ニュルンベルグ裁判
著者:アンネッテ・ヴィンケ
言うまでもなく、「ニュルンベルグ裁判」は、ナチの戦犯を裁き、そこで「人道に対する罪」という国際法の概念を確立したと評価されている国際法廷である。しかし、東京裁判と同様、それは当初から「戦勝国による遡及による判決」という批判も受け、ここで掲げられた理念は、結果的に戦後の国際情勢の変化の中で変質していくことになった。この裁判を新書版の中で整理したのがこの作品であるが、ポイントは良く知られたナチ幹部に対する裁判ではなく、それに付随して行われた、それ以外の被告たちに対する裁判の過程とその結果である。まさにそこに戦後ドイツを取り巻く政治情勢の変化が反映していたと考えられるからである。
もちろん、この裁判の最大の焦点は、1945年11月から46年10月にかけて行われたゲーリングら、「ナチ・ドイツの主要戦争犯罪人24名と6つの犯罪組織に対する英米仏ソの国際軍事法廷」であったが、その後に12の「継続裁判」が行われており、「国際軍事法廷では起訴されなかった重要な戦争犯罪人を裁くため(中略)設立された軍事裁判」がアメリカ単独の管轄により行われている。ここでは国際軍事法廷では起訴されなかった重要な戦争犯罪人―ナチス「第三帝国」のエリートである医師、法律家、親衛隊員、警察官、軍人、企業家、経営者、閣僚、政府高官ら―が、計185名が裁かれている。そして、その後のドイツの「過去の克服」の試みと、他方でのその風化という観点から見ると、個人的には、後者の継続裁判がより注目されると考える。何故なら、前者は、「ならず者」による犯罪として、明確に彼らに戦争とそれに伴う残虐行為の責任を押し付けることができたのに対し、後者は「命令に従った」普通の市民エリートであり、ドイツ人一般の責任を問うものであったからである。それもあり、ドイツ人による現代史研究の中では、これらの裁判は「拒絶、および情報の欠如に基づく無関心が長きにわたって優勢を占めてきた」ということになる。あるいは、「1950年代初頭に西ドイツの政治家、教会指導者、ジャーナリストたちが、声高に連合軍によるニュルンベルグ裁判の『勝者の裁き』と闘っていたことを想い出すことができる者は、現在の統一ドイツがハーグの常設国際刑事裁判所の断固たる支持者であることに驚くだろう」と共に「かつてニュルンベルグ裁判の計画と実行に関して決定的に責任を負う立場にあったアメリカが、現在では超国家的な主権による、国家の主権及び権力の制限を強く拒否していることにも驚くだろう」と、国際情勢の変化による、この裁判の現代における相対化についても著者は強い懸念を表明するのである。
こうした総体観の下で、著者は、裁判の設立の経緯から、裁判における実際の議論と判決、そしてこの裁判のその後の影響を考察していく。裁判設立の経緯は、当初はチャーチルの「アウトロー」計画(形式的な訴訟なしの即決処刑)や、「モーゲンソー・プラン」(ドイツの完全な脱工業化、脱軍事化を目指した犯罪者の即決処刑)等の強硬策が出ていたが、まずスターリンが、「1943年夏からソ連で進行中の世論受けをねらった戦犯裁判を見て、司法的な解決を好むようになった」こと、続けてルーズベルトが大統領選挙への否定的な影響から「豹変」したことにより、「国際法廷」での「司法解決」という道になったとされている。
裁判の進め方については、4か国の間で多くの対立を経て、最終的には国際軍事裁判所憲章という形でまとまるが、ここでの最も重要な刑罰規定は、良く知られているとおり、「平和に対する罪」、「戦争犯罪」、そして「人道に対する罪」の3つであり、著者は、それを「アメリカの法文化と英米法思想の勝利」としている。他方で、それにより「戦争勃発前から始まっていた非連合国の国民や無国籍者に対する犯罪を処罰するという着想が(中略)特筆すべき役割を果たせなかった」としているが、この論理はやや不明確である。
