新しいドイツ
著者:D.マーシュ
今まで紹介した3冊は、ドイツ統一前後の政治過程に焦点を当てた作品であったが、これからは、もう少し範囲を広げ、この統一を受けたドイツの全体状況を紹介、分析した作品群を見ていくことにしたい。まず取り上げるのは、英国フィナンシャル・タイムズのボン駐在員(当時)、D.マ−シュのドイツ・レポ−トである。これは、ドイツ到着直後の数週間で私自身が実感しつつあった現在のドイツの姿を、政治、経済、文化のあらゆる面から包括的に描いており、その意味でやや興奮しつつ、いっきに読み上げたのである。
本の構成を概観すると、第一章から第五章までは、戦後ドイツの歴史をたどりつつ、統一に至るまでの経緯と、この統一がもたらす将来的な問題に焦点をあてる。続いて第六章と第七章では、統一によりますます影響力を強めたドイツ経済の現状と展望を、第八章と第九章では、メディアの問題を含めたドイツの政治過程を分析、そしてそれ以降は、ユダヤ人、外国駐留軍と軍需産業、原発問題を含めた環境問題、移民問題といった個別問題を取り上げ、最後に全般的なドイツの行方を模索している。これらの論点は、現在までの私の限られたドイツでの体験の中でも十分実感できるものであることから、以下こうした私的感覚も交えながら、特に興味深い部分を整理していこうと思う。
戦後のドイツは、この40年の間に「外国市場を獲得したが、安全保障を手に入れることはできなかった。(中略)世界中に友人を作ったが信頼と理解は得られなかった。勤勉と輸出で経済力を築いたが、それを十分活用するだけの自信を身につけることはなかった。」この著者による戦後ドイツの総括は、独立して読めば、日本について言われた表現かと錯覚するくらいである。既に第一節で触れたこのドイツと日本の戦後史の類似性は、今後私がこの国の事象を捉える上で常に帰っていく視点となるのであろう。
第三帝国の遺産の克服。言うまでもなくそれがドイツ戦後史の出発点であった。もちろんヒトラ−とその体制は、連合軍により、政治的のみならず、物理的にも廃墟と化した都市と共に葬り去られた。しかし実際には、その遺産はいたるところに見え隠れしていた。例えば、ゲ−リングの別荘と個人的な狩猟場は、89年までホ−ネッカ−が引き継いでいた。ヒトラ−に協力し、戦後BASF、ヘキスト、バイエルの3つに分割された巨大化学会社 I.G.ファルベンの物語は、1986年になっても尚、テレビ・ドラマとなり、茶の間にナチの記憶を蘇らせる。同じように、1988年ダイムラ−・ベンツは、その戦争協力を償うため、米国ユダヤ人組織に20百万マルクの支払いを行い、またテレビの人気キャスタ−が、1987年、突然そのナチ協力の過去を雑誌シュピ−ゲルに暴露され引退する。政治家にとって、第三帝国を連想させる「祖国」「国家」といった言葉は、依然タプ−であり、現大統領のヴァイツゼッカ−は、絶えず、リッペントロップの部下であった自分の父親に対する負い目を背負って国民に語りかけることになる。冷戦の開始と共に戦争責任者が復活したのは、日本も同じであるが、これほどまでに徹底して戦争責任をドイツが追求するのは、日本とは大きく異なっている。同じ戦後復興も、日本は忘却の上に行われ、ドイツでは贖罪の上に行われたとも言えそうである。
おそらくこうした感覚は、日本とドイツの大きな戦後体制の相違、即ち、ナチの崩壊が東西ドイツの分割をもたらし、それが1990年まで持続したことと無関係ではないであろう。そもそも歴史的にはドイツという国家はなく、多くの領邦国家の連合体があっただけである。そのドイツが地理的に欧州の中心に存在することから、「ヨ−ロッパの要」として多くの思惑の交錯をもたらすことになる。戦後、アメリカにより民主主義を移植され、マ−シャル・プランを契機に経済復興を遂げたドイツは、もちろんアメリカとの関係を悪化させることはできないものの、他方で、東方外交という形で伝統的な東側との関係も維持してきた。プラント、シュミット、そして保守政権においても長期にわたり外相を勤めたゲンシャ−(自民党党首−当時)が、いち早くゴルバチョフのペレストロイカと「欧州の家」というコンセプトに共感を示していた。今となれぱ、統一への下地はこうした東方外交の中で醸成されたと言っても過言ではない。そして超大国のデタントは、ドイツのアメリカ依存を一層減少させ、より広いEU統合を目指した動きとなっていったのである。
