ドイツ統一
著者:雪山伸一
1988年から1991年まで、ベルリンの壁崩壊からドイツ統一に至るドイツ激動の時代に、朝日新聞のボン特派員として取材に当たった著者が、帰国後この激動を整理し直したのがこの書物である。もちろん、ドイツ統一物は数多く出版されているが、この本の特徴は、全編が、ジャ−ナリストとしての日々の取材、執筆活動で蓄積された、細部の動きを尊重するという視点で貫かれていることである。しかし、その細部は、決して枝葉末節に堕している訳ではなく、大きな流れをよりリアルに伝える手段となっている。特にこうした手法がより説得力を持ちえているのは、壁の崩壊から統一労働者党(SED)の一党独裁が倒れるまでの間大きな役割を果たした民主化運動が、統一の過程で、旧西独の既成政党に取り込まれていく様子を描く時である。
とは言え、この書物が詳細なドイツ統一のクロニクルであるため、個々の論述を追うのは意味がない。ここではドイツ統一問題への導入として、この統一過程でのリ−ダ−シップの変動を中心に押えた上で、ドイツ統一の功罪とその政治的な意味合いを私なりに整理しておこう。
クロニクルの始まりは言うまでもなく、1989年5月2日、ハンガリ−によるオ−ストリア国境の開放である。このさして大きく取り上げられることのなかった「鉄のカ−テン」の綻びが、「ル−マニアと共に東欧圏ではソ連のゴルバチョフ改革からもっとも離れたところに位置していた」東独の若者達に対する国外脱出の安全なル−トを作りだす。そして「この流れが頂点に達したとき、国内でも民主化を求める市民のデモが堰を切ったように高まり、ホ−ネッカ−政権を崩壊させ、東西ドイツ統一への道を開いていった。」多くの著作が指摘しているとおり、他の国民国家的存立基盤を持つ東欧諸国と異なり、東独は社会主義こそが唯一の国家存立の根拠であった。ゴルバチョフ改革が進捗していく過程で、反ペレストロイカ路線を強化すると共に、それにより期待できなくなった経済援助を、西独を始めとする西側諸国に求めるという政策は、こうした東独の構造的矛盾の現れそのものであり、これをいっきに表面化したのが、このハンガリ−による国境開放であったのである。
8月19日には、国境地域で行われたオット−・フォン・ハプスプルク主催の集会(ユ−ロ・キャンプ)に紛れて東独市民700人が一挙に越境する、という事件が発生するが、この直後に、著者はギ−センにあるそうした脱出者の一時収容施設の取材を行っている。「出国者のなかに『祖国を捨ててきた』といった悲愴感がどこにもないのと、多くの人が西ドイツ内の親戚か知人の住所を持っているのが特徴的であった」というこの時の著者の印象は、夏期体暇からそのまま思い立って越境した人も多かったという事実も重ね合わせれば、この段階では分断されたドイツが、個人レベルでは大きな精神的断絶を生んでいなかったということを物語っている。
こうした流れを受けて高まった東独社会における改革運動を、著者はライプチヒにおける市民運動「新フォーラム」の興隆に焦点を当てて追いかけていく。もちろん、こうした運動の高まりの背景には、消費物資の供給悪化や粗悪な品質に対する不満、国外旅行制限に対する反発、ゴルバチョフ改革への関心、天安門事件を支持する政府への幻滅、地方選挙でのSEDによる組織的不正の発覚といった一連の政治・経済問題を通じてイデオロギ−の空洞化が進んだこと(ライプチヒ「青少年問題中央研究所」レポート)がある。1987年6月の東ベルリンでの若者と警官隊との大規模衝突のように、西ベルリンでのD・ボウイやジェネシスのコンサ−トがきっかけになり、全く非政治的な若者に、体制への幻滅を与えた事件もあったというが、こうした社会全般への不満の高まりが、1989年6月時点では数で160、活動家数で約2500名という一部のインテリに限定された東独の市民運動を支えていくことになる。
