歴史を変えた329日
著者:ホルスト・テルチク
前著は日本人ジャ−ナリストによる統一過程の総括であったが、この作品はまさにこの歴史的過程を渦中で過ごしたドイツ人政治家による、ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日から、翌年10月3日のドイツ統一までの329日間の息詰まる政治ドラマの内幕の回想である。著者のテルチクは、CDUの外交政策局長から1982年に、コ−ルの外交顧問に就任し、コ−ルの側近としてドイツ統一を至近距離から見つめてきた政治家である。91年春この職を辞した後、ベルテルスマン財団の理事長等を務めたそうであるが、昨年BMWの訪日団の中に彼の名前を見つけたので、現在はこのドイツ企業の政治・経済顧問として活動している様子である。前著と同様、ドイツ統一という、現代ドイツを学ぶ人間が避けて通れない大きな課題につき、生々しい動きを伝えており示唆するところが多い作品であることから、ここでは長くなるが回想中の子細な動きも紹介していこうと思う。
この日記調の回想は、ベルリンの壁が崩壊したその日から、著者そしてコ−ルの動きを子細に記録していく。入念に準備されたコ−ルのポ−ランド訪問、マゾビエツキ−、ワレサらとの公式会談をこなした後、夜の公式晩餐会に向け待機している時にこの世界史的出来事のニュ−スが訪問団の下に届けられる。ワレサの予言的警告。「万一東独が壁を開けたら、あなたの方で独自の壁を作らなくて良いのか。」そしてまさにそのニュ−スの到着。コ−ルは「この事件のためにポ−ランドの扱いが劣後したかのような印象を与えてはならない」とポ−ランド人の感情に配慮しつつも、ワルシャワでのスケジュ−ルを、翌日午後4時までとし、その後をキャンセルすることを決定する(1961年、ベルリンの壁構築の日、アデナウア−はベルリンではなく、選挙戦の集会のためアウグスブルグに向かった。「多くのドイツ人は彼を許していない。」)しかしベルリン市長モンパ−が突然発表した集会が4時半に開催されることになったため、結局コ−ル一行は、その日の午後に予定されていたヤルゼルスキー大統領との会談もキャンセルし、2時半にはワルシャワを出発する。機内での演説草稿の準備、SPD主導の集会でのブ−イング、そしてその途中で届けられたゴルバチョフのメッセ−ジ。それを受けコ−ルは「平静さを保ち、賢明に行動する」よう演説する。そしてもう一つのベルリン集会とチャ−リ−検問所での群衆との交歓。8時には官邸からサッチャ−、ブッシュらとの電話協議が始まる。「ゴルバチョフは『中国式解決法』を考えていない」という極秘情報。東独首脳との協議は全く行われず、深夜まで保守党内の議論が続く。翌11日、フランスの反応は割れている。外相デュマは統一ドイツに警戒的だがロカ−ル首相は東独市民の解放を支持、そしてミッテランは統一ドイツに共感を示しながらも、東独公式訪問に固執するという矛盾した対応でフランス人の複雑さを露にした。クレンツからの電話は、「古い知人同士の会話といった調子」で、状況の沈静化に向けてのコ−ルの協力に感謝の意を伝え、ゴルバチョフからの電話には脅しも警告もなく、慎重さへの要請があるのみである。壁が崩壊して2日目にして、既に統一に向けての外交路線が明確になっていく様了がありありと伝わってくる。その日の内に、前日キャンセルしたポ−ランドヘとって返すコ−ルに政治家の執念が示されている。329日のドラマはこうして始まったのだった。
欧米先進国、そして旧東欧を含めた欧州諸国相互の緊密な関係が、コ−ル周辺の動きからひしひしと伝わってくる。米大使ウォルタ−ズはコ−ル支援を明確にし、英外相ハ−ドは牽制的であるが、サッチャ−のゴルバチョフ宛て書簡が英国の究極的な支持を確信させる。イスラエル首相シャミルは、大ドイツがユダヤ人に行ったことに言及し、コールを激怒させる。ブッシュとの再度の電話会談では、12月2日に迫ったマルタでの米ソ首脳会談での対応が議論される。そして18日のEC首脳会議。各国がそれぞれの思惑を持つ中で、「可能とされる再統一のプロセスは段階的に行われなければならないこと、ヨ−ロッパ統合のプロセスの中に組み込まれるべきこと、そして全ヨ−ロッパの安定を危うくするものであってはならないこと」という、その後一貫して維持されるドイツ統一の枠組みが、壁が崩壊してから僅か9日後のこの段階で既に示されているのは興味深い。
