「戦争責任」とは何か
著者:木佐芳男
1994年から1997年までベルリン特派員としてドイツに駐在した読売新聞記者による、ドイツの戦争責任についての刺激的な著作である。ドイツの戦争責任については、ブラントのワルシャワ・ゲット−での跪きやバイツゼッカ−演説のインパクトにより、日本との比較でドイツは真摯に対応してきた、というのが一般に膾炙した評価であり、この記者と重なってドイツに滞在していた私も、永井清彦らによるこうした解釈を、日独比較の一つとしていろいろな機会に披露してきた。しかし、もちろん私自身も意識していたが、それは高度の政治判断からなされた、計算高いものであった。近隣の欧州各国や米国に受け入れられ、戦後復興を果たしていくためには「戦争責任をより真摯な形で受け止め、表明する」必要があったドイツ。しかし他方で国内的な求心力も維持していかなければならない。そうした課題に対するドイツの回答がこうした一連の政治家の対応であった訳だが、この書物では、こうした政治的な対応のトリックを論理的に整理し、そこからドイツの戦後を巡る国民意識を明らかにしようとしている。確かにそれは「政治的レトリック」であったのだが、私も漠然と抱いていた、そうした感覚を、より明確に意識化することができたのであった。
ジャ−ナリストらしく、日常的な事件をしっかりとフォロ−している。昨年5月の森首相の「神の国」発言と1988年11月の「水晶の夜」50周年式典におけるドイツ国会議長イエニンガ−議長という2人の舌禍事件から、戦争責任の日独比較が始まる。双方の発言とも、責任が大きく問われ、イエニンガ−は辞任、森もその後退陣を余儀なくされたという点においては同じ結果をもたらした。しかし、森の発言はそれが及ぼす影響に全く配慮することなくなされ、相応の批判を招いたのに対し、イエニンガ−発言は、演説の大筋ではナチとヒトラ−を批判しつつ、ヒトラ−勃興期の民衆のヒトラ−支持という事実を述べたくだりが批判されるという、その意味では注意していたにもかかわらず、予想以上の厳しい反応の結果の責任を取らされた、という点で異なっている。ドイツにおける戦争責任は、かくもデリケ−トで大きな社会的課題なのである。
しかし、そこにはドイツ流の巧みなすり替えがあった、というのが著者の論理である。即ち「ドイツによる『過去の清算』は、ヒトラ−とナチズムにだけかかわったものか、ドイツの『伝統』にもとづくものかどうかの一点につきる。」ヒトラ−を否定できても、ヒトラ−以前にあったものについては、国民の求心力を維持するために切れなかったことから、ドイツの戦争責任論は、この2つをいかに巧みに色分けしていくかに腐心し、国際的にはそれに成功したと言われている。しかし、その枠組み自体が問われる事件が90年代に発生した。それが「国防軍の犯罪」と題された展覧会を巡る議論である。
この展覧会は左派系シンクタンクであるハンブルク社会研究所が企画し、1995年から数年かけてドイツ、オ−ストリアの都市を回ったもので、フランクフルトでもパウル教会で行われていた。会社のドイツ人同僚も協力していたこの展覧会を、私は見逃してしまったが、当時の新聞で何回か採り上げられ、論争のテ−マとなっていたのを記憶している。特に著者によると保守色が強いバイエルンでは、この展示に反対するネオナチのデモが荒れる等、混乱を引き起こしたという。
その論争の根源は、ドイツが戦時の残虐行為の責任を全て親衛隊や特別行動隊といったナチの組織に負わせ、国防軍の責任を回避してきた過去にあった。こうした歴史認識はいかにして国民の間に定着し、また近隣国もそれを容認したのか。
