国境をこえるドイツ
著者:永井清彦
ドイツ統一及び鉄のカ−テンの崩壊の大きな帰結として、中欧文化圏の復活が言われている。言葉を変えれば、これは実質的な大ドイツ圏の復活である、とも言い換えられる。しかしこの事態は、必ずしも歴史の中では歓迎されたものではなかったし、今回の統一も、周辺諸国からはある種の脅威を持って見られているのは間違いない。かつて二つの大戦前夜にドイツがこれらの諸国に拡張していったのと同様の動きが、この統一により再び発生しうる環境になったと言えるからである。しかも、現在のドイツは、かつてのように政治的、帝国主義的に拡張する必要がない程強力な経済と通貨を有している。周辺諸国は、このドイツの力を警戒しつつも、自国の経済復興のためにはこの力を借りざるを得ないというジレンマに苛まれているのである。こうした状況をいくつかの興味深い現象面から、歴史的な背景も考慮しつつ検証したのがこの書物である。
’Drang nach 0sten’というドイツ語に示されるように、13世紀以来、ドイツ人の東方進出は一つの民族的衝動とも呼ばれるべきものであった。形こそ変えているが、鉄のカ−テン崩壊後新たなドイツの拡張が始まっている。即ち、かつて国境を越えていった商人、手工業者、坑夫、農民そして聖職者に代わってこの役割を果たしているのは、現代のハイテク技術と資本である。それではこうしたドイツの拡張が、現在いかなる現象として現れているのだろうか。著者はこうした問題意識から、ドイツ人が多く植民し、それ故に特に第二次大戦前後に国境や民族的処遇を巡り大きな問題となった3つの地域一ポ−ランドのシュレ−ジェン地方、次にロシアのドイツ系諸都市、そしてチェコスロバキア(当時)のズデ−テン地方を取り上げ、それらの地域での「ドイツの拡張」の実態を見ていくことになる。
まずシュレ−ジェン。ポンメルン、ブランデンブルク東部、東プロイセンと共に、第二次大戦後ドイツからポ−ランドに割譲されたシュレ−ジェンには、1988年の統計によると僅か2500人のドイツ人が残っていたにすぎなかった。ところが、89年革命の後、この地域だけで、35万人、あるいは一説によると100万人が「自分はドイツ人である」と名乗りだしたという。第二次大戦後、この地域から800万を越えるドイツ人が、ポ−ランドに編入されることを嫌い、ドイツ領に移住したと言われているが、その後ほとんど消滅したと見られていたこの地域のドイツ人の人口が、自由化と共に突然増加したのである。
そもそもポ−ランド自体が、近代において3度に亘る分割を経てきたが、ドイツ、チェコスロバキア国境に位置するシュレ−ジェンは、14世紀以来ボヘミア、オ−ストリア、プロイセンそしてポ−ランドと次々に帰属を変えてきた。そうした中、民族的にも混血した独特の歴史を有するシュレ−ジェン族が形成されてきたが、こうした混血民族は、ある時はポ−ランド人になり、またある時はドイツ人となる。89年革命の後、まさにドイツ人と名乗ることが彼らにとって最も有利になった、というのが、この地域におけるドイツ人人口増加の最大の理由なのである。
しかし、当然こうした動きは、ポ−ランド全体から見れば歴史的に繰り返されてきた悪夢を再現する。特に、この地域から戦後ドイツへ移住した難民が、賠償と資産保全を求めて結成した団体はドイツ保守政権の大きな圧力団体となっているが故に、ポ−ランドはドイツの経済進出と住民のドイツ化に対し慎重且つ敏感にならざるをえないのである。
旧ロシアにおいては、レニングラ−ドが、ザンクト・ペテルスブルクと変名、カリ−ニングラ−ドも、革命前のドイツ名であるケ−ニヒスブルクヘ戻すことが検討されているという。この背景には、11世紀以来のドイツ騎士団によるバルト海沿岸地域への植民の歴史がある。特にケ−ニヒスブルクの歴史と現代の変貌は興味深いので簡単に要約しておこう。
哲学者カントがその生涯の大半を過ごしたことで知られているこの町が、ドイツ人植民者により建設されたのは1255年のことだった、という。以来中世以降はハンザ同盟の都市として、バルト海貿易を中心に繁栄、第一次大戦後は東プロイセンがドイツ本国から飛び地のように切り離されたとは言え、基本的にはドイツ人の町であり続けた。しかし、第二次大戦によりこの町の歴史は決定的に分断される。特に、終戦直前の戦闘により、この町は徹底的に破壊され、戦後もこうしたハンザ的伝統を根絶やしにする方針が採られてきた。
