アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第一節 ドイツ戦後史
二つの戦後・ドイツと日本
著者:大嶽秀夫 
 前章ではドイツ中世史からの現代ドイツへのアプロ−チを示唆したが、現在のドイツに接近する歴史的方法として最も分かりやすいのは、ドイツの戦後史を日本のそれと重ねながら見ていく方法である。折も折り、1995年に入ると戦後50年ということで、日本の新聞でも連載記事としてこの両国の戦後政治過程の比較が特集され、続いて日本や欧州各国で戦後史を巡る数々な行事や論議が行われることになった。その意味でこの書を1994年の最後に読んだことで、その後の議論がすんなりと頭に入ることになったと言える。ここではドイツ戦後へのアプロ−チとしての導入として、やや長くなるが、この書物の主要な論点を整理することから始めよう。比較を行うのは以下の6つの領域である。

(1)両国の降伏と占領
(2)占領政策の日独比較
(3)2つの憲法・2つの政治思想
(4)冷戦と日独の経済復興
(5)両国の講和と安全補償
(6)世界の中のドイツと日本

 最初の論点については、ドイツでは国内が最後まで戦場となり、ナチスの焦土作戦及び連合国側も第一次大戦の教訓からドイツの全面的敗北を達成しようとしたことにより、全土が灰燼と化したことが、日本との最大の相違点として挙げられる。それにもかかわらず、5月7日の英米に対する、そして続く9日のソ連に対する無条件降伏の後、市町村の行政機構がただちに再建され、地方政府が行政の中心になっていく。占領軍の関与が一般的には、日本は「間接占領」であったのに対し、ドイツは「直接占領」であったと言われているが、著者は、ドイツの場合も信頼できるドイツ人に行政機構の再建を任せた点で日本と大きな差があった訳ではないと言う。そしてソ連占領地域においてもこれは同様であり、当初から共産党による直接支配が導入された訳ではなかった。

 他方、領土、国境問題については、ドイツは4カ国による分割占領と国境線の大幅な変更という日本にはない強硬措置を甘受させられる。言うまでもなく、これはソ連を始め占領4カ国にとっての地理的重要性が日本とドイツでは決定的に異なっていたことの結果である。戦争で大きな被害を受けたフランスとソ運は第一次大戦後に匹敵する賠償を要求し、ドイツを恒久的に弱小国にする意図で動き、それを英米が、対ソ連対策から牽制する、という構図の中で戦後のドイツの秩序が再編されるのである。英米占領地域に工業地帯が属していたことから、ソ連側にも一時は出来る限りの賠償を得るためにドイツの経済的統一を維持した方が良い、という考えもあったと言われるが、英米が最終的に賠償を個々の占領地域から行うよう強硬に主張したことから、この経済的統一ひいては政治的統一が困難になっていったのである。この転換は言うまでもなく冷戦の開始に伴うものであるが、著者は、イデオロギ−的には「米国資本の投資と貿易のための自由市場の確保=伝統的な米国の門戸開放政策が、スタ−リンの政策による東欧諸国への経済的アクセスの遮断により決定的になった」と論じている。経済的ブロックや軍事同盟のない、自由貿易に依拠する「一つの世界」という米国理想主義が、東部財界を中心とする「エスタブリッシュメント」の政治的圧力を受けて権力的様相を帯びた反共十字軍という冷戦思考に転換していったのである。ここからドイツの健全な再興が、ドイツのみならずヨ−ロッパ全体の復興の鍵になる、というマ−シャル・プランの哲学が生まれたのである。

 しかし米国のこうした非懲罰的態度は、ナチズムに対する非人間的残虐行為に寛容であった訳ではなく、日本と同様に戦争裁判としてのニュ−ルンベルグ裁判が行われるが、これは一方では、ドイツ国民全体を処罰の対象としようとしたモ−ゲンソ−・プランに対する代替的措置であり、戦争犯罪者を特定することによる、それ以外のドイツ人の責任解除を意味することになったのである。
また、国境線変更に伴うドイツ人の強制移動は住民の意向を無視し非人道的に断行(約1000万人が追放、その過程で200万人が死亡した、と言われる)されたが、その戦後難民の規模は、そもそも自らの占領地域、植民地からの難民がほとんどであった日本の戦後には見られなかったものであり、その後現在に至るまでドイツの大きな政治問題であり続けることになる。