著者によると、こうした国防軍擁護が明確に現れた最初の例が、1952年12月の、連邦議会におけるアデナウア−演説であったという。冷戦の開始と共に、米国やNATOからも強い要請のある再軍備を考えていたアデナウア−にとっては、軍人の名誉を回復させることが必要であった。しかし国民の世論は再軍備に反対であったことから、これを実現するためには特に周辺諸国の支持を取り付けなければならなかった。このインセンティブが、ナチのスケープゴート化とそれを徹底的に謝罪する、その後のドイツの戦争責任の原型となる。1955年の「連邦軍」創設、NATOへの参加と徴兵制の復活という歴史、そしてその背景としての冷戦の激化という時代があった。軍人の協力をとりつけるため、1951年1月、大統領就任前のアイゼンハウア−が、旧国防軍の将軍に謝罪した文書までもが残っているという。「悪いのはナチの犯罪集団であり、ドイツ兵は祖国のために勇敢に戦った」とするこの「謝罪」は、ドイツを反ソ同盟に軍事協力させるためのアメリカの譲歩であり、アデナウア−は、それを利用し、「普通のドイツ人及びドイツ国防軍の戦争責任の回避」に成功したのである。そしてそうした議論は、ハリウッド娯楽映画の中でも、少数の悪いナチと多数の善良なドイツ人という図式化でプロパガンダ化され大衆化していった。
こうして形成されたドイツ国内の戦争責任転嫁の雰囲気は、著者によると90年代の日本で盛り上がった「強制売春」問題でも、日独の世論の受け止め方の相違となって現れたという。即ち、日本ではまず朝日ジャ−ナル等の左派言論界が「政府の関与あり」ということで取り上げ、その後被害者探しが行われるという形で、1991年の訴訟提起に至るが、ドイツの場合は被害者側の訴えにもかかわらず、言論界もこの問題を真摯に取り上げなかった、という。この背景にも、日本は戦争責任を清算していない、という周辺諸国の雰囲気と、普通のドイツ人及び国防軍の汚点を穿り出すことに対するドイツ社会の消極的雰囲気との差がある。日本の場合は、左派がそうした流れを強めるために政治的に動いた訳だが、ドイツの場合は、左派の歴史家の中でさえ、この論点についての関心が薄く、こうした論議を提示することに政治的な効果もないということなのである。
こうしたドイツの常識に挑戦したのが「国防軍の犯罪」展であったが、同じようにハーバードのユダヤ人助教授ゴールドハーゲンが書いた「ヒトラ−の自発的死刑執行人たち −ふつうのドイツ人とホロコ−スト」(1996年)も論争を招いたという。展覧会に対して例えばH.シュミットのようなSPDの大御所政治家が批判的であったように、この本に対しても一部左翼歴史家は批判的であったが、全般的には特にドイツの若い世代を中心にゴールドハーゲンの主張は一定の共感をもって迎えられたという。個人的に見ても、戦争とそこでも残虐行為を一部の悪人のみに押し付けるのは倫理的には正しくない。その意味で、ヒトラ−を支えた全ての人間は「不作為責任」を負っているのは間違いなく、若い世代のそうした反応は、ドイツの最近の政治的な環境変化と、戦争の歴史化による社会の雰囲気の変化を物語っているのかもしれない。
著者は、続けてこうしたドイツの戦争責任に対するトリックを、理論的に整理する作業に入る。その鍵になるのは、戦勝国が戦敗国の指導者を裁いた初めての裁判であるニュ−ルンベルグで確立した、戦争犯罪の3つのカテゴリ−である。その3つは以下のとおりである。
A.平和に対する罪:侵略戦争を共謀、遂行した罪(ニュ−ルンベルグで初導入)
B.通例の戦争犯罪:民間人や捕虜の虐待・殺害、不要な都市破壊など(以前から国際法
で禁止)
C.人道に対する罪:政治的、宗教的、人種的理由による迫害等(初導入)
日本での極東軍事裁判が課題としたのは、このうちA,Bであり、当然それぞれの罪に問われた戦犯は出たが、国民感情の中には、Aについては防衛戦争であったという議論やBカテゴリ−での南京虐殺があったのかどうか、といった疑問が残っており、これが戦後の処理を難しくしてきた。
それに対しドイツの場合は、特にナチによるA、Bの責任は明らかであったものの、更に近代史上初めて、赤裸々なCカテゴリ−の犯罪行為が行われ、これがその後の戦争責任論の中心テ−マとなってしまった。それは言い換えれば前代未聞のC犯罪により、国防軍=普通のドイツ人が関与したA,Bについての議論が軽視されてしまったのである。その意味で、確かに著者が指摘するように、A,B中心の日本の戦争責任とCに係るドイツの戦争責任を単純に比較して議論するのは誤解を生じさせる。
