ドイツ現代史の正しい見方
著者:S.ハフナー
この夏(2006年)、ドイツ戦後文壇のリベラル派を代表するG.グラスが、自らの自伝の中で、終戦前に親衛隊(SS)に加入していた過去を告白し、「あのグラスでさえ!」という驚きが広がることになった。このように、ヒトラーを巡るドイツの過去は、未だに間歇的にドイツの知的世界を揺るがしているが、このドイツ現代史の大きな汚点をアカデミックにどう総括していくかと言うのは永遠の課題のように思われる。
そうした中、丁度、これを書いている9月半ば、「ヒトラー最期の12日間」の原作者であるJ.フェストが、89歳で死去したと報道された。ドイツの歴史学者の最長老であったフェストは、言わば、生身の人間としてのヒトラーを淡々と描くことによって、かつてのドイツに瀰漫していた「ヒトラータブー」に切り込んだが、大きな見方からすれば、それは決してナチ批判の歴史学の根底を変えるものではなかった。むしろ、フェストは、戦前から確立していた歴史学者としての名声を維持しながら、戦後もイデオロギー論争と距離を置きつつ、淡々とみずからの仕事を進めてきたように見える。
今回、何となく本屋で手にしたこの歴史家も、印象としてはフェストに近い。あとがきによると、1999年に92歳で逝去したハフナーは、歴史家というよりも、歴史ジャーナリスト、と紹介されているが、ヒトラーについての分析本も出版しているこの作者の経歴と評価はまだ私は調べていない。しかし、彼の歴史物がドイツでは次々にベストセラーになった、と紹介されていることから、それなりの評価は確立しているのであろう。この翻訳本は、著者1985年出版の歴史エッセイ集の一部を抜き出したものであるとのことである。
歴史ジャーナリストとしての彼の真骨頂は、解説によると、それまでの通説を覆す、あるいは予想もしなかった論点から切り出す仕方にあったという。ここで紹介されている小論は、ローマの評価から戦後ドイツのボン基本法やアデナウアーの評価まで時間的範囲は広いが、ここでは私の個人的観点から、そうした彼の歴史認識の特徴が出ていると思われる部分を抜き出してみようと思う。
「ローマ帝国の巨大な遺産」と題された最初の章で、著者は、ローマ帝国の現代における意味を二つのテーマで要約する。それは@西ローマ帝国の滅亡(476年)と20世紀におけるヨーロッパの没落にはいくつかの気がかりな共通点が見出せる、と共にAここ数十年、欧州は、1500年前に破壊された統合を再び取り戻そうとしている、という論点である。
最初の点は、言わば西ローマの崩壊後も、最終的にはカトリック精神世界が欧州共通の基盤として残ると共に、世俗権力としてはフランク王国(ここでドイツも初めてこの大欧州の一部となった)として引継がれたことに関連している。そしてこの帝国(あるいは「欧州」という統合意識)は20世紀まで引継がれ、その間、メッテルニヒ、ナポレオンやビスマルクといった近代の政治家たちも、「湧き起こるナショナリズムを利用こそすれ、そうしたナショナリズムにヨーロッパ全体の利害を踏みにじらせるようなまねだけはさせなかった。」まさにその規範を破ったのが、20世紀の2回の大戦であり、これが欧州の没落をもたらしたと考える。ローマの終焉それ自体は「何ら流血の惨事もなく、ほとんど牧歌的な雰囲気の中で進行したが、それに続く200年はまさに『暗黒時代』であった。」欧州の20世紀は、その200年が凝縮されたものであった、というのが著者の見方であり、そこからの復興は「欧州概念」の復権以外にはない、と主張しているが、これは戦後欧州の知識人の一般的な思いであったといえる。
この序章から、テーマは近代に跳ぶ。まず「人口国家プロイセン」。1701年から1871年まで(形式的には第二次大戦後の1947年に連合国により消滅が宣言されたが、実質的には1871年に死んでいた!)の僅か170年しか存続しなかったこの国家は如何なる歴史的な意味合いを持っているのか?