ドイツにおける民主主義の問題は、日本との類似性を持っている。即ち、外から押しつけられた民主主義を如何にして内発的なものにしていくか、という試行錯誤が戦後ドイツの歴史となったのである。日本と同様、いくつかの脅威が、折々発生している。1987年のパ−シェル事件は、戦後生まれの政治家が民主主義の原則から容易に逸脱することを示し、1989年11月のドイツ銀行頭取ヘルハウゼンの暗殺は、ワイマ−ル崩壊の一因となったテロリズムの復活を内外に印象付けた。同様に1986年のフリック事件は、ナチとコングロマリットの汚れた連合が、依然戦後も存在していることを示すことになったし、ワイマ−ルの小党乱立という轍を踏まないため戦後採用した比例代表制にもかかわらず、80年代の政治スキャンダルは、既成政党への幻滅を生み、緑の党や、DVU等の極右政党の進出を促すことになる。そうした状況下、1990年7月通貨統合が、そして10月政治統合が、まさに誰も想像していなかったスピ−ドで突然実現した。統一により東部5州が加わり、より複雑になった政治過程の中から次にどういう動きが出てくるか、全く予断を許さないのである。
ドイツ経済。日本と同様の奇跡的復興の陰には、ドイツ企業のしぶとい生命力があった。著者は、製造業上位10社の中で創立が19世紀に遡る企業の主要国比較を行っている。アメリカでは4社、英国ではユニリバ−1社であるのに対し、ドイツでは何と8社に及ぷ。上位20社で、第一次大戦前の創立で見ると、夫々10、6、13社となる。即ち、「政治的には比較にならないほど安定し、その恩恵を受けているイギリス、アメリカの二国に比べて、ドイツの場合はしっかりした企業体制が伝統の中の大きな要素を占めている。」のである。二回の世界大戦での敗戦とそれによる産業基盤の破壊を考えるとき、このドイツ企業の生命力は驚異的であると言える。
加えて、ドイツ大手産業グル−プが、歴史的に見てもアメリカやイギリスに比較し、ロ−ン及び出資資本を銀行に頼ることが多かったことから、金融資本がより強い力を持つことになる。特にドイツ銀行は、ダイムラ−の28%、ホルツマン建設の35%を始めとする主要企業の大株主であり、この銀行の代表は、約400社に及ぶ企業の取締役となっている。この銀行はクルップやクロックナ−等の企業の経営危機には株式の買収等で協力し、同時にそこから巨大な利益を引き出してきた。前述したフリック事件でも、この銀行は、事件に嫌気がさした経営者が売り出したこのコングロマリットの株を60億ドルで買取り、その後個別に売りさばき10億ドルの利益を上げたという。こうして、金融資本と産業資本が強力に結びついた姿は日本以上であると言える(もちろんこの面では90年代後半に至り金融秩序の大変革の中で双方の国で状況が変わりつつあることは言うまでもない)。
しかし統一という事態のもと、「それまで西欧市場に向けられていたドイツの経済的関心は、東ドイツの再建に向けられるようになった。」確かにこの東に広がる新たな市場はドイツ産業界にとっては金の山であろう。しかし他方で、物質的な要求が次第に満たされ、人口の減少傾向さえ見える現在、ドイツ民族の関心は、よりよいレジャ−、労働時間の短縮、環境保護といった方向に向けられている。実際私が接してきた会社の現地社員や外部のドイツ人たちも、集中力を持って仕事へ献身しているのは確かであるが、例えば長時間の残業を行ってまで高い給与と社会的地位を目ざそうという意欲は持っていない。新たな統一のショックが、この先進国病を払拭する契機になるかどうかは、現在進行中の世界的な経済秩序の変動如何であると言える。