このカテゴリ−分けにより、ドイツの戦争責任の「トリック」がより鮮明になる。即ち、ドイツが戦争責任を明確に謝罪したのはCの人道に対する罪に対してであり、その結果責任はナチに被せることができ、そこで作られたナチのイメ−ジをA及びBに対しても重なるように仕向けたのである。例えば1970年のブラントによる有名なワルシャワ「ゲット−英雄記念館」での跪き。彼は、何故、1944年のワルシャワ蜂起を含めたポ−ランド戦士の記念碑である「無名戦士の墓」ではなく、1943年のユダヤ人蜂起弾圧の記念碑であり、非ユダヤのポ−ランド人は対象となっていないこの記念碑で跪いたのか。そしてそれが何故、ドイツが戦争責任全体を謝罪したと捉えられたのか。著者は当時のブラントの行程や自身による回顧、そしてそれに対するドイツ、ポ−ランド双方の識者の見解を紹介しているが、著者は、ブラントはその後の晩餐会等での演説でもポ−ランド侵略について明確な謝罪を行っているわけではなく、むしろ敗戦時のドイツ人追放者の苦労にまで言及しているくらいであることから、ブラントの気持ちは、ナチによるユダヤ人虐殺への追悼にあったと考える。しかしそれにも係らず、ポ−ランドではこの謝罪が、戦争責任全体、即ちCのみならずA,Bに対しても行われた、と誤解されたのである(「ホロコ−ストと戦争犯罪の意識的混同」)。この背景には、ポ−ランド自体における反ユダヤ主義の名残が影を落としている−即ちブラントがユダヤ人に対してのみ謝罪したと思いたくない非ユダヤ系ポ−ランド人の気持ち−のではないだろうか。いずれにしろ、意図したのか、全くの偶然であったのかは別にしても、ブラントの跪きはドイツの戦争責任についての国際社会の評価を大きく決定つけたのである。
著者はまた、こうした戦争責任に対する関心の結果として、日本と比較してドイツでは「平和教育」という意識が小さいことを指摘する。ホロコ−ストに関連する博物館や記念碑は旧西独地域のみでも2万件以上あるのに、侵略戦争を主題にした博物館はベルリンのドイツ=ロシア博物館くらいであり、それも社会には知られていないという。また戦後保障についても、ホロコ−ストに係るユダヤ系に対する補償と、戦争犯罪に係る補償とではケタが違う状況である。
こうして再び著者はバイツゼッカ−演説に帰ってくる。結局彼が演説で主張したのは、Cについての反省であって、特にA、Bについては、むしろ普通のドイツ人はナチの被害者であり、終戦により「解放」されたとする立場を採ったのである。それは、同時期にこの「終戦=解放」論を批判したグラスが無視されたのとは反対に、侵略戦争の過去を忘却し、自信を維持したいという国民心理に合致し、世論の絶大なる支持を受けたのである。
しかし最大の疑問は、ドイツ人はそれで納得できたとしても、ドイツ軍全体の侵略を受けた周辺諸国までも、このレトリックで満足してしまったのか、ということである。確かに日本の場合も、一部の指導者達に全ての責任を押し付けて、敗戦=解放というレトリックは存在し、国内的にはそれは充分に機能し、戦後民主主義は、その批判の上で構築されてきた。しかしアジア諸国との関係においては、日本の侵略行為についての責任を持続的に追求され、それはいまだに国際交渉のいろいろな局面で障害となっているのである。確かにドイツは、「人類に対する犯罪」の余りの悲惨さ故に、侵略の責任を直接喚起させないことに成功したとしても、実は戦争の悲惨さは、それとは異なる次元のものとして、別途議論されるべきものである。その議論が回避されたとすれば、そこにはやはり、ドイツのレトリックが周辺諸国から許容された別の理由があったのではないだろうか。これは実は論理の摩り替えだけの問題ではないのではないだろうか。こうして著者の緻密な取材は充分評価されるにしても、本当の問題は著者の考察が終わったところから始まることになるのである。
読了:2001年10月15日