ハンガリ−のネ−メト首相がコ−ルを訪問し、ソ連からの石油供給の停止決定後のドイツの支援を要請し、コ−ルは応諾する。「ハンガリ−が決定的な瞬間にドイツのためにしてくれたことを、私はけっして忘れない。」面白いことに常に政府に批判的なシュピ−ゲル(従ってコ−ルは絶対に読まないとのこと)が、ドイツ統一に賛成している、と言う。
マルタでの米ソ・サミットを控えたブッシュが、再度ドイツ統一への基本的支持を明らかにする中、11月24日には対外的な再統一構想作りが著者とザイタ−スの間で合意され、ただちに議論が開始される。「ドイツ政策研究班」の作業は2日でまとまる。これが28日の連邦議会で発表されたドイツ再統一に向けての10項目構想となるのである。
緑の党を除き全ての政党が、このコ−ル演説に賛意を表したこと、マスコミの評価も肯定的だったことからコ−ルが上機嫌になる様子が著者により誇らしげに語られている。しかし、その興奮も冷めやらない中、30日にはドイツ銀行頭取であるへルハウゼン暗殺の報が届けられる。コ−ルはデュッセルドルフでの講演を短く切り上げ、ただちにヘリでフランクフルト郊外の町、バ−ト・ホンブルグヘ向かうが、これは2人の親密だった関係を物語る挿話である。
10項目構想はもちろん賛否両論を含め多くの論議を呼ぶ。著者自身はル・モンドの記者によるインタビュ−に、フランスの伝統的な反ドイツ的受け止め方を感じたと書いているが、12月2日のマルタ会談を経たブッシュとの意見交換がこの段階での重要な状況認識となる。ドイツの動きの早さに対するゴルバチョフの不安、それに対しコ−ルは「10項目構想には意図的に期限を盛りこまなかった」と述ベ、性急にことを進めゴルバチョフを追い詰めるつもりのないことを強調する。これはブッシュの意向にも沿うものであり、マルタの帰途 NATO 16ケ国の首脳会議で米ソ・サミットの報告を行った際、ブッシュはドイツ統一4原則を示しアメリカの支持を示すことになる。
こうしてドイツ統一を巡る基本的枠組みが明確になった後は、問題は統一のスピ−ドだけとなる。東独の状況が急激な変革にならないことが、ソ運のみならず、ドイツ以外の西欧諸国や米国の主要な関心になっていく。コ−ルは、性急に統一過程を進めるつもりはないことを事ある毎に言明するが、これは単なるポ−ズであったとは言えない。共産党が急速に統治能力を喪失しつある東独の緊追した政治状況はあったものの、この段階ではコ−ルを含め誰もドイツ再統一が、数年以内に為し遂げられるとは考えていなかったことは、著者の回想の至る所に語られている。12月19日、コ−ルとモドロウという東西ドイツ首相の最初のドレスデンでの公式会談が行われた際も、会談の当事者もマスコミも、それは「ドイツ統一への礎石を置いた」程度のものとしか認識しなかったのである。
年明け以降も状況は同じである。統一に向けての大原則は、@ドイツ統一が、東独及びソ連を含めた東側に決定的な混乱を発生させないこと、及びAドイツ統一はあくまで欧州統合の枠内で行われること。前者は特にゴルバチョフのソ連からの様々な牽制として現れ、後者は特にミッテランのフランス、あるいはサッチャ−の英国からの牽制となって示される。テルチクの回想でも、各国首脳の発言の真意を忖度する日々が続いている。ポ−ランドからはオ−デル・ナイセ国境固定化への明言が要求されるが、この点についてはコ−ルは「国境問題はXデイに決定される」という説明で、必要以上のコミットを避け続けることになる。