そもそもシュタ−ジによる日常的監視、嫌がらせ、恣意的逮捕が横行する中でこうした市民運動が生き延びたのは、その多くが教会の庇護下にあったからである、という。特にデモで逮捕者が出ると、それが信徒か非信徒かにかかわらず、教会内に対策本部が置かれた。こうして、市民運動との繋がりの中で「全体としては穏健な『社会主義の中の教会』が『社会主義に抵抗する教会』ヘと変わっていった。」そしてこうした連帯の中から1989年5月の地方選挙の監視による、開票操作の暴露といった体制的不正の告発に成功するケ−スが現れてくる。そしてこうした努力が全社会的な運動に拡大していく契機となったのが、1989年夏の若者の国外脱出だったのである(オーストリア国境開放に至るハンガリ−外交の中で、東独との査証協定を中断するため、西独、東独との緊急の交渉を行っていく過程は興味深い。査証協定中断後、ただちにドイツ銀行団によるハンガリ−向けの5億マルクの政府保証融資が実行された、という事実には、東欧革命においてドイツが陰で果たした役割が見え隠れする)。
こうして1989年の革命が、市民運動、とりわけ「新フォ−ラム」を中心に拡大していくが、政治的には、この時期ホ−ネッカ−が手術とその後の体暇で不在だったことも、当局の対応を鈍くしたと言える。更には、10月6日に行われた東独建国40周年式典でのゴルバチョフ演説。これはペレストロイカに批判的なホ−ネッカ−を間接非難するものであった。これに続き10月9日に行われた、ライプチヒでの7万人大デモは、「東独の天安門」になる可能性もあった、と言われているが、町のオ−ケストラの指揮者で、市民に対し強い影響力を持つクルト・マズアらの声明を受け平和的に行われたため、当局からの介入を回避する。そして最終的には10日から15日にかけての共産党政治局を中心にホ−ネッカ−退陣を求める動きが拡大し、10月18日、ついに彼の退陣が決定されるのである。
これ以降は、まさに政権は、市民運動に譲歩を繰り返しながら弱体化していく。特に、1980年のポーランドのように、政権が最後に依拠ないしは民衆への脅しに使い得るものはソ連の軍事力のみであったが、ゴルバチョフがこれを拒否し、むしろペレストロイカの模倣を促した時に、既に政権の運命は決していた、と言えるのである。著者は、クレンツの基本的には党益のみに依拠した改革が、いかに時の民衆感覚や国際情勢と離れていたか、を詳細に追いかけているが、ここではそれは省略し、11月9日の歴史的な一日に跳ぶことにしよう。
ここで面白かったのは、ベルリンの壁の崩壊が、党のスポ−クスマン、シャポフスキ−の、旅行法案についての勘違いを含めた稚拙な誤解からいっきに進んだ、という指摘である。「第三国経由の恒常的出国は今後禁止されるが、東独から西独への出国は、個人旅行者も含め短時間で許可される。」という、重大な発表が、定例記者会見で、中央委の報告の最後に何気なく行われた。一つにはシャポフスキ−が、この発表の公式発表日を勘違いした、という点、二つには旅行者への壁開放の意味を、この法案の審議に参加した入々が理解していなかった、という点。著者の「『ベルリンの壁』開放は、恐らくは東ドイツの中央集権型政治システムの最後の段階に、その無責任さの集大成として実現したのだ」という指摘は蓋し名言と言える。
またこのただちには真意をつかみかねる発表に、いち早く反応したのが、西ベルリン市長モンパ−であったというのも印象的である。彼の自信に満ちた「壁崩壊宣言」が、人々の熱気をいっきに盛り上げていった、という事態も、変革期にはよくある現象と言える。そしてこの時点から、東独改革運動は民主化から再統一へと方向転換が行われていく。それは同時に、市民運動から西独既成政党への主導権の移行の転換点ともなったのである。
壁を開いても、西への出国を止められない、という状態が次に訪れる。「もたつく東ドイツ改革にかかずらうより、西に出てしまうほうがてっとり早い、という分裂国家・東ドイツの独特の思考方法はなお生きていた。」旅行の自由化に踏み切っても、市民には持ち出せる外貨がないことが、新たな体制に対する不満として拡大する。その意味で、11月2日に発表されたコ−ルのドイツ統一に向けての10項目提案は時宜を踏まえたものであった、といえる。しかし、「東西欧州の分裂を解消するなかで、東西ドイツの分裂をも克服する」という、西ドイツ政府の統一に向けての従来の基本戦略を踏まえたこの提案も、直接の発表のきっかけは、コ−ルのPRのための作戦であった(H.テルチク)というのも激動期における政治の皮肉である。そしてコ−ルはこの10項目提案で、「再統一の世論形成へのリ−ダ−シップ」を握ることになる。