この憲章に基づき、まず「国際軍事法廷」の24人の被告人が選定されるが、ここでは、ライヒスバンク総裁のシャハトが英国の主張で除かれたことと、巨大な軍需産業としてナチ政権と一心同体であったクルップにつき、イギリスが、開戦時63歳であったグスタフ・クルップを候補としたのに対し、アメリカは、グスタフが終戦時に病床にあったことから、その長男のアルフリートを載せたことで、クルップに対する訴追が中途半端になってしまったということが特筆される。また本裁判の経緯についても詳細に説明されているが、ここでは、「多くの被告人たちが、自分たちはヒトラーやヒムラーに唆され、利用された犠牲者だったという、単純かつ率直な言い逃れに切り替え」たということだけ記録しておこう。これは、かつて丸山真男が、ナチ戦犯と日本の戦犯を比較し、後者が責任逃れに終始したのに対し、ナチの戦犯は「悠然と薄ら笑いを浮かべながら処刑されていった」と指摘したのとは異なる印象を抱かせるものである。
この良く知られている「国際軍事法廷」に対し、その後の「継続裁判」が、その後のドイツ社会への影響を見る上でより重要であったと思われるのは、前述のとおりである。このアメリカのみで行われた裁判では、「集団に罪を割り当てず」「最も深刻な個人の責任の所在について判断を下す」ことを原則に、前述のとおり、ナチス「第三帝国」のエリートである医師、法律家、親衛隊員、警察官、軍人、企業家、経営者、閣僚、政府高官らが起訴されることになる。
まず、「第三帝国の医療エリート」による人体実験に対する法廷では、15人の被告が有罪判決(その内7人が絞首刑、5人が終身刑)を受けるが、この裁判は「西側占領地区のドイツ人医師たちには反響を呼ばなかった」のみならず、この裁判の最終報告はほとんど無視され、むしろ、ここで起訴されなかった大多数の医師にとっては「第三帝国における意思の行動の潔白を保証するものとして利用された」という。また法律家に対する裁判も、「司法全体がナチの抑圧・絶滅機構だった」という観点から「見せしめ的な性格」を持っていたが、この被告人は「司法省で高位を占めていた人々」から「比較的恣意的に集められた集団」で、10人が有罪(内4名が終身刑)となった。しかし、その最終的な判決理由は出版されず、終身刑を受けた被告たちも数年で刑期を終え、例えば元司法省のシュレーゲルベルガーは、その後も高額年金者としての生活を送りながら、法律関係の概説書を出版するなど、法曹界でそれなりの活躍をしたという。
これに対して、親衛隊幹部に対する裁判は、ユダヤ人大量虐殺や強制労働・強制収容所での被収容者殺害といった直接的な犯罪が対象であったことから、また治安警察と保安部隊の行動部隊に対する裁判は、やはりソ連域内でのユダヤ人を中心とする民間人の大量虐殺が対象であったことから、合計で18人の死刑判決が出される等、結果は厳しいものであった。しかし、それにも関わらず、特に後者のグループに対しては、初代西独連邦大統領ホイスのような顕職にある有力者が恩赦活動を行い、自由刑を受けた者たちは50年代に放免されたという。更に国防軍最高司令部の裁判は、行われた時点が継続裁判の最後に近く、刑が軽くなる傾向がある中では、「著しく厳しい」ものであったが、それでも死刑判決はなく、その後西ドイツで「高潔な国防軍」という神話が形成される主因になると共に、50年代半ばに西ドイツ連邦軍が組織されると、特に「東部作戦行動の立案や実行の経験は、重大な国際法犯罪に加わったという烙印ではなく、よりよいポストに就くための能力証明となってしまった」と著者は指摘している。
産業界、金融界からは、3つの訴訟で42人が起訴されたが、これはフリック財閥、IGファルベン、そして前述のクルップ財閥に対するものである。この裁判は「戦時国際法を私企業に適用する初めての試み」という点で重要性を持っていたが、全般的には「命令遂行を強制された状態」という論理が受容され、占領地等での「不法な財産取得」と「強制労働」についてのみ有罪とされる、という結果になった。特にIGファルベンの場合は、「アウシュヴィッツ近郊のモノヴィッツ収容所を運営し、強制収容所を運営する最初の企業」として「侵略戦争への共同謀議」も起訴理由とされたが、これは受け入れられなかったという。それでもクルップのケースは、他の2社よりも厳しいものであり、前述のアルフリート・クルップは12年の自由刑と全財産の没収という判決となったが、彼も1951年には赦免され、財産も返却されたという。アルフレートの死後、その財産は学問育成を主目的とする財団に寄贈され、彼の名誉も維持されることになる。そして最後の閣僚・政府高官への裁判(ヴィルヘルム・シュトラーセ裁判)では、フォン・ヴァイツゼッカーなどの外務官僚中心に起訴が行われるが、全般的な印象としては「寛大なもの」になったという。