2月2日のダボスでのコ−ル/モドロウの第二回会談では、モドロウから東独における事態の最悪の展開を避けるための援助要請がなされるが、これを機会に通貨同盟構想が急速に浮上する。7日の閣議で、既にこの経済・通貨同盟についての方向性が議論されている。しかし、それは方向性のみの議論であったことから、連銀総裁ペ−ルはまだ異論を差し挟んではいない。実際翌日、通貨同盟に関するテレビ・インタビュ−で彼は基本的な支持さえも表明したという。そして2月10日のコ−ル/ゴルバチョフ会談。最初の型通りの質問に続く次のゴルバチョフの発言が、著者を始めとするドイツ側の参加者を驚かす。「ソ連、西独、東独の間には、ドイツ統一と、両国民がそれを追求する権利につき、見解の相違はない。どんな道を進みたいのか、両国民自身がわきまえなければならない。東西ドイツの国民は、歴史から教訓を引き出し、ドイツの地から二度と戦争を起こさないことを既に立証してきている。」「統一ドイツの中立化が受け入れがたいことは理解できる。更なる検討が必要である。」テルチクは、この会談はソ連が統一に反対しないと明言した決定的なものである、と理解したが、面白いのはコ−ルが会談後の記者会見でこの成果を「事務的」に報告し、著者ら側近をいらいらさせたことだ。帰途の飛行機の中で、タス通信の報道を聞き、記者たちも初めてこの会談の意味を理解したという。
ソ連の抵抗という最大の問題に曙光が見え始めた後も、多くの論争は続く。東独へのNATO拡大問題を巡る、ゲンシャ−とシュトルテンベルクの摩擦、労働相プリュムの増税発言、オ−デル・ナイセ国境問題でのポ−ランドのキャンペ−ンの開始。こうした緊張の中、2月24日にキャンプ・デ−ピットで行われた米独首脳会談は、間奏曲的に肩の張らない首脳会談の雰囲気を伝えているが、こうした気楽さは基本的にコ−ルがブッシュの支持をうまく、取りつけつつあったことを物語っている。ブッシュからは、ソ連や英国(サッチャ−)がドイツ再統一を受け入れる可能性があることを示唆されるが、統一ドイツがNATOに留まることについては、ソ連は譲歩する意図がないことも明言される。また帰国後は、統一方法を基本法の23条と146条のどちらで行うかという問題も実務的な検討に入ることになり、統一に向けての基本的課題がほぼ全て出揃うことになる。
3月6日には、この内オ−デル・ナイセ国境問題につき、「東独総選挙後できるだけ早く自由に選ばれた両ドイツの議会と政府がポ−ランドとの国境の不可侵性につき声明を出し、条約そのものは統一後の全ドイツ政府とポ−ランド政府の間で交渉を始める」という形で連立政権内の合意が成立し、「ルビコン川を渡る」。他方NATO帰属問題や23条による統一方法につき、ゴルバチョフやシェワルナゼからは疑念が表明され、これらの問題で依然ソ連の態度が固まっていないことが示される。こうした中、3月18日の東独自由選挙で、事前予想を覆し、「ドイツ連合」が192議席を獲得し、SPDの88議席を圧倒する(勝利者の陣営では敗北宣言の草稿まで用意されていた、との裏話も披露される)。英独の学者によるケ−ニヒス・ウインタ−会議でのサッチャ−との会談では、相変わらずサッチャ−の出過ぎた発言にコ−ルが不快感を示しながらも(「コ−ルの希望で車は別々])、同時に英国のテレビのインタピュ−で彼女を十分称賛したことにも触れられる。また4月22日には連銀代表者たちとの会議で、通貨・経済・社会担当の首相の私的顧問H.ティ−トマイヤ−の報告を受けた後、コ−ルは「交換比率についての連銀の提案は勧告である」とし、給与、賃金ならびに預金を原則1:1で交換することを決定する。
5月に入るとソ連への借款問題がクロ−ズアップされてくる。ソ運の経済危機が深刻になる中で、シェワルナゼから金融借款の希望が表明され、レマ−(コメルツ銀行頭取)とコッパ−(ドイツ銀行頭取)がコ−ルの密使として著者と共にモスクワに派遣される。著者がコ−ルの政治的意向を説明する一方で、民間銀行の2人はソ運の経済・財政状況についての質問を行い、ソ連側も真剣に数字を開示することになる。またこの秘密会議後のゴルバチョフとの会見で、著者はかつてゴルバチョフが言及した彼の故郷カフカスでの独ソ首脳会談を提案し、彼が強い関心を示したことが語られている。借款については訪問団の帰国後ただちに50億マルクの対ソ借款保証が決定された、と言う。
