アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第二章 政治
第一節 ドイツ戦後史
指導者たちでたどるドイツ現代史
著者:小林 正文 
 1929年生まれで、元読売新聞記者ボン特派員(2回駐在)による、戦後ドイツの指導者たちに焦点を当てたドイツ現代史で、2002年1月の刊行である。既に出版から20年が経過し、2005年の大連立政権から始まったメルケル首相の時代は当然ながら一切触れられていない。ただ、出版当時のシュレーダー政権に至る7人の首相の下でのドイツ現代史は、それなりに整理されている。ほとんどが復習であるが、個々の指導者、特にアデナウアーを始めとする戦後まもない時期の指導者に関わる個人的な履歴や特徴については、今まであまり認識していなかった記載もある。ここではそうした私にとっての新しい発見を中心に記載しておく。

 初代首相アデナウアーが戦後ドイツの再建に果たした役割は、既にいろいろな著作で読んできたが、まずは、1949年に彼が分裂国家として生まれたドイツ連邦共和国の首相に就任したのは73歳の時であったことを確認しておこう。第一次大戦末期の1917年9月に、若干41歳でケルン市長に当選し、ワイマール共和国時代には一時期首相候補に挙げられたが、1933年、ナチの政権獲得でケルン市長を解任される。その後は、ユダヤ系の友人たちの経済支援等も受けながら隠遁生活を送り、また1944年にはヒトラー暗殺計画加担の疑いで逮捕・収容されるが、それを生き延び、戦後、連合軍管理下でのケルン市長復帰を経て、1949年に連邦共和国首相となる経緯は、なかなかドラマチックである。以降は、基本的に西側志向の共和国再建を行い、NATO加盟を前提とした再軍備やイスラエルとの賠償交渉、ドゴールとの出会い、そしてベルリン危機から1961年の壁の建設を含むソ連や東独との関係など、良く知られた彼の業績が説明される。最終的に1963年10月に首相を辞任。そして1967年、91歳の天寿を全うすることになる。

 彼を次いだ第二代首相エアハルトは、いうまでもなく1948年6月の通貨改革を始めとする戦後ドイツの経済復興の立役者で、経済相としてアデナウアー政権を支えた立役者であるが、アデナウアーとは、カルテル規制等で対立したこともあり、彼の首相就任にはアデナウアーは懸念を持っていたという。彼の時代は相対的に内政・経済・外交で安定した時期ではあったが、1966年に入ると、フランスのEECボイコットや戦後初めての不況の足音が迫る中、総選挙で敗北・辞任し、キージンガー率いる大連立政権に移行することになる。

 キージンガーは元ナチ党員であるという問題があったが、首相指名の直前に、「彼は反ユダヤ政策に協力的ではない」というナチの文書が出回り、難を逃れたという。ただ3年弱の彼の政権では、非常事態法の議論が、議会外反対派といった、その後の社会運動のうねりをもたらしたり、東方外交がチェコ事件で停止される等、厳しい政権運営が続いたとされる。そしてブラントが副首相で入閣することで、社会民主党(SPD)の政権担当能力がそれなりに認知され、1969年10月のブラント首相誕生に道を開くことになる。

 ブラントの母子家庭での生い立ちから、ナチスからのノルウェーやスウェーデン亡命、そして戦後のドイツ復帰と西ベルリン市長就任といった経歴はよく知られている通りである。壁が建設された時のベルリン市長として、ケネディーを引っ張り出して、彼からベルリンでの有名な演説を引き出したことは言うまでもない。そしてこの時の経験が、首相となった後、側近である首相府次官エゴン・バールと組んだ、東側との緊張緩和を目指す東方外交に結実し、ブラントは1971年にはノーベル平和賞も受賞することになる。

 ブラント時代で、今回面白いと思ったのは、1972年4月に行われた、野党キリスト教民主同盟(CDU)パルツェルによる建設的不信任案の否決という話。ソ連、東欧との和解が曲折を経ながらも進んでいる最中、特にオーデル・ナイセ国境承認を巡る国内―特にこの地域からの難民―の反発が強まり、この不信任案は可決されると思われたが、結局2票差で否決された。その内の1票は、シュタージから流れた資金で買収された一人のCDU議員の造反にあったということが、統一後の1991年に明らかになったという(もう一人の造反は依然闇の中であるという)。ブラントは、その後1974年5月に、側近であるギョームの東独スパイ事件で突然の辞任をすることになるが、当時如何にシュタージが西独内部に浸透していたかを物語る話である。

 こうしてシュミット政権が始まるが、シュミットについては、かつて彼の回顧録を愛読したこともあり、そしてこれまでの叙述もそうであるが、著者の筆は、夫々の政治家の回顧録に依拠している部分が多いことから、特に新しい発見はない。若い頃の経歴では、1918年生まれで、1937年から8年間軍務に服すが、敗戦間近に英軍の捕虜になることで、反ナチ的な言動でのナチによる追求を免れた、ということだけを確認しておく。戦後ハンブルグ大学で学んだこともあり(ここで後年政治家として再会するシラー教授の薫陶を受けたという)、ハンブルグ市長を経て1969年10月、ブラント内閣の国防相として入閣、そして1974年、彼の後任としての首相就任となる。在任時の業績としては、NATOの二重決定の主導等が挙げられる。また先日観た「バーダー・マイホフ」や「ミュンヘン」等の映画で取り上げられていた諸事件、なかんずくミュンヘン五輪でのイスラエル選手村攻撃や、ルフトハンザ機乗っ取りに対するモガディシュでの特殊部隊突入などは、シュミット時代の出来事で、彼が陣頭指揮を行ったものである。

