アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第二章 政治
第二節 ドイツ統一とその後
欧州統合と新生ドイツの政治再編
著者:柴田健太郎 
 直接ドイツ統一について書かれた2冊に続いて、この統一がもたらしたインパクトをいくつかの作品で探っていこう。まず初めに紹介するのは、政党の理論家の立場から、ベルリンの壁崩壊直前からのドイツ社会民主党(SPD)の政策を中心に、脱冷戦時代のドイツ左翼運動の模索とドイツ全体の政治状況を追いかけた論文集である。著者は、労働連動研究所常任理事、とあるので、おそらくは社会党系の理論家であろう。個々の論文は、夫々多くの事実と資料を引用しつつの力作である。しかし、同時にこれらの論文は、それが書かれた時期の客観情勢を強く反映していることから、これから印象に残った個々の論文を見ていく際、その執筆時期を意識しながら考えていくことにしよう。

 まず第一章は、EC統合の進捗の中で変貌していく、西欧社会主義政党の姿を論じた1989年10月(即ち、ベルリンの壁崩壊直前)の論文である。ソ連のペレストロイカが進行し、ゴルバチョフが「欧州共通の家」という概念で平和攻勢を強める中、冷戦構造を前提に1970年代に一世を風靡したユ−ロ・コミュニズムは、西欧社会党及び東欧社会主義の評価を巡りイタリア、フランス、スペイン夫々の共産党の対立が解消せず衰退していく。しかしそもそもユ−ロ・コミュニズムは、EC統合以上の「ユ−ロッパ主義」の理念を有していたはずである。そうした発想が、イタリア共産党のドイツ社民党への接近をもたらすことになる。ドイツ社民党自体、1982年9月に連立相手である自民党の支持を失い政権を喪失、1983年3月の選挙でも大敗し、その後1959年のゴ−デスベルク網領の生産力主義や防衛戦略の見直しを行い、「ドイツ・モデル」のスロ−ガンに集約される「民族的な道」から新しいヨ−ロッパ主義へ路線変換する基本網領の基礎になる「イルゼ−草案」を採択していた。

 1980年代が、レ−ガン、サッチャ−、コ−ル(そしてあえて加えれば中曽根)といった新保守主義の時代だったとすれば、80年代末はこの両政党の接近を軸に、社会主義運動が自己改造していった転換点であったと位置付けられる。この段階で、英国労働党の理論家サッソンによると3つの選択肢があったという。一つが先に述べた「ヨ−ロッパ主義」、二つ目がイタリア社会党や英国社民党、スペイン社会労働党に代表される「中道主義」。ここでは政治的労働組合主義や階級政治は放棄され市場中心の資源再配分を認知する。そして3つ目が「伝統主義」。フランス共産党、ポルトガル共産党、ギリシア共産党という旧来の社民主義との対立姿勢を維持する方向である。そしてこの文脈の中で見ると、ドイツ社民党のいき方は、「中道主義」ほど現政権に巻きこまれず、また「伝統主義」の硬直性も拒否する、両者の中間をいくものであったことが理解される。一方で、不況への突入と失業や外人労働者を巡る右翼政党の伸長の中で「イルゼ−草案」を基礎にした「ブレ−メン網領」(壁の崩壊により急遽1989年10月ベルリンで行われた第34回党大会で採択されたことから、その後は「ベルリン網領」と呼ばれた)で誼われた欧州共通の安全保障、政治の国際化、工業社会のエコロジ−的再編、女性の平等化、労働時間短縮へのラジカルな要求等が90年代の新たな社会主義理念となることを著者は期待していたかのように見える。

 しかし、壁の崩壊が、支持率を上げつつあったドイツ社民党の期待を裏切ることになる。第二論文は1990年6月の時点でこの壁崩壊という大変革を踏まえた政治環境の再度の変化を分析する。1990年3月の東独総選挙は、「保守のドイツ連合と社民党の接戦と、最終的な社民党勝利」という事前予想を覆す、ドイツ連合の圧勝に終わった。著者はこの選挙結果を分析し、社民党や東独共産党の後継であるPDSが北部では強いにもかかわらず、南部のドレスデン、ライプチヒ、エアフルトといった、戦前の社民党の地盤である工業地帯の労働者中心の大票田で大きく敗れたことを指摘する。結局この選挙結果は、コ−ルによる東西マルクの交換比率1:1という主張に労働者がなびいたことが主因であった、と結論し、この論文では最終的に1990年4月のボン首脳会議でこの交換比率が決着するまでの経緯を追いかけている。

 こうした通貨交換比率決定の内幕や、憲法上の統一方式の決定に至る諸環境や論議は、著者の希望的観測(統一ドイツの民主的社会主義への道は、資本の意志に従属するのでなく、東西ドイツの左翼が広範に団結し、国民と共に戦い取らねばならない)、そして西独社民党の統一に対する主張の理念的な正しさにもかかわらず、政治的には統一ドイツに対する影響力を失っていった過程を逆説的な形で見事に示しているのである。