5月17日のワシントンでの米独首脳会議、帰国して1時間たたないうちに今度は閣議での通貨・経済・社会同盟の結成に関する条約法案の採択と、歴史の歯車は回転の速度を早めていく。依然統一ドイツのNATO帰属に対し懸念を表明するソ連との議論の中で、NATOの性格を変えるという突破口がある、との情報を受け、ウィ−ンでのCFE交渉でのNATO同盟国全体による兵力削滅の可能性と、全ヨ−ロッパ的な安全保障制度の模索という方向性が示されることになる。この問題に対するゴルバチョフの態度の硬化は、ソ連体制の危機の深化を物語るが、6月始めのワシントンでの米ソ首脳会議では再び「ドイツのNATO帰属は、ドイツ人がへルシンキの最終文書どおりに自らを決定しなければならない問題である。」と変化が現れる。50億マルクの融資保証がこの変化の底流となっているとのニュアンスが著者の回想の至る所に示唆されている。ポ−ランド国境問題の論議が高まる中、従来旧ドイツ地域からの被追放者の気持ちを考慮し態度決定を避けていたコ−ルも、6月21日の連邦議会で、ついに現在の国境が最終的なものである、と言い切る。
6月末、海部首相からのドイツ統一支援の親書が到着。海部は、「アジアや太平洋地域ではこれと比較できるような前向きな進展が見られない」として北方領土問題での関心を喚起させようとしているが、著者は事実を記載するのみでそれ以上コメントを加えることはない。日本外交への関心の程度を物語る挿話である。
7月に入るとドイツ国防軍の兵力上限を35万とするか40万とするかを巡り、シュトルテンベルクとゲンシャ−の対立が鮮明になるが、他方で5、6日に行われたロンドンでのNATO特別会議では、ドイツ統一のヨ−ロッパへの組み込みとソ連の安全保障への配慮を含む宣言が発表され、ソ連の希望した「NATOの性格変更」ヘの方向性が示されるのである。ヒュ−ストン・サミットでのブッシュヘの個別報告に続く対ソ支援の共同宣言もコ−ルにとっては追い風である。そして帰国するとコ−ルを待っていたのはゴルバチョフからのスタブロポリ市への招待状であった。「ゴルバチョフが対立を解決する気がなければ、コ−ルをカフカスに招待したりはしないだろう。」ソ連共産党28回党大会でゴルバチョフは直接書記長に選出され、政敵リガチョフは失脚するという、ゴルバチョフ政権の相対的安定化。しかし他方で50億マルクの借款の実行がただちに要求されるという経済的には緊迫した状況の7月14日、コ−ル以下著者を含めた訪問団はモスクワに出発する。
4大国のドイツに対する権利と責任の完全放棄と統一ドイツのNATO加盟が交渉の主要テ−マであり、そのための手段は一層の経済協力と全ドイツ軍の兵力削減案である。しかし、後者の提案については、コ−ルは、行きのフライト内で提案する兵力上限の数字を巡りゲンシャ−と喧嘩に近い論争を始めたという。著者によるとコ−ルの論争は、往々にして目的のための手段であり、そのため鎮まるのも早いという。
ドイツ統一に向けての最大の山となったこのモスクワ会談についても著者は子細な報告を行っているが、「ドイツがNATOの加盟国でありつづけることは可能だ」というゴルバチョフ発言に、まず書記としての著者の神経が集中される。続いて「2プラス4会議の終結文書は、4大国権限の放棄を、移行期間を設けないで規定する。ソ連軍が3年ないし4年、東独地域に駐留することは別の条約で規定される」という発言で全ての基本的な打開が行われたのを理解する。書記として首脳の会話を正確に追いかけ、コ−ルらの表情を必死に読み取ろうとしながら著者は心の中で叫ぶ、「私は歴史的瞬間の証人なのだ」と。
こうして、モスクワ会談での最大の成果を胸に秘め、統一の歴史の中で最も注目されたカフカスでの第2回会談に移る。ゴルバチョフとシェワルナゼが出会い、改革を決意したスタブロポリを経て、ヘリコプタ−でゴルバチョフの故郷であるコ−カサスの山村アルヒ−ズヘ。川辺の散策を中心とした夕刻のリラックスした交歓を経て翌7月16日、モスクワ会談のテ−マをより具体化する4時間にわたる首脳会談が繰り広げられる。著者の回想はここでも詳細であるが、最大の成果は、統一後、ただちにドイツ国防軍を旧東独に配置し、ソ連軍撤退後はその部隊をNATOに統合することにつきゴルバチョフが同意したことである。そしてこの合意を発表するため代表団はヘリコプタ−で記者会見が予定されていたジェレズノオウトスクへ。こうして統一過程の中で最もセンセイショナルな共同声明が発表されることになる。歴史的瞬間に立会い、大仕事を終えた著者は、ソ連からの帰国後、7月19日から8月12日までの長い休暇に入り、直接の体験談は中断することになる。