 そして1982年10月、与党である自民党の連立相手変更によるシュミット退陣とコール政権の誕生。コール政権については、当然ながらドイツ統一に功績が中心の記載になるが、今回初めて知ったのは、政権初期、国防軍将軍の同性愛問題や税制改革(減税)の失敗によりCDUへの支持率が落ち込み、党内でコール降ろしの流れが強まっていた1989年に、ハンガリーの国境開放から始まる壁崩壊への大変動が生じ、その結果、コール降ろしの流れが雲散霧消してしまったということ。その結果16年という、メルケルに破られるまでの最長政権を持続させることになるが、まさに政治家が運に左右されることの典型例である。1998年の退陣後、政治献金問題で晩節を汚したことは知られている通りであるが、これに乗じてメルケルが台頭したことは、ここでは全く触れられていない。この本の出版時点では、メルケルがほとんど認知されていなかったということと思われる。

 そして、この本に登場する最後のドイツ首相はシュレーダーである。シュレーダーは、シュミット時代に起こったテロリストの弁護を引受けた所謂68年世代で、連立政党として初めて政権入りした緑の党のヨシカ・フィッシャーらと共に、この世代が指導する時代の到来を物語る出来事であった。それは、映画評でも書いたが、日本の学生運動が、その後の日本政治に何らの遺産も残さなかったことと比較すると、ドイツの大きな違いである。

 シュレーダーは、ニーダーザクセン州首相として、同州に本拠を置くフォルクスワーゲン社等と顕密な関係を作り、それが首相への道を切り開くと共に、「68年世代」のわりには、そうした企業の産業競争力にも配慮する「現実路線」を展開したことが綴られている。当初は蔵相として入閣した党内左派ラフォンテーヌとの軋轢と彼の引退・失脚といった経緯も、彼の中道寄りの「現実路線」を示している。他方で、脱原発やナチスの強制労働に対する補償、移民問題へのより柔軟な対応等も進めたことが説明されている。著者は、シュレーダー政権は、「新しい時代の要請にそれなりに対応してきた」と評価して、この著作を締めくくっている。

 しかし、シュレーダーについては、先日読んだ川口マーン恵美著の「日本はもうドイツに学ばない?」では、批判的に書かれている。その評価を、以下に再録しておく。

(「日本はもうドイツに学ばない?(別掲)」書評より)

1997年、シュレーダーが「緑の党」との連立政権で首相となり、続いて1999年プーチンがエリツィンの後継者として大統領になると、シュレーダーがプーチンに急接近していった様子が報告されている。当時のシュレーダーの主要政策が、@バルト海の海底の天然ガスパイプライン(ノルドストリーム)の建設と、A原子力発電所の段階的廃止で、まさに前者が、その後、ドイツが天然ガスを始めとするエネルギー資源のロシア依存を高める契機となったのである。そして前者については、まさに2005年シュレーダーが総選挙で事実上敗北(CDUとSPDの大連立であった)する直前に、ガスプロム社を始めとする関係企業との調印を完了し進められることになった。確かに、この時点でも、ロシアへのエネルギー依存を高めるとか、天然ガスの価格が一気に引き上がるといった懸念は出ていたが、シュレーダーはそれを強行し、更に首相退任後、このガスプロム社の監査役会会長に就任したのである。そしてシュレーダーは、その後、贈収賄の疑惑をうまく逃れたのみならず、メルケル政権がロシア問題に批判的に向き合う中、プーチンを擁護する発言を繰り返したのみならず、中国にも接近し、2007年には中国外務省の顧問にまで就任したという。そして2007年メルケルがダライ・ラマと会談すると、時のシュタインマイヤー外相(SPD)と一緒になって、メルケル批判を繰り広げたという。もちろんメルケルはそれを耐え抜き、今年の退任まで17年間の長期政権をまっとうしたということではあるが・・。

 最近のノルドストリーム経由の天然ガス供給が、点検を理由に一時停止される等、これを巡るロシアの圧力が強まっているが、ここではもはやシュレーダーの名前が出てくることはない。もはや彼はロシアにとっても使い勝手がない存在になっているのだろうか?」

 この話から見えてくるのは、シュレーダーが、かつての「68年世代」の幻影を引きずりながら旧共産圏のロシアや中国に接近する政策をとり、結果的にそこからの個人的な経済的利益に目がくらむ「現実路線」をとることになったという姿である。日本と異なり、政権トップでの変革をもたらした68年世代も、結局は金の亡者に成り下がってしまった、としたら残念な話ではある。

 ということで、メルケル以前の戦後ドイツの首相を核に添えたドイツ現代史は、2001年で終わることになる。足元のドイツは、メルケルの終盤の大連立を経て、現在は再びシュルツ首相の下で、社民党と緑の党の連立政権が成立し、ロシアのウクライナ侵攻やアジアでの中国台頭を見据えた欧米寄りの政策を進めている。シュルツ首相が、戦後まだ第9代の首相であるドイツ、そしてCDUとSPDという2大政党が、一定期間ごとに政権交代してきたという、ある意味分かり易いドイツ政治の第7代までの推移を復習することができた著作であった。

読了:2022年10月6日