アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第二章 政治
第一節 ドイツ戦後史
ドイツを変えた68年運動
著者:井関正久 
 また少しドイツ物に回帰しようと考えていた矢先に、「シリ−ズ・ドイツ現代史」と題された全四冊のシリ−ズ物の、最初の二冊が発売された。早速読了したのは、私にとって最も関心の深い、「68年運動」のみに焦点を当てたその第二巻である。

 日本の全共連運動が、社会文化的に見て余り遺産を残さなかったのに対し、同時期のドイツで広がった運動は、私が滞在した90年代ドイツにも多くの痕跡を残していた。例えば、政治面では、当時の学生指導者達が、主として緑の党の中心となって活躍していた。当時ヘッセン州で連立与党となっていた緑の党のフィッシャ−は、州環境大臣の地位にあり、フランスから追放された赤毛のダニ−ことダニエル・コ−ンバンティットも同じヘッセン州緑の党の幹部であった(その後欧州議会議員となる)。また社会民主党内では、この世代の一人であるシュレ−ダ−が台頭していた。緑の党の躍進に伴い、環境政策は日常的なゴミ収集にまで細かい配慮が示され、大きい政治問題の一つであった原子力発電の新規建設は既に止まっていた。更に男女関係についても、会社の若者は、概ね婚前にパ−トナ−と同居し、また会社の同僚にもいたホモ・セクシャルはアウティングと称して、自分の性癖を隠すことなく公にしていた。そして1998年に、シュレ−ダ−を首班とする社会民主党が政権を奪還し、この世代が実際の権力を握ると、環境税導入、脱原発、国籍法改正、ナチの強制労働者への補償基金設立等が、今まで以上に急速に進められたという。そして何よりも米国のイラク政策に対して距離をとる外交も、この世代の台頭が直接の要因であったと言える。こうした政治・社会的変動を残したドイツ68年運動を、その成立から終息まで歴史的に描くと共に、その後のこの時代に対する評価と批判を整理したのが本書である。

 50年代末から60年代始めにかけての、ナチを巡る幾つかの社会現象が、「ナチ時代」を知らない世代(学生たち)による親たち世代への反逆として顕在化する。「30歳以上の者は信用するな」というスロ−ガンが、この運動の世代間論争の性格を示している。東ドイツが、自国のナチ問題は解決済みである、として西独のエリ−トや右翼系新聞であるシュプリンガ−に対するナチ時代の過去を批判するキャンペ−ンを張ったことも、これを促す要因となった。

 こうした状況下、「社会主義ドイツ学生同盟」が結成され、彼らはハンガリ−事件を受けソ連とも、また伝統的な労働者を基盤とする社会民主党とも距離を置く「新左翼」として自らを位置付けていくが、この流れはほとんど日本と同様である。1962年のシュピ−ゲル事件が、この運動の出発点とされるが、それはまさに戦後ドイツの権威主義的政治体制に対する反抗運動として始まったのである。

 こうした中で、60年代半ばから、ベルリン自由大学の学生、ドゥチュケが指導者として登場する。ドゥチュケが東独出身で、そこでの徴兵を拒否して西独に渡り、東独時代に身につけたマルクス理論にフランクフルト学派の議論を吸収し、学生同盟の反権威主義的マルクス主義を作り上げた、という経緯は興味深い。ハーバーマスの「公共性の構造転換」(1962年)が、理論的根拠の一つとして一定の影響力を持ったという(しかし、運動の過激化に伴い、ハーバーマス自身は運動を「左翼ファシズム」と非難し、また70年代になってこれを撤回する、という経緯を辿った)。

 兵役免除地域であるベルリン自由大学での学校紛争を皮切りに、運動はドイツ各地に拡大する。1966年、元ナチ党員キ−ジンガ−を首班とする大連立政権が成立したことも、論争に火を付けたという(現在、ドイツにそれ以来の大連立政権が出来ようとしていることは、後ほど触れる)。非常事態法や核軍拡に対する反対運動も、こうした「議会外反対派」の主要テ−マとなった。1967年6月のオ−ネゾルグ射殺は、日本の安保闘争時の樺美智子死亡事件と比較される事件であるが、これが「暴力」を巡る議論の転換点となり、これ以降、運動の分裂・過激化、そしてハーバーマスによる批判、という展開を示すことになるのである。

 大学での抗議や式典妨害、ブルジョア的小家族からの解放運動としてのコミュ−ン、批判大学・対抗大学プロジェクト、ポップ・カルチャ−を中心とする文化革命といった、その後に継承される様々な文化運動が試みられる。他方で、後の赤軍派バ−ダ−らによるフランクフルト百貨店放火事件など、過激化の萌芽も生まれる。

 1968年4月、ドュチュケが右翼青年によるテロで、頭部に銃弾を受け重傷を負う。これがきっかけになり、大規模な反シュプリンガ−暴動や復活祭騒乱が発生し、「西独建国以来最大の内政不安」をもたらしたが、指導者としてのドュチュケを失った影響は大きく、続く5月、非常事態法が成立し、足元の政治課題がなくなると、その後の運動は分裂から衰退に向かうことになる(ドュチュケは、その後リハビリを行いながら緑の党の立上げに参加するが、結局79年に、この傷の後遺症が原因となり他界した)。

