助罪)のみに依拠していくことになる。
しかし、その半面で、連邦軍の再編に際して、アデナウア−が、民主主義意識という一般的な基準に加え、軍人社会では批判的であった1944年のヒトラ−暗殺未遂事件(「7月20日事件」)に対する態度もチェックするという「踏絵」を用い、「ドイツの軍人精神の道徳的価値と民主主義の融合」を目指した、というのも、彼の指導力を物語る興味深い指摘である。またアデナウア−が、社会民主党党首シュ−マッハ−に促される形で、自党内での反発を抑えイスラエルとの秘密交渉を進め、最終的に1952年9月ユダヤ民族への賠償義務実施のための国家間補償協定(「ルクセンブルグ協定」)を調印した、というのも「過去の克服」の大きな一歩であった。著者は、この協定が、@イスラエルとの和解の第一歩、A周辺諸国の不信感の払拭、B「ナチ不法犠牲者補償法」という法体制の整備、Cユダヤ人利益団体という交渉相手の明確化、と通じ、戦後補償に大きな影響を与えたと見なしているが、日本の場合に同様の意義付けができる出来事があったかどうかは疑問である。
(1960年代前半)
1950年代後半から時折勃発していたネオ・ナチの動きは、60年代に入ると、アデナウア−のアクセルとブレ−キを使い分ける両面作戦の限界を示すことになる。まず大きな出来事は1961年4月の、イスラエルでのアイヒマン裁判であった。これは西独にとっては「裁判権をイスラエルから取り戻せなかった」という主権国家のプライドの問題を除けば、徐々に忘れられていたドイツによるユダヤ人迫害を再度国際社会に喚起し、その結果、以前にも増して民主国家ドイツを対外アピ−ルしていく必要性を痛感させた。
更に東独が、この事件を契機に、西独政権内の「ナチ分子」(特に首相府局長グロプケ)批判を強めると、よりシリアスな問題となる。アデナウア−はイスラエルへの補償と援助を武器に、イスラエル首相ペングリオンの信頼を得て、アイヒマン裁判において「ドイツ人とナチを、連邦共和国をナチ・ドイツと峻別する」ことに成功するが、他方でこの裁判をきっかけに、「ナチの影から抜け出せない」ドイツへの国際世論からの批判と、それを受けてのドイツ世論における「過去の克服」の認識が強まる効果をもたらしたのである。
東独側は続けて、西独裁判官のナチ関与者リストを公表したり、グロプケの裁判を行い無期懲役の判決を下すなど、ナチの影から逃れられない西独を印象付けるキャンペ−ンを、ブラントの下で西独外交が転換するまで続けることになる。
ドイツ自身の「過去の克服」の動きとして、著者は1960年に第1回の議論が発生した後、65年、69年、79年と4回にわたり展開された「時効論争」を、それぞれの時代の傾向を裏付けるものとして紹介している。これは「総統の意志」が消滅した1945年5月8日を起算日として、刑法上の時効を適用するかどうか、という法律論争で、60年代については、まず第1回で故殺罪や傷害致死罪等(社民党案を否認し時効成立)、第2回では謀殺罪と謀殺幇助罪(時効を4年延長、CDUのベンダやSPDのア−ントが延長議論を主導)が論議されることになった。
(60年代後半−70年代後半)
この時期のドイツは、1969年9月のブラントSPD政権の成立から始まる「第二の建国期」と呼ばれる、という。反ナチ闘争を闘ったブラントの首相就任が、ドイツの「過去の克服」の動きを加速させた。議会外反対派(学生運動)が台頭する中、ナチ時代への自己批判意識が盛り上がる。著者は、1968年11月のCDU党大会における、女性フリ−ジャ−ナリスト、ベア−テ・クラ−スフェルトによるキ−ジンガ−平手打ち事件(「ナチ、ナチ、ナチ」)の裏に、こうした若い世代の戦争責任への意識変化を見ている。69年の第3次時効論議では、SPDの主導下、謀殺罪が更に10年延長され、1970年5月、連邦議会での大戦終結5周年式典におけるブラント演説は、ドイツの戦争責任につき、後のヴァイツゼッカ−により示される倫理感を既に体現していたという。更に同じ年の12月、ワルシャワ・ゲット−における彼の跪きは全世界に配信され、ブラント政権の立場を明確なものにする。