 この傾向は、1990年12月に行われた統一ドイツ初の連邦議会選挙を扱った第三論文でも現れる。CDUとFDPによる連立与党の大勝(特にFDPの大躍進)、SPD、緑の党の敗北(特に緑の党は議席を失う)に終わったこの選挙が示しているのは、ドイツ統一後の大量失業、企業倒産、物価上昇等からの生活苦が深刻化する中での政治不信であると著者は言う。1987年1月の西独連邦議会選挙と1990年3月の東独人民議会選挙から今回の選挙結果を見ると、FDP以外は軒並み票を減らし、また投票率も低下した。しかし、特にコ−ルとゲンシャ−は統一過程での数々の行事に参加することで、マス・メディアに乗り、選挙戦のテ−マをドイツ統一に絞ることに成功。他方SPDのラフォンテ−ヌが1989年以来主張し、それなりに成果を上げてきた環境保護、住宅問題、家賃値上げといったテ−マは、特に1990年7月の通貨同盟以降背後に押しやられた。80年代始めからの長期的な経済の好況も連立与党の支援材料となった。しかしそのCDUも、東独地域では、失業、物価高騰、企業倒産をもたらした張本人として東独五州で惨敗したのである。

 この選挙結果を受けてのCDUとFDPの連立交渉もなかなか面白い事実であった。FDPが選挙公約として掲げた旧東独地域における税法上の優遇措置と投資減税、そして労働者に対する非課税投資枠の引き上げについて、CDU側は財政困窮にもかかわらず、増税を回避するという選挙公約から拒否し、一時連立交渉が暗礁に乗り上げたのである。結局この問題は非課税枠金額の引き下げにより決着したが、これはその後の統一ドイツの財政問題を象徴する事態であった。言うまでもなく、ドイツ統一の財政負担は、その後道路、鉄道、通信施設等のインフラ投資ではなく、賃金や失業保険に主として向けられるが、増税回避という公約を守るため、その原資は赤字国債により賄われることにより、次世代への膨大な利子と負債の負担を残すことになったのである。その他、妊娠中絶を巡る議論も育児休暇の延長による財政負担の増加をもたらし、他方で老人介護法や高速道路税の導入といった、社会問題化しかねない歳入増加を目指す議論も高まるという、財政政策を直接のテ−マとする緊張が続くことになるのである。こうして第四論文が書かれる1991年5月までには選挙で勝利したコ−ルの人気は大きく後退することになる。既に湾岸戦争が勃発し、戦争支援の連帯増税が導入された1月からコ−ルの人気は低下傾向を示していたが、これは1月のへッセン州議会選挙、4月のラインラント・ファルツ州議会選挙で続けてCDUが敗北したことに示されていた。東独地域における空前の失業(インタ−フル−ク再建を巡り、ルフトハンザによる買収が成立する経緯はなかなか面白い)、それに対して復興特需で活況を呈する西側の経済、そしてそれに批判的に立ち向かうペ−ルを始めとする連銀の対応。この第四論文が簡単に素描しているのは、私が赴任する直前のこうしたドイツの政治、経済状況である。

 第五論文は、同年5月の社民党ブレ−メン大会でのPKO参加を巡る、長老派(ブラント、フォ−ゲル、バ−ルら)、左派、中道派(ユングホルム、ラフォンテ−ヌら)の議論を紹介、また第六論文では同年9月のブレ−メン市議会選挙でのSPDの後退と右翼DVUの躍進、並びにその直後のザクセン州ホイヤルスベルダでの難民キャンプ襲撃事件を素材に、欧州、ドイツの右翼運動の再編を論じているが、ここでは詳細は省略する。また私がドイツに到着した直後に吹き荒れたこの右翼政党の躍進は、第七論文で、シュレスウィッヒ・ホルシュタイン州とバ−デン・ビュルッテンブルグ州の2つの州議会選挙でも分析されているが、この動きはその後、1994年始めの難民を巡る憲法改正後は落ち着くことになる。そして第八論文は、1992年の3月から1ヵ月程度をかけ欧州で取材旅行を行った著者夫婦の大雑把な印象記であり、これまでの理論的な論文とは異なり、女性労働や家族問題が主要テ−マとなっている。

 以下、付属資料として社民党の行動綱領や党大会での基調演説等が収められており、それぞれの資料も興味深いが、ここでは取り上げない。しかし、この論文集は、本来は党派的論理が出てもおかしくないにもかかわらず、むしろ社民党の議論を中心にドイツ統一前後の数年間に発生したドイツの政治、経済、社会の変化をより理論的に捉えているといえる。統一の混乱期であったことから、著者が論じている個々の事象の意味合いはその後も刻々と変化していると言えるが、それにもかかわらず、こうした混乱期、移行期に、野党であった社民党が如何に考え、行動していたか、そして何故に支持を増やせなかったのか、という分析はなかなか参考になるものであった。今後のドイツの政治構造の変化を追いかける上で十分参考にできる情報を与えてくれる作品である。

読了:1994年8月23日