 70年代以降はドュチュケの提唱する「制度の中からの社会変革=制度の中の長征」をスロ−ガンに、平和、原発建設反対、環境保護、フェミニズム等をテ−マとする「新しい社会運動」に引継がれていく。政治活動の部隊としては、社会民主党の青年組織である「ユーゾー」が、多くの活動家の受け皿となったが、これらの人々は社会民主党と言う既往組織に吸収され、むしろ新たに誕生した新左翼系新聞「タ−ゲズツァイトゥング」等のジャ−ナリズムと「共同保育所」や「居住共同体」といった運動組織が、その後の「新しい社会運動」や緑の党の発展に大きく貢献したとされる。

 著者は、70年代以降展開された、平和、原発建設反対、環境保護、フェミニズム等をテ−マとする「新しい社会運動」の夫々を詳述しているが、ここではそれは取り上げない。但し、私が90年代に遅れてドイツに到着した時には、こうしたテ−マは既に既成政党も共有するドイツの一般的な政策となっていた。その過程では、場合によっては過激化した個々の闘争があったのだが、紆余曲折を経ながらも、68年運動の理念は政治的な存在感を持つに至ったのである。緑の党が活動を開始したのが80年1月。83年に連邦議会に進出。いったん90年12月の選挙で議席を失うが、その後復活し、98年には社会民主党と連立で政権を形成するところまで発展する。その過程は、言わば「反議会主義原理主義派」対「議会主義的現実派」の抗争と、フィッシャ−らに代表される現実派の勝利であったと言える(著者は、このJ.フィッシャ−の経歴を、政治闘争からフランクフルトにおけるD.コ−ンバンディ−との住宅闘争、82年の緑の党入党、85年のヘッセン州環境相就任、そして99年のコソボへの連邦軍派遣と変貌する姿として示している)。

 こうした68年の影響は、東独地域においては、政治思想というよりも文化的側面で影響を及ぼした、というのが著者の評価である。確かに68年のチェコ侵攻では政治的反対運動も発生したが、当局の抑圧は西独とは性格が異なっており、その後政治勢力としては68年の影響は根絶された。

 しかし、それにもかかわらず、80年代半ば以降は、体制批判的左派グル−プや環境運動も次第に形成されていったが、これを担ったのが68年世代であったと言う。また興味深いことに、緑の党の対東独政策で、東独政府が党内に細胞を送り込み、緑の党を(中距離核ミサイル配備問題等で)西独攪乱のために利用しようとしたのに対し、緑の党側はペトラ・ケリ−を中心に、あくまで東独反体制派との連携を維持し続け、結局東独体制側も、最後は諦めざるを得なかった、という。

 最後に、著者は68年世代を巡る論争を概観しているが、これが常にフィッシャ−やコ−ン=ベンディット(94年に欧州議員に当選)の経歴を巡る保守派と原理派双方からの批判として行われていることが、この世代の性格を物語っている。即ち、保守派からの批判があるのは当然としても、それに加え、既成政治家の枠を打ち破る彼らの個人的魅力と、それ故の、彼らに対するかつての同志達からの激しい敵愾心が、68年の評価を難しくしているのである。社会民主党系の政治学者であるクルト・ゾントハイマ−は、「68年運動」は、その暴力性故に「歴史的な失敗であった」と批判している。またH.マ−ラ−やO.ズア−のように、この運動から出て極左テロに関与しながら、その後はむしろ右傾化し、ネオ・ナチに参加した者も、少数ではあるが存在することにも留意する必要があろう。

 こうした毀誉褒貶にも係わらず、2002年時点の世論調査では、政治指導者の中で最も人気があったのはフィッシャ−であったと言う。但し2005年の「ビザ疑惑」以降は、その人気も下降線にある、ということでもあり、今回の大連立で、いったん緑の党が野党に下野したのも、タイミング的には良かったのかもしれない。

 いずれにしろ、私自身にとっては、ハーバーマスが言っているとおり、この運動の左翼暴力的な側面は批判されなければならないにしても、「ドイツ政治文化における左派の目標を定着させると共に、個人が態度や思想を自由に選択できる傾向をもたらした」という評価が最も説得力がある。リベラルという発想が、権威主義的風土に対する最終的な抵抗勢力となるのであり、この運動はそうした傾向を政治風土として定着させたと考えられるのである。

 ドイツ統一が実現した90年代以降、このドイツ・リベラルが一時的に方向感を失っていたことは、私のドイツ滞在時に幾度となく触れてきた。日本でも、小泉政権の下で、改革という名のもとに政治的右傾化が行われているように、政治的ム−ドがこうしたリベラル的流れを後方に押しやることも往々にして起こってくる。しかし、そうした一時的雰囲気が、永続的傾向になるかどうかが、ある思想の根源的持続力を示すことになる。日本の場合、全共闘世代が「団塊の世代」として、多くの文化的遺産を残すことなく退場しつつあるのに対し、ドイツでは同じ年頃の「68年世代」が、多少の浮き沈みはあるにしても元気であるというのは、まさにこうしたドイツ・リベラルがそれなりにドイツの風土の中に定着したということを物語っているのではないだろうか。

読了:2005年8月30日