 さて、最初に指摘したとおり、日本はドイツと異なり徹底抗戦を行わなかったことにより分割の悲惨を回避し得たが、その日本の状況ももう少し整理しておこう。北海道を占領下に置きたいとのソ連の要求は米国に拒否され、極東にさほどの脅威を抱いていなかったソ連もこれをあっさり呑むことになる。その結果、近衛ら日本のエリ−ト層が抱いていた、「敗戦に伴い起こりうる共産革命」は米国の単独占領の下で回避され、分割の悲劇は朝鮮半島で発生することになった。またドイツの場合のフランスと同様の役割を連合軍から期待された中国(蒋介石政権)は、内戦の激化により「世界の警察官」たる役割を果たす意思も能力もなく、かつてのアジアにおける植民地大国イギリスも、日本占領に使う余力を残していなかった。この結果、日本の占領は、事実上単独で対日戦争を行い、西大西洋地域を支配下に置いていた米国の単独支配という形を取ることになった。この米国による支配が、ドイツのような報復的・懲罰的なものではなく、当初より恩恵的なものであったこと、並びにその後も米国による軍事的保護を受けることになったという「幸運」が、他方で「軍事的支配というもののもつ厳しさを体験せず、国際秩序、なかんずくその軍事的側面に対する冷徹な認識を欠く」結果をもたらした、という著者の指摘は、冷戦終了によりこの構図が崩れた現在、日本が直面している政治的混迷を示唆しており興味深い。
 
 こうした日独の占領形態の相違とは別に、戦後日独が組み込まれた「パックス・アメリカ−ナ」が双方に共通にもたらした恩恵についても認識しておく必要があろう。ソ連と異なり、「米国はその軍事的優位を経済的搾取や領土問題の有利な解決に動員せず、むしろ軍事的『従属国』には、経済・政治的の上では自主性を維持したジュニア・パ−トナ−になること」が求められた。この状況は、日独双方に戦前型「帝国」ヘの野心を断念させると同時に、他方で経済的には世界市場へのアクセスを保障し、開放経済体制の中での繁栄を約束させるに至ったのである。この開放経済体制維持の責任とコストは、この体制を離脱しようとする周辺国家への介入というダ−ティワ−クも含め米国が引き受けることになり、後の「安保ただ乗り論」を生むことになる。

 こうした基本的な占領直後の日独比較を受けて、著者は次に占領軍による改革政策の相違を分析する。

 まず指摘されるのは、占領直後の日本が一種の虚脱状態に陥ったのに対し、ドイツの場合は各地で反ファシスト委員会が自然発生的に組織され、労働者による生産再開と経営管理が発生したことである。しかし、こうした運動の背後にソ連の影を見た西側連合軍はこれを解散し、加えてドイツ人の政治、政党活動を禁止した。これによって「真の民主化の機会が失われた」のか、あるいは「真の意味での民主主義」が定着したのか、現在に至るまで議論が行われている、という。著者は、「この措置は後にアデナウア−らの保守的自由主義者により継承され、ボン基本法による反直接民主主義的(反大衆運動的)自由主義体制の定着につながった」と見ているが、これは日本ではまず民主主義的意識を触発するため占領軍が労働運動を奨励し、それが2年の遅れをもって発生した2.1ストをきっかけに抑圧政策に転換していったことと対比されるのである。こうした出発点における日独の相違は、日本における占領政策の中心が、農地改革や財閥解体といったマルクス主義的な側面を持っていたのに対し、ドイツのそれは非ナチ化を中心とする個人責任の追求が中心であり、言わば文化改革的側面を重視するという相違になって結実していったのである。 (日本の改革の指針を提供したH.ノイマンが日本を半封建社会と考える講座派マルクス主義の影響を受けていた、という指摘は面白い)。