ドイツのメディアについての著者の見方はやや辛辣である。新聞は、ドイツ的協調主義に捕らわれ、自分の依拠する基盤を明示できないでいる。解説番組中心のテレビは常時政党の圧力を強く受け、英米ではあたりまえの自立を得るに至っていない。しかしその中で、R.アウグシュタイン率いるシュピ−ゲルが、マスコミと政界との論戦を一手に引き受けることになる。1947年、イギリス占領当局から出版許可を得たのが、彼が23才の時。その後、1962年に戦術核兵器を巡る国防大臣の疑惑を暴くことに成功してからは一貫して批判的立場からのマスコミ論調の指導力を維持している。しかしこのシュピ−ゲルはむしろ例外である、というのが著者の感触である。特に「都市文化が不在でビジネスや産業との接触も欠如した」ボンが、政治の中心であったことが、ドイツの政治ジャ−ナリストたちを「ひとりよがりや偏狭な排他主義」に陥らせ、そして政治家との慣れ合いを生んでいる、と見るのである。第三帝国の教訓から、政治・司法・経済等を意識的に地域分散させたことが、かえってこうした事象を包括的に眺めることを妨げてきた、という見方はなかなか説得力がある。
ユダヤ入問題は、引き続き「表面では見えないところ」で存在している。ナチによる虐殺で、1933年のドイツ語圏内で100万人いたユダヤ人は今や約6万人に減少している。それにもかかわらず、反ユダヤ主義は「ユダヤ人がいなくなっても依然として生き残っている。」1930年代の反ユダヤ主義は、一方でユダヤ人の結束を強めたが、他方ユダヤ企業を強制買収することによって巨大化した、フリックやマンネスマンあるいはドイツ銀行、ドレスナ−銀行等は戦後も生き残り、業界での独占・寡占的地位を築くことになった。こうした感覚が、政治家にはデリケ−トな発言を要する地雷原を供給すると共に、1988年の西独での調査で15%という、根強い反ユダヤ主義を温存させているのである。後述するトルコ人等の外国人に対する極右による排斥運動は、一歩異なれぱ新たな反ユダヤ主義の奔流となる、という指摘もあながち外れているとは言えない。
外国駐留軍問題。1989年段階で、西独及びベルリンにNATO側が約40万人、東独にソ連軍38万人、東独軍17万人が対峙した状況は、ヒトラ−が全面戦争に備えていた頃のざっと2倍の規模であるという。米軍はシュッツガルトに作戦本部を置き、フランクフルトに陸軍の精鋭、第5軍団を持つ他、ライン川とマイン川の対岸にいくつかの重要な空軍基地を有する。これにバ−デン・バ−デンに本部を置くフランスとラインダ−レン(ウエストファレン)に本部を置くイギリスとが加わり、さながらドイツは巨大な要塞国家の様相を呈していた。東西ドイツの国境に関する軍事上の管轄権は米英が握っており、またこれらの基地はベトナム、中東、リビヤ等外地での作戦行動の補給地として、連邦政府の同意を得ることなく使用されてきた。私が現在滞在するファルツ州もそうした戦略上重要な位置にあることから、車で少し走ると、ト−チカを有する軍事施設に行き当たり、上空を頻繁にジェット戦闘機が飛びかっている。またここポッパルドの町を挟むライン川のビンゲン、コプレンツ間約50キロに橋が一つも無いというのも、歴史的に数々の戦争で防衛線となってきたこの川が現代においても同じ役割を持っていることを物語っている。
こうした軍事施設の存在は、戦後ドイツの安全保障であったと同時に、次の戦争が発生すれば、ドイツが主戦場となることを意味していた。この緊張感は、島国の日本では決して実感できないものである。しかし冷戦の終結とドイツ統一は明らかにこの緊張の時代の終焉をもたらすであろう。1994年までにソ連軍を東独から撤退させる、というゴルバチョフ提案は、その実施の確認まで紆余曲折を経るとしても、その際には当然この西側の外国駐留軍も大幅に縮小されることになろう。そしてその時初めてドイツ人は、統一が完成し、戦後が終ったことを実感できるのであろう。