プロイセンの最大の特徴は、それが土着民の匂いのしない、純粋に人工的に作り上げられた理性国家であったという点にある。それが膨張期においては国家としての強みになると共に、一度機能しなくなるとたちどころに存在することも再生することもできなくなってしまった、という。
著者によれば、「厳格な中にも啓蒙された、進歩的で自由の精神のみなぎる理性の国」としてのプロイセンは、ナポレオン戦争での敗北の結果、「反動的で平和的でしとやかなロマン主義的」な国家へと変貌した。しかし、ビスマルクの登場とともにドイツ統一が達成されると、その性格も再び富国強兵型の軍事国家に変貌するが、これは実はビスマルクやヴィルヘルム1世が意図したものではなかったという。ベルサイユでの戴冠の前日に、「明日はわが人生でもっとも悲しい日だ。古きプロイセンを葬らねばならないのだから」と呟いたヴィルヘルム1世の言葉がそれを物語っている。そしてビスマルクの退場とヴィルヘルム2世の権力掌握と共に、もはやプロイセンは、ドイツ帝国内の1地方政府となってしまう。それでも、ワイマールに至るまで、オットー・ブラウンが宰相として率いたプロイセンは、それなりに安定した、且つ進歩的な政権であったという。最終的に、この特徴が葬り去られたのは1932年、時のドイツ帝国宰相バーペンが、国防軍を送り込み大臣らを退任させ自らプロイセン首相に就任した時であったと著者は考える。後はヒトラーによる破局を待つばかりとなってしまった。著者の以下の言葉が、ドイツ近代史におけるプロイセンの位置を物語っている。即ち、「ビスマルクが成功したためにプロイセンは滅びてしまった」のである。
この議論は次の「ビスマルクのドイツ帝国建設」でもう一歩掘り下げられることになる。そもそもドイツの国民的統一は、「自由主義ブルジョアが望んだことであり、突き詰めれば民主主義・共和制の考え方であった」が故に、「保守的な地主貴族(ユンカー)であり君主制支持者」であったビスマルクの考え方とは異なっていた。しかし、彼は、高まるナショナリズムを利用する形で、しかも、この流れが逆らうことのできないほど強いのであれば、むしろこれがプロイセンやドイツの伝統的な封建体制そのものを押し流してしまわないよう制御しようとした、というのである。普仏戦争の勝利は、こうした流れをいっき強める契機になったのである。
しかし、面白いのは、この戦争での勝利を受け統一機運がいっきに高まった時も、南ドイツ4国(バイエルン、ヴュルテンベルグ、バーデン、ヘッセン・ダルムシュタット)は全くしらけていたという。特に「誇り高い」バイエルンでは、ルードヴィッヒ2世の説得に苦労することになる(この男には「不愉快なことが身に迫ると死んだふりをするという特殊なくせがあった。」)ビスマルクや側近の発言を引用しながら、著者はこのドイツ統一が如何にギリギリの状況で成立したかを伝えている。南ドイツ4国を切り崩すため、バーデンとの個別交渉を決着させ、その結果最終的に他の3国も北ドイツ連邦に加盟することを納得する。しかし、その中でも、バイエルンは、ほとんど独立国家としての主権を保持し続けたという(まさに現代まで続くバイエルンの特徴である)。
既に北ドイツ連邦と南ドイツ諸国は、軍事同盟や関税同盟で結ばれていたことから、この加盟自体は大きな出来事ではなかったが、ビスマルクは統一国家を「ドイツ帝国」と改め、プロイセン王を「ドイツ皇帝」としたことで、内外に向けてこの統一の重大性を宣言した。国内的には、「当時はロマンチストであったブルジョアの自由主義者たちに、彼らが1948年の市民革命で果たせなかった夢をかなえてみせた。」しかし、ビスマルクは、皇帝という中世封建国家の枠組みを復活させることにより、本来達成すべき「ブルジョアが主導する議会制国民国家」という現実的目標への道をふさいでしまった。これがプロイセンの合理主義国家としての性格を喪失する一因になったというのが著者の考え方である。
この章は、ビスマルクが皇帝の戴冠に向けて、「最大の選帝侯」であるバイエルンのルードビッヒに帝冠を差し出す役割を負わせようと腐心し、ルードビッヒはルードビッヒで、それから逃れようと動いたが、最後には買収されて受け入れざるを得なかった、という話で終わるが、言わば、1871年のドイツ統一は、1991年の統一と性格はもちろん全く違っていたが、その裏に数々の策謀とドラマがあった点では似通っていたのである。
次に著者は、その後の独仏関係を形成すると共に、欧州における君主制の終わりの始まりを告げた点で歴史的な転換点であったとして、1970年のセダンの戦いを取り上げているが、これは省略し、現代に跳ぼう。それはヴェルサイユ条約である。