 他方、ドイツの改革はクレイ軍政長官を始めとする占領軍指導者が古典的自由主義者であったことが、社会主義的改革を劣後させた復興を最優先させることになる。彼らはドイツの社会構造そのものの改革には手をつけなかったという訳である。「ドイツが日本よりもはるかに近代化された社会であったことが、ナチズムの原因を社会制度に求めるよりも、ドイツ人固有の性格や文化に求める心理学的、文化的発想に帰着した」という著者の指摘は、他方では日本社会の特殊性(後進性)を主張する、一時期の経済摩擦で米国から時折出されていた議論の原型でもあった。そして日独の比較で見ると、制度面では、日本は戦前との断絶が顕著であるのに対し、ドイツはワイマ−ルとの連続性が強くなり、また政治文化的にはドイツが徹底的な非ナチ化をそれなりに支える文化が醸成されたのに対し、日本の場合は制度のとりあえずの変革が終わったところで占領軍の政策転換が行われたことから、政治文化の変革が中途半端となり、戦前的な発想がそれなりに生き長らえることになったのである(岸の首相就任とその後の60年安保闘争の歴史は、文化改革を中途半端にした占領政策のある種の象徴的顕れである)。

 第三の論点では、夫々の憲法制定過程の相違、特にその背後にある憲法思想の相違に焦点が当てられる。双方共、日本とドイツの軍国主義とファシズムの排除の恒久的確保という国際条約的側面を持っており、また両者共西欧型の自由主義と民主主義を基本原則とし、共産主義とは一線を画したという共通性を持つ反面、以下の2点で著者は両者の相違も示している。

 その一つは「新憲法制定という要請に対する両国の政治エリ−トの対応の違い」、即ち西ドイツの憲法が同国の政治エリ−トによる自主的な努力により制定されたのに対し、日本の場合は抵抗するエリ−トに占領軍が「押しつけた」ものになったこと。そして、もう一つは「制定時期における約2年半の違いを反映し、日本の憲法がニュ−・ディ−ル型の社会民主主義思想に貫かれているのに対し、西ドイツの憲法が冷戦型の(戦闘的)自由主義の思想を基礎としている」点である。

 日本の場合、憲法学者を含め、旧憲法が民主主義と両立するという考え方が広く共有され、その結果新憲法作成を命じられた松本委員会の草案は保守的な性格が強かった。当時マッカ−サ−は円滑な占領政策遂行のため、天皇制自体は残存させることを決定していたが、新しい占領機構として設立が予定されていた極東委員会・対日理事会の構成国の中で、天皇の戦争責任を問う声が拡大していたことから、彼は、早急な日本人による民主的憲法の制定という外見を取ることにより天皇制存続の既成事実を作り、天皇制批判を封じ込める戦略に出た、という訳である。実際松本草案への返答を聞きに占領軍を訪問した吉田らは、全く予想もつかない占領軍の草案を提示され、占領軍草案を受け入れられなければ天皇制維持は保証できない、と恫喝されたのである。これは天皇制の維持、という一点に固執したことで日本の戦後を歪んだものにした大きな出来事であったと位置付けられよう。

 これに対し、西独の場合は、憲法制定よりもまずは分断された占領という政治的実態が解決される必要があった。そして1947年12月の米英仏ソ4カ国外相会議の決裂、西独での通貨改革の断行、ベルリン空輸と続く冷戦の激化が、連合国に反共主義的憲法の制定を促すことになった。しかしフランクフルト文書と称される憲法基本原理を定めた文書は、州の権利を擁護する連邦型の憲法であり、且つ個人の権利及び自由の保証することのみを要求するものであり、実質的な憲法草案の策定はドイツ人の手に委ねられることになった。そして1949年に占領軍に提示された草案に対し、連合軍側から反対の意見も寄せられたものの、最終的にはドイツ側が当初の章案を大きく変更しない形で押し切りボン基本法が制定されることになる。

 こうした制定時期の相違による両国の憲法の相違を、著者は、社会民主主義優位の時代における社会民主主義革命の産物である日本国憲法と、占領後期の自由主義的反動の産物であるボン基本法として位置付けている。また両憲法制定に係った責任者たちの夫々の憲法に対する見方にも相違があったと言う。即ち、ボン基本法が目指したのは「エリ−トを大衆の一時的情熱から制度的に保護し、『責任あるエリ−ト』による支配を確立しようとする試み」であったのに対し、吉田茂を始めとする日本の保守エリ−トたちは、社会権や民主主義観といった憲法の内容にはさしたる関心を示さず、むしろこの憲法を「単に外国が課した国際的制約、つまりは国際条約のようなものと解した」のである。