著者は、他の東欧諸国で89年革命の際に、党内改革派と市民運動の権力闘争の場となった円卓会議が東独でも成立していたことに注目する。他の東欧諸国の場合は、この円卓会議を通じ、結局市民運動側が権力を奪うことになるが、東独の場合は「ドイツ統一」が民主化に優先し、他の国で、民主派を支えた一般市民は、東独では「より早い統一」を掲げる党派の後ろにつくことになる。その結果「円卓会議で民主化に貢献した市民運動家の多くは、社会全体が統一に向かってなだれ込む中で市民の支持を失い、皮肉なことに権力を巡る闘争の相手であったはずのSEDと共に、再び脚光を浴びることなく政治の表舞台を降りていった。」その後も、民主派による国家保安庁解体問題や党官僚の汚職事件の追求は続き、旧共産党の解体は進むのであるが、既に東独の政治過程の焦点は、そこにはなくなっていたのである。
統一派が民主派を凌駕していった最大の理由は、東独経済の現状にあったのは言うまでもない。市場経済への移行と人口流出の抑制というモドロウ政権の最優先課題が遅々として進まない状況下、90年2月には、にわかに通貨同盟がテ−マに上ることになる。同時に従来から、統一までのステップとして考えられていた条約共同体と国家連合的構造の2つの段階はもはや必要なくなることとなる。またこの統一への動きが端的に現れたのは2月の人民議会選挙であるが、この年の秋に予定されている西ドイツの総選挙の前哨戦という位置付けもあり、西側の政党が前面に出た選挙戦になった。1970年の東独訪問時と同じバルコニ−に立つというW.ブラントの演出や何よりもコ−ルによる公約の乱発は、こうした状況下で行われ、結果的に統一についての真面目な議論を妨げることになった、と著者は指摘する。また西ドイツ既成政党の潤沢な資金に支えられた支援政党と、資金力に欠けた市民運動の選挙は、「国政選挙と学生自治会選挙が同時に行われている」かのようなアンバランスを生み出したのである。またCDUとSPDの対決では、束西マルクの1:1の交換比率を始めとする口当たりの良いコ−ルの人気が、即時の通貨統合に懐疑的で、移民への優遇措置を東独からの移住者に限定すべきでない、とするラフォンテ−ヌの現実的な正論を上回ることになる。
こうした国内における統一への期待の高まりを背景に、外交面でも着々と根回しが進められていった。1990年の5月から6月にかけては、ドイツ問題のみならず、欧州全域での新秩序が大きく転換した時期になった。ブッシュ・ゴルバチョフ会談による、ドイツ統一問題と欧州の安全保障にかかわる9項目の提示。これを受けた、ワルシャワ条約機構の軍事同盟から政治同盟への転換とNATOの軍事戦略見直し。その中で、ドイツ統一問題は欧州の安全保障問題と渾然一体として議論された、という。そして最終的は、ゲンシャ−とシュワルドナゼによる度重なるマラソン会談。この結果、特に統一ドイツのNATO帰属についてのソ連の承認という最も難しい交渉は、50億マルクの政府保証融資と東独駐留ソ連軍の撤退費用負担といった「ベレストロイカ支援」が決定的な決め手となり決着するが、これは後刻「統一を金で買った」という揶揄の根拠となる。この費用負担の最終的な数字は興味深いのでここに記しておこう。
政府保証融資(50億マルク)、 無利息の政府保証融資(30億マルク)、
ソ連軍駐留費・撤退費・住宅建設費(20億マルク)、
年下半期駐留費(2.5億マルク)、食糧援助国庫支出分2回(3.96億マルク)。
融資と援助を合わせて、単純合計216億4600万マルク
(現在の換算率で約1兆2000億円)
この単純合計額は、ちょうどユ−ロトンネルや関西空港建設の当初計画を若干上回る感じである。この評価はいろいろあろうが、ドイツ統一が今世紀に実現出来るか、出来ないかという国家プロジェクトであったと考えると、私はこれは安い買い物であった、と考える。いずれにしろ、この時期、統一に影響を与えるいくつかの問題があった。一つは西独の総選挙であり、更に大きい問題は、ソ連におけるゴルバチョフ政権の危機である。この2つの問題は、コ−ルに統一のタイミングについての決断を促し、彼も、ここを勝負どころと考え、いっきに統一に向けて突っ走ることになったのである。