歴史学会ではF.フィッシャ−らの「批判的歴史学者」の理論(例えば、ナチ戦争は、第一次大戦時期の国軍戦略の延長線上にある、といった主張)を巡る論争、教育現場での歴史教育の変容、ポ−ランドとの教科書対話等、直接戦争に責任のない世代の台頭に伴う意識変化が現れる。またメディア学者によれば、ドイツのTVでのホロコ−スト関連番組の放送時間が、70年代以降増加傾向にあったが、これは79年に放映されたTV用映画「ホロコ−スト」の成功(ドイツのみでも2000万人以上の視聴者)が、この契機となったと言う。こうした雰囲気の中で行われた第4次時効論争で、シュミット率いるSPD与党が、最終的に謀殺罪の時効を廃止し、この問題に決着をつけたのも、もちろん、今後新たな逮捕者が出る可能性自体が低くなっていたことはあるにしても、ドイツ人の国民意識全体の変化を物語るものと言える。
(1970年代後半−1980年代後半)
82年のコ−ル政権の成立と共に、こうした歴史意識には方向転換が図られることになる。日本的に言えば「戦後の終焉」−敗戦のトラウマからの脱却による独立国家としての威信回復−を目指し、歴史意識に国民統合を促す役割を持たせるとの意志が明確になる。これは東独との対抗上、強いアイデンティティを必要としたことが直接の動機であったが、もちろんSPD政権下での振れに対する修正的側面も持っていたのは確かであろう。84年のDデイ記念式典に招待されなかったことが、コ−ルの意識の中で強い不満として残り、また翌年のレ−ガン訪独時のダッハウ収容所/ビットブルグ軍人墓地訪問問題は逆にコ−ルに対する国際世論の批判を招く結果になった。ヴァイツゼッカ−演説がこのレ−ガンによる軍人墓地訪問の3日後に行われたものであるというのは、言わば、ドイツ知識人の鋭い国際感覚を示したものとも考えられる。更に翌年には、ハ−バ−マスらが主要な論陣を張ることになる「歴史家論争」が行われ、コ−ル政権により進められる戦後の風化に対する一定の歯止めがかかることになる。
(ドイツ統一以後)
統一以降のドイツは、むしろ統一により拡大したドイツの覇権に対する不安払拭のため、改めて補償問題を進めることになる。1996年5月、憲法裁判所が強制労働の個人請求権を認め、加害企業に対する訴訟が提起される。98年9月のSPDシュレ−ダ−政権成立が、新たな補償基金の立上げを促す(政府+企業12社による基金、2000年7月成立)。更に歴史家たちのナチ時代の行動を巡る議論も相変わらず行われ、継続的な「過去の克服」の試みは今だに続けられることになるのである。
こうして見てくると、夫々の時代時代で左右に触れながらも、この「過去の克服」問題は、ドイツの政治過程の中で、常に核心の問題となり続けていたことが理解される、そして、ドイツにおける首相のリ−ダ−シップの強さ故に、時々の首相の哲学がこの問題で如実に示され、それに知識人を始めとする民間の議論が有機的に絡まり、「統一欧州」という政権によって触れることのない、大きな政治目標の中で着実に進んできた。
こうしたドイツの行き方を日本の戦後処理と比較すると、常にその類似点と相違点の議論になる。ここではこの度々繰返されてきた議論に立ち入ることはしないが、「統一欧州」というドイツの戦後政治に対し、日本の対米依存の戦後政治という枠組みの問題と、被害者が在米ユダヤ人協会やイスラエル等、米国の影響下にいたドイツと、それがアジアに冷戦下で引き裂かれた形で分散していた日本との相違が、日本での政治家の独自の動きと、知識人の世論形成の主導権確立を妨げてしまったことは間違いないであろう。その意味で、当たり前なのであるが、こうした戦後史におけるドイツと日本の単純な比較は意味を持たない。しかし、それを踏まえた上で、特に冷戦構造が崩壊し、新たな世界秩序の枠組みが変動する中でこそ、こうしたドイツの戦後経験を踏まえ、「過去の克服」を日本も政治的なカ−ドとして使うことを真剣に考える必要があるのであろう。欧州と同じように、米国への権力一極集中に対するバランサ−という政治的な立場を目指すためにも、このカ−ドの有効利用と、そのための倫理的な権威確立という方向感は失ってはならない、と感じるのである。
読了:2002年11月24日