ところが、ドイツ側の働きかけにより、89年革命の後、この地域が他の5地区と共に、まっさきに「経済特区」に指定される。こうしたケ−ニヒスブルクの復興を積極的にアドバイスし、指導しているのが、ドイツ銀行のクリスティアンス元頭取であり、またハンザ同盟の旧友リュ−ベック市であるというのは興味深い。実際「現代ハンザ総会」という国際会議、国際見本市が1980年以来ドイツ諸都市やタリンで開催されている他、南スゥェ−デンの諸都市の商工会議所は「ハンザ経済会議」を結成、また91年9月には10ケ国32都市による「バルト港市同盟」が、92年3月には10ケ国による「バルト評議会」が設立されるなど、かつてのこの地域の連携関係を強化しようという動きが始まっている。そしてここでは、「中欧の復権」と同じ意味での「ハンザ同盟の復活」が行われており、近年独立運動で揺れたバルト3国を含めた旧ソ連のドイツ系都市もそうした形での経済再建の道を探っているのである。
かつて、姓すらないリトアニアの農民の娘として生まれ、ピュ−トル大帝の妃から最後は自らがツア−となったエカチェリ−ナ1世以来、ロマノフ王朝の中にはドイツ人の血が流れ、またドイツから嫁いだエカチェリ−ナ2世の時代には積極的なドイツ人官僚の登用が行われた。この結果1880年代にはロシア高級官僚の30%以上がドイツ人であったという。
こうしたドイツ人のロシアでの成功は彼らの規律と勤勉のなせるところであったが、当然のことながらそうしたオ−バ−プレゼンスが、スラブ人による反ドイツ感情を強めることになる。これらの地域が、歴史的に深いドイツとの関係を強化することによりその経済再建を果たそうと試みるのは当然としても、それは新たな反ドイツ感情の復活に繋がることにも注意しなければならないだろう。
ドイツが国境をこえる3つ目のケ−スはチェコスロバキアのズデ−テン地方である。第二次大戦前のこの国の人口は約15百万人。戦争による死者がさして多かった訳ではないこの国の人口が戦後は約250万人減少したと言う。この最大の原因が、戦後の「ズデ−テン・ドイツ人」の追放であった。
この地域へのドイツ人の移住も11世紀に遡る。そしてロシアのケ−スと同様、第一次大戦後大きく成長していたボヘミア経済も実権を握っていたのはこの地域のドイツ人であった。しかし、戦後チェコとスロバキアの民族国家としてこの国が独立した時、この2つの民族の人口が、46%及び13%であったのに対し、ドイツ人人口は28%とスロバキア人口の2倍以上も存在していた。それにも拘らずこのドイツ人には政治的発言権が認められることがなく、それが、後年この地域でのドイツ国粋運動をもたらし、ヒトラ−による侵略に繋がっていくのである。
ナチスによる恐怖政治の反動が、戦後の300万人に上る「ズデ−テン・ドイツ人」の追放をもたらすことになるが、これが戦後のドイツとチェコスロバキアの関係を複雑なものにしている。鉄のカ−テンが存在した時代はそれでもイデオロギ−的対立がこうした戦後の歴史を覆い隠していた。しかし、それがなくなった89年以降、これらの故郷喪失者に対する補償問題が前面に現れることになり、1992年2月にようやく調印された両国の善隣友好条約においても最大の焦点になるのである。
結局この条約では、ドイツの戦時賠償に触れない代わりに、追放ドイツ人の補償問題も回避するという玉虫色的な解決がとられたが、ここにも欧州の民族と国境を巡る困難な問題が象徴されている。しかし、一方ではフォルクスワーゲン社によるシュコダへの出資に見られるとおり、ドイツ資本のチェコスロバキアヘの進出は既に開始されている。1991年のこの国への外国からの投資10億ドルの内80%以上がドイツ資本である、という事実が、またしてもこの地域の運命を物語っている。
こうして、「国境をこえるドイツ」のいくつかのケ−スを見てくると、それらの多くが欧州の歴史の中で過去に何度も繰り返されてきたことが分かる。その意味で、古くて新しいこうした問題の解決のためには歴史的な思考が必須である。過去の誤りを繰り返す事なく前進していくためには、歴史から学ぶこと以上の手段はない。著者が度々引用するドイツの新しい世代の指導者であるヴァイツゼッカ−大統領が、徹底的な過去の反省の上にたち、尚且つより国際主義的な関係を模索しようとしているのは一つの大きな希望である。
しかし現実政治においては、長期化するリセッションの中でのドイツにおけるネオナチの復活のように、過去の悪夢が復活する兆しも見え隠れしている。著者がここで紹介した新たなドイツの拡張が、真の国際主義的発想で行われるか、はたまた国内矛盾の海外への転嫁として行われるかによって、この動きの評価も変わってくるのは確かである。
読了:1992年11月21日