統一の具体的な交渉の中で最も注目されたのは両国通貨の交換比率の問題であったのは言うまでもない。今までも、この過程でのぺ−ル対コ−ルの争いは、いろいろな書物で、ドイツにおける連銀と政府の争いの例として触れられてきた。この本では、より具体的に、連銀の勧告とコ−ルの反応についてレポ−トしているが、これによると事実は以下の通りである。
3月29日に発表された連銀の勧告は、基本的に1東独マルク=1西独マルク、但し1人2000マルクに限り1:1とする。同時に、社会政策の分野での種々の給付金で月1000西独マルクを確保、更に収入の25%程度の物価調整手当を加え、西独平均手取り収入の50%を達成しようというものであった。東独の女性就業率の高さを考えれば、世帯当たりの収入は上昇するし、東の家賃が当面低く据え置かれることを考慮すると、連銀の勧告が決して東独民衆にとって不利なものであった訳ではない。しかし、東独の総選挙でのコ−ルのコミットを受けて、東独の多くの人々は、この連銀勧告に、コ−ルの公約違反しか見ず、ペ−ルは思いがけず悪役に仕立てられたという。
しかし、他方で、コ−ルが、少額預金の1:1の交換を発言したのは、3月13日のコトプスでの演説の一回きりであり、その後は具体的な数字は一切言っていないという。それにもかかわらず、この一回の発言が、統一の過程で、決定的な政治的期待感に変質したのでる。この事実は、その後の東独再建の遅延とドイツの財政赤字の拡大という、現在我々が直面している構造問題の起源を知る上で重要である。大きな変革期には、えてしてこうした小さな失策が決定的な影響をもたらすことになる。しかし、同時に、このコミットが政治的には東独の一般民衆の統一への願望をいっきに開放し、東独民主派の体制内革新の希望を打ち砕いたと言えなくはない。その意味で、コ−ルがこの過程を意識的に行ったかどうかは別としても、政治的には大変な直感力をもって、ドイツ統一という、100年に一度の大仕事を為し遂げたということは認めざるを得ない。
いずれにしろ、幾つかの偶然は重なったものの、全体の流れとしては、東独の政治経済的実態、ソ連の国内的政治バランスそして西独国内の政治的思惑を軸に、欧州同盟の中におけるドイツ問題をも考慮しながら、コ−ル政権が、最終的には潤沢な資金を挺子にして、統一問題のリ−ダ−シップを握っていった、というのがこの過程であった。ちょうど、ケネディ政権がキュ−バ危機に対応した際の意思決定が、その後国際政治過程論の格好の素材にされたように、このケ−スが20世紀終了間近の欧州政治過程の重要なケ−ススタディになることは間違いない。そして同時に、この書物が、私が今まで目にした中で、最も細部に注意を払った包括的なものであることは疑いがなく、その意味で、今後より詳細な研究書が現れることはあるにしても、日本語文献としては一級の価値を持ったものと見なすことができる。
1990年10月3日、ドイツ統一はついに実現された。この本は、この統一日の表情を詳述した後、我々がまさに現在直面している、その後発生した数々の問題を概説して終わっている。
このドイツ統一がまさに進行していた当時、私自身は日本でテレビや新聞報道のみでこの事件に接し、それ以上に必ずしも十分な注意を払ってこの事件を追いかけていた訳ではなかった。しかし、その後ドイツに勤務し、その後遺症を日常的に感じざるを得ない状況に身をおいたことで、益々この20世紀最後の欧州における大変革として、現在においてもなお、ドイツのみならず、欧州全体の政治構造に影響を与え続けているドイツ統一につき思いを巡らせる機会が多くなったのである。こうした中で、多くのドイツ関係の書物で断片的に接してきた数々の事実が、この通史的に描かれたジャ−ナリスト的なクロニクルを通じ、私の中で、明確に位置付けられるのを感じていた。ドイツ統一を今後振り返る際に常に回帰すべき作品であることは間違いない。
読了:1994年5月5日