軍事問題が、やや過去のテ−マとなる反面、今後のよりシリアスな問題として提示されているのが原子力エネルギ−の利用を含む環境問題と移民問題である。そもそも1986年に起こった2つの大きな欧州での環境事故、チェルノブイリとスイスの製薬会社サンド社の火災事故に対するドイツの反応は、欧州のどこよりも大きく、またこの事件によりドイツのエコロジストたちは世論の支持を得ることに成功したという。オット・ハ−ンによる核分裂の発見という栄誉に浴しながらも、今やドイツは欧州のどの国よりも原発に対し消極的である。またEUの食品自由化に際しても、最も厳格な基準を主張し「エコロジ−帝国主義」と揶揄されたのもこの国であった。しかしその国がこと自動車に関しては、その窒素酸化物対策には一歩も二歩も遅れている状況にある。ドイツ経済を支える巨大なコングロマリットとの利害調整は、今後従来のような高度成長が望めないが故に、統一後のドイツのよりシリアスな問題となるであろうことは疑いない。
移民問題も、より大きな危険を秘めた課題である。1961年までは、ドイツは戦後復興の労働力として東独からの移民を積極的に受け入れる。1961年にベルリンの壁ができると、今度は南ヨ−ロッパを中心に何百万人という「出稼ぎ労働者」を受入れ、低コストの労働力として利用してきた。80年代末の統計で西独における外国人数は、150万人のトルコ人を始め、旧ユ−ゴスラビア、イタリア、ギリシャの順で総計430万人、人口の約7%を占めるまで増加している。他方ドイツ人の出生率は一人の女性に対し1.3人。人口を維持するための出生率が2.1人程度であることから、OECDの予想によると西独の人口は来る半世紀の間に約25%減少するという。この結果、移民人口の比率は拡大し、年金負担は増大することになるが、特に前者の問題は、統一後の旧東独地域でよりシリアスな問題となっている。9月30日付のシュピ−ゲル誌は「ザクセンに行くなら死んだほうがまし」というタイトルで、極右派がベトナム難民キャンプを襲い、重傷4名、逮捕83人を出したザクセン州ホイエルスウェルタでの事件とその周辺を取材している。この事件において警察官が、極右による外国人宿舎の攻撃を阻止しなかったのみならず、「数千人の市民が、奇声を発しながらこれを歓迎した」ことから、シュピ−ゲルは「外国人への敵意は決して極端な少数派に限られていない」と警告している。旧東独地域での失業が統一を契機に拡大していること、及びこの地域の民衆が、戦後40年以上社会主義のもとで異民族との接触がなく生きてきたことを割り引いても、この事件が、前述のユダヤ人問題との関係においても、統一ドイツに対する大きな警鐘であることは間違いない。
こうして統一ドイツの状況をつぶさに見た後、著者は最後に今後のドイツの運命と欧州秩序の展望を総括している。ドイツは今や自分たちの国の地理的な問題を再認識した。その結果ドイツは、旧東欧の社会主義国の将来に大きな発言力を持つと共に、EUの中心的な存在として経済力を背景に東西間の政治的足並みを調整する役割を果たしていくだろう。そのためにも、西側は戦後のドイツ人の堅実さと良識に対し強い信頼感を表明していかねばならないだろう。そしてそうした態度は、今こうしてラインのほとりでこの国での生活を始めた私自身にとっての課題でもあるだろう。ドイツの歴史と現実を偏見なく認識しつつ、この国の今後の進路を共感を持って、またある時は批判的に見極めること。それが今後の欧州の新秩序を展望し、それにより日本と欧州の新たな関係を模索する者が絶えず念頭に置かねぱならないものであることは確かである。
読了:1991年10月15日