著者の休暇時期にも、統一条約を巡る交渉は順調に進展するが、他方イラクのクウェ−ト侵攻という危機も発生する。休暇後の回想で著者は、「もし湾岸危機が2ヶ月早く始まっていたら(中略)必要な決定をこれほどスム−ズにくだせなかったであろう」と正直に告白しているがこれは、コ−ル以下ドイツ統一のデザイナ−達全ての偽らざる実感であっただろう。8月末、コ−ルと休暇明けのブッシュとの電話会談でも、テ−マはもっぱら湾岸危機問題であった、という。しかし、ゲンシャ−が参加した2プラス4交渉の終結文書もこの時期までには決着し、ドイツ統一は既に国内問題になっていたのである。ソ連情勢悪化によるシェワルナゼからの支援拡大要請やブッシュからの湾岸支援問題等が時折発生したものの、著者の回想もこの時期以降は無感動で事務的なものになる。8月31日の統一条約調印、ソ連軍撤退費用を巡る調整、2プラス4外相会議での「ドイツに関する最終規定に関する条約」の調印、ミッテランとの独仏共同宣言等を経て、著者の回想は10月2日の夜へと進んでいく。午前零時、ドイツの主要閣僚、政治家が帝国議会議事堂の屋外階段に整列する。統一の興奮は午前2時過ぎコ−ルと共に著者がホテルに向かうまで続き、そして著者の回想も終了するのである。
この書物の価値は、言うまでもなくドイツ統一過程を内側から描いた初めてのものである点にある。個人の回想であり、依然著者がコ−ルに近い人間であることから割り引かれなければならない部分も多いと思われるが、それでも結果としてマスコミ等に現れる前の実務的な動きを理解する上で貴重な書物であることは間違いない。複雑に絡みあった糸を、責任ある立場の人間が解きほぐしていく具体的な過程は、問題の大小はあるものの、我々が日常生活の中でも実感できるものである。しかもそれがドイツ統一という世紀の事件であるだけに、一層緊張感を抱きながらこの過程を内在的に追体験できるのである。
政治的に見れぱ、この過程は@ドイツの拡大とそれに伴うNATOの拡大に対するソ連の懸念がどこまで大きいか、それを解決するためソ連の国内的危機がどこまで進行しており、それに対するどの程度の支援が、統一への懸念を払拭できるかを探っていく局面、Aアメリカ及び西欧諸国のドイツ統一に対する懸念の大きさを確認しつつ、それを払拭するための欧州同盟へのコミットをどこまで行うかを探る局面、B戦後補償と国境問題の決着を求めるポ−ランドに対する配慮と牽制、そしてC最後に連立相手であるFDPそしてもちろんドイツ国民という4つの大きな変数を有する方程式を解くものである。そして個々の変数が、更に二次的、三次的な変数により動いていく。そのためにコ−ルは時折アドバル−ンを揚げたり、はったりの喧嘩を行ったり、又は謙虚な誠意を見せる等々、政治家に必要とされるあらゆる手練手管を使い精力的に動き回るのである。この書物の中で最も印象的だったのは、欧州各国首脳の間で行われている、想像以上に緊密なコミュニケ−ション。地理的に移動が容易であることでこれだけ意思疎通が楽になるという側面と、他方で常になんらかの合従連衡が行われ、各国共自国の思惑を貫徹するため権謀術数の限りを尽くしているという側面、端的に言えば欧州統合を容易にしている側面と依然困難にしている側面の双方がドイツ統合という歴史的事件の際に交互に現れていると言える。その意味でドイツ統合という大状況を等身大の視点から追いかけたと言えるこの書物は、欧州を巡り理論的に議論されている数々の問題を、その中で実際に責任を持って仕事を行っている政治家のレベルまで引き寄せて描くことに成功したと言えるのである。
読了:1994年11月23日