著者は、こうした継続裁判の歴史的意味合いを整理しているが、それは大枠で言えば、よく言われているとおり、当初連合軍、なかんずく米国が当初意図した「戦争犯罪の国際法廷による司法解決」という理想が、ドイツ国民(あるいは訴追を免れたエリート層)からの強い不満と、戦後ドイツを巡る国際情勢の影響から次第に妥協的なものになっていったということであろう。著者は、この裁判につき、1946年と1950年に行われた西ドイツ国民に対するアンケート結果で、フェアとする評価が大きく減少したことを指摘し、その「劇的な変化」の理由を推測している。それによると、1946年の調査は、「主に党・国家・軍の少数のトップに対する司法的な取り扱い」についてであったが、1950年のそれは「連合国の制裁全体にむけられたもの」であったからであるとする。言わば、後者は「全ドイツ人の『集団的罪責』が立証されていると考えられた」故に、ドイツ国民からの抵抗感が強かったと考えるのである。そして時の雰囲気は「実際にはあまり主張されていない集団的罪責という非難に対して、すべてのドイツ人の免責が要求されるようになっていた」とする。そして、こうした雰囲気はキリスト教会から始まり、西ドイツ国家の成立と共に、「政治的・外交的レベル」に移っていったとされる。また西ドイツのジャーナリズムも、フォン・ヴァイツゼッカーらの裁判批判という形で加わり、それがアメリカによる「恩赦委員会」の設立となり、1950年代末には「ほとんどすべての囚人が釈放される」ことになったという。ただ同時期に、旧東ドイツが、「克服されていない(司法の)過去」をプロパガンダ・キャンペーンの対象にしたこともあり、1960年代以降、西ドイツにおいても、フランクフルトでの「アウシュヴィッツ裁判」などの形で、国内法に依拠したドイツ人自身による、新たな「社会レベルでのナチの過去との対決」に向かっていったこと、しかし、それはあくまで「ナチ犯罪の実行者に対するものがほとんどであり、イデオロギー的な扇動者や諸官庁の共犯者」を処罰するものではなかったということも指摘されている。
最終章で著者は、この裁判の歴史的意義を整理しているが、それは@「全世界の人間が行動の指針とすべき一連の普遍的な法的基準を作りだし」、A「このような普遍的な原則に違反した者が犯罪者と見なされ(中略)有罪判決を下される」こと、そしてB「侵略戦争の計画および実行も、戦争犯罪やマイナリティの迫害も、国際法上の犯罪行為であることが確認された」という、「ミュルンベルグ原則」を確立したことにある。そして、この原則に基づき「東京裁判」も行われることになるが、その後は冷戦の激化や、アメリカのベトナム侵攻などを受け、この議論は停滞することになる。最終的に、この原則を国際法に定着させるため設立された国連の「国際法委員会」が、これを法典化した文書を採択するのは、ユーゴ内戦やルワンダ内戦により国際メディアが活発化した1990年代半ばまでかかることになった。そして冒頭にも述べたように、2002年ハーグでの国際刑事裁判所が始動することになるが、当初この原則の確立に尽力したアメリカは、テロ対策から「法による集団的な平和の確保という考えから離反」し、他方で、ニュルンベルグで裁かれたドイツがその「断固たる支持者」となったことを、著者は「歴史の皮肉」としながら、この書を終えることになるのである。
こうして見てくると、やはり当初の「国際軍事法廷」と、その後の「継続裁判」では、ドイツ国民の中での受け止め方が大きく異なっていたことは否めない。もしろん、それは責任の軽重という問題でもあるが、それ以上に、著者が指摘しているように、後者が「全ドイツ人の『集団的罪責』が立証されていると考えられた」ことによるのであろう。その意味では、あの戦争責任を重く受け止めたと言われるドイツでさえ、「一億総懺悔」という言葉の下で、国民全体としては戦争責任に真摯に向き合うことのなかった日本とそれ程差がある訳ではないという気がする。そしてよく言われるとおり、ドイツにおいては「過去の清算」とは、ナチへの責任転嫁であり、「国際軍事法廷」がそれを象徴したが、その後の「継続裁判」は、「国民全体は、その被害者であった」という心情を示すものとなったということのように思われる。
読了:2016年4月29日