 4つ目の論点は両国の経済復興である。ドイツの場合は言うまでもなくマ−シャル・プランによる経済援助がその復興の契機であったが、この欧州復興計画は、アメリカが、ソ連の対外政策をナチスと同様の冒険主義、膨張主義と見倣すという単純化を行うことでようやく引き出せたものであった。ドイツにとって重要だったのは、他の欧州諸国が、この援助をドイツからの賠償に替わるものと見倣したこと、なかんずく対独強硬論を採っていたフランスもこれを機会に米国の柔軟なイニシアティブに従うことになったことであった。そして1948年6月の通貨改革とエアハルトの自由化政策への労働組合の暗黙の支持もあり、この援助は復興のボトルネックになっていた石炭産業の復興と戦災で大きな被害を受けた住宅の建設に向けられたのである。しかし、興味深いのは、焦土戦の結果として荒廃していたのは実は都市の住宅と交通網であり、生産設備の被害は限定されていた、という事実であり、これに生来のドイツ人の勤勉さと組織の才も加わり、マ−シャル援助を契機に、ドイツは日本より一足早い経済成長をとげていくのである。

 これに対し日本の復興は、ドイツに比較して出発点は遅れることになった。これは日本の占領政策が当初は経済面においてはニュ−ディ−ル的であり、且つ懲罰的色彩が強かったことによる。賠償と財閥解体の実施を止めることにより、計画経済から自由主義政策による復興路線への政策転換を行ったのが、デュロン・リ−ド副社長から軍に転籍したドレイパ−であった。しかし、冷戦下、急速且つ確実な成長を確保するため大規模な援助となったマ−シャル・プランに比較し、限定された援助を効率的に使うことを余儀なくされた日本の場合はドッジ・プランという大デフレ政策を必要としたが、これは短期的には余剰労働力の整理と合理化を必要としたことから、当初より労働組合との対決を運命付けられていた。この役割を担ったのが吉田内閣であり、またこの調整期間の混乱を象徴したのが、下山事件、松川事件等の政治的怪事件であったが、朝鮮戦争の勃発がこの社会的混乱をいっきに終息させることになる。この35億ドルに及んだ朝鮮特需は米国による事実上の海外援助であったが、マ−シャルプランが欧州全体の復興計画であったことからドイツは欧州と共に成長することができたのに対し、日本は隣国の犠牲の上に、一国としての経済復興の道を歩んだのである。その後の両国の地域政策を見る上で、この相違は象徴的である。

 両国比較の最後は講和と安全保障を巡るものである。後者については、表面的には、自衛隊違憲論争が永続的論点になっている日本と、徴兵制について基本的なコンセンサスのできているドイツとの間で大きな差がある。そしてこれは、早期講和の実現とより有利な講和条件を獲得するために積極的に再軍備を推進したアデナウア−と、米国の再軍備要求を拒絶し続け「安上がりの安全保障」を確保するためにはその他の安全保障上の不利益、不平等も辞さないとした吉田との防衛問題に対する態度の相違にあったとされている。詳細は触れないが、日本のようななし崩し的再軍備ではなく、「孤独な決断」として明確な再軍備路線に政治生命を賭けたアデナウア−の政策は非常に明快であったことは疑いない。

 こうして個々の論点で日独両国の戦後を見てくると、夫々の国の与えられた政治、経済、地理的諸条件が、夫々の固有の文化とあいまって戦後の基本路線を作ってきたことが理解できる。最初に触れたとおり戦後50年の節目を迎え、マスコミでもこの両国の戦後政策を比較する議論が活発になっている。特に、ドイツの戦後政策との比較の中で、日本の政策とその現在における姿が批判されるケ−スが多い。むろん、ドイツに滞在し、ドイツのことを知れば知るほど心情的にはそうしたドイツ的観点からの日本批判に加担したくなるのは事実である。特に日本と比較し、国際的に非常に不利な条件を背負ったドイツが、この境遇を脱するために、国際的な貢献を意識的に行わざるを得なかったことで、その後の日独の近隣諸国との関係と国際社会における立場の明確な差が生まれてしまったのが何とも残念である。その意味で、この書物はドイツの戦後を日本のそれとの比較で理解する手助けになってくれたのみならず、逆にドイツという同じような戦後の出発点をもった国のありようから日本の戦後、ひいては日本の現在を問い直す契機ともなりうる作品である、と言える。

読了:1994年12月24日