「たしかに永久に効力を発揮する平和条約などはない(中略)。しかしこんなにも急速に衰え(中略)、本来は終結させるべき戦争を再び勃発させてしまうような平和条約は他にない。」ワイマール共和国の運命と表裏をなしたこの条約の問題を、著者は「敗者には耐えがたい不公平感を植え付け、勝者には良心の呵責をもたらすような原則(民族自決、国民主権、民族国家の平等原則、勢力均衡政策の拒絶等)が含まれていた」と要約する。そして、こうした条約がなぜ調印されたのか、という問いに、調印時の経過を見ることにより回答しようとしている。結論的には、フランスにより準備され、交渉余地のない形で提示された条約案に対し、戦闘再開の最後通牒を突きつけられたドイツは、フランスを始めとする連合国側も十分疲弊して先頭を開始する力がないにもかかわらず、ただ単にこの脅しに屈した。しかしその結果、国民の誰一人として、この条約が有効だとは考えなくなってしまった、と彼は言う。むしろここで戦闘を再会し、その結果徹底的に戦闘の帰趨をつけてしまえば、第二次大戦は起こらなかったのではないか、というのが著者の立論である。
歴史に「もし」がないのは、著者も十分分かっている。それにもかかわらず、こうした議論を展開するのは、ヴェルサイユの調印が余りに短視眼的であったという認識を際立たせるためであろう。歴史における大いなる皮肉としてのヴェルサイユ条約の教訓である。
次の「ヒトラーななぜ権力を手にできたのか」は、1933年に向けての伝統権力による政治工作の失敗がヒトラー政権誕生の原因であるとする一般政治過程分析。また「第二次大戦はいつはじまったのか」は、1939年のポーランド侵攻は決して「大戦」の始まりではなく、むしろ対ソ戦の開始こそが本当の「大戦」の開始であったという主張を展開しているが、余り刺激的ではない。また「ドイツはなぜ間違ったか」では、「ドイツ史を貫く非理性主義の系譜」を論じているが、これも一般的な議論である。そして「ワイマール憲法が失敗して、ボン基本法が成功した理由」では、「憲法の実際が憲法の理想を上回るという、きわめてまれな一例」「ドイツ人がかつて手にした中で、現実に機能する最初の憲法」と賞賛し、その要因はドイツ人の考え方、時代の状況、そして分断され中堅国に成り下がったドイツといった「基本法をとり巻いて染めていく現実」がこれと適合したからである、とする。確かにワイマール憲法が余りに楽観主義に満ちていたのに対し、絶望の中で作られたボン基本法は人間に対する悲観主義に満ちていた。しかし、それが同じような状況の中で作られた日本国憲法のように絶えず改正に向けての議論に晒されてきたのと異なり、国民に定着してきた(ハーバーマスの「憲法愛国主義」!)のは驚くべきことである。しかし、そうだからといって、ドイツ統一でもその存在感を示したボン基本法の定着について著者が指摘している理由は余りに感覚的であり、すんなりと納得できるものではない。
やや退屈であった中盤に比較し、最後に収録されている「奇跡の老人アデナウアー」は、議論が具体的で、なかなか面白い。「たいていの政治家が引退する年齢になってようやく政治を始めた」「七十になるまで、どんなに好意的に見ても人並み外れて優れたものを見出すことのできない」アデナウアーがなぜ年老いてから「神老」になったのか?
戦後、人材が枯渇していたのは確かであるが、それ以上にヒトラーの時代の徹底性故に、戦後ドイツの政治を担うのはヒトラーと同じ世代や若い世代ではなく、年老いた世代でなければならなかった。そしてドイツの人々は、アデナウアー政権によって古き良き時代、あるいは「こんな過去であって欲しい、こんな過去であったに違いない」という安堵感を抱いたと言う。そしてアデナウアーの内政・外交はドイツの統一を犠牲にしたとはいえ、西欧近隣諸国としっかり結びついた筋肉質のドイツを作り上げたのである。
日本における吉田茂の役割と同様のアデナウアーであるが、戦後政治の日独比較を行う際にもこの二人は引用される。例えば、戦後の再軍備に際して、日本はアメリカの傘のもとでなし崩し的な進め方をとったが、ドイツは「欧州の一員となるために」アデナウアーが孤独な決断を行った、等々。そして近隣外交に関しては、少なくとも戦後ドイツの方が日本よりもうまくやってきたとすれば、その原点はアデナウアーが戦後構築した政治哲学によるところが大きかったのであろう。もちろん、経済的にはエアハルトの功績が大きく、近隣外交に関してはブラント、シュミットのSPD政権の成果を無視することはできないにしても、そして晩節は汚したとはいえ統一におけるコールの役割を無視することはできない。こうしたドイツの戦後政治を考えると、ここで取り上げられたアデナウアーのみならず、各指導者が、それなりに時代の要請に的確に答えていたと言えそうである。戦後の首相が、現在のメルケルでやっと8人目という指導者の任期の安定性といった要因も含めて評価する必要がありそうである。
こうしてドイツ史の幾つかのテーマについての著者の分析を見てくると、確かにこの著者は学者というよりもジャーナリストであり、学問的な精密さを求めるのではなく、分析の視角を変えることにより、それなりの面白い、且つ素人にも理解しやすい議論を提示することに長けているという感じがする。いわば、「歴史の語り部」として、賢者が一般民衆に語りかける手法に習熟しているのである。日本で言えば、萩原寿年やあるいは司馬遼太郎といった在野の評論家・作家に該当するのだろうが、ミーハー受けする分かりやすさはあるものの、この著者の別の作品を取り上げようという気持ちを起こらせるまでには至らなかった。
読了:2006年8月16日