アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第二節 ドイツ統一とその後
ドイツの見えない壁 女が問い直す統一
著者:上野干鶴子他 
 この書物は、旧東独での女性運動の統一後の変化をルポしつつ、統一のもう一つの側面としての女性運動の運命を提示している。私自身は、3人の日本人女性によるこのルポのリ−ダ−である上野が日本で行ってきたフェミニズ運動には以前からある種の逆差別的な感覚を覚え、決して肯定的な興味を持っていた訳ではないが、それでもこの報告は、今まで余り見えてこなかった、女性運動における東西ドイツの隔たりの実態を示しており、その意味で面白く読めた本であった。更に、読み方によってはこの書物は、資本主義との競争の中でショウ・ウィンドゥとなりながら結局敗れ去った東独という社会主義国の意味あいを、前向きに再検討する契機をも与えてくれるのである。

 1989年の東独民主化運動の拡大から1990年の統一に至る過程は、この民主化運動を担った勢力から見れば「裏切られた革命」であった。東ドイツ円卓会議に参加した多くの改革運動家にとっては、東独革命はあくまで社会主義の変革であって、資本主義への早期の統合ではなかった。しかし、西独コ−ル政権が、マルクの力をもとに、消費拡大と生活水準の引き上げという餌を投げると、大衆の意識は急速にこの餌に飛びついていき、社会主義の改革を志向する知識人の運動を越えていった。西独においても、この時期以降、ハバ−マスやグラスの影響力が低下していったが、東独知識人にとっては、これは戦後の社会主義独裁政権への敗北に次ぐ、第二の敗北となったのである。

 女性運動についてもことは同じであった。いや、働く女性の福利厚生が、資本主義に対する東独社会主義の大きな宣伝文句であっただけに、この部分については、統一とその後の資本主義化の中でむしろより大きな打撃を被ったのである。具体的なケ−スをいくつか見てみよう。

 統一後、東の失業率は急上昇したが、特に女性の失業率の増加がより激しい(東の失業率:91年1月、8.6%、内女性が9.6%→92年l月、18.5%、内女性が23.6%)という。言うまでもなく合理化過程でまず女性労働力から先に切り捨てられているのである。特に50歳以上とシングルマザ−ヘの影響が深刻である。後者のケ−スでは、旧東独で手厚い母性保護が整備されており、シングルマザ−でも子供を育てる条件が揃っていたため、89年の統計では婚外子の出生率に占める割合も89年で33.6%と高率でありまた離婚率も高かった。もちろん、旧東独にも、職種における男女差別や貸金格差は存在し、また何よりも、女性にとっても労働は権利ではなく義務であり、従って男並みに働いた上で家事も負担しなけれぱならなかった、という。その意味では、旧東独の家族観は、西側のフェミニズムの立場から見れば全く保守的なものであったといえるが、その反面で、国家の恩恵としての母性保護政策により、旧西独よりも女性が離婚の自由を行使し、婚外子の出生率も高かったのも事実である。

 しかし、結局保守的な社会意識が残存していたために、一度社会制度が崩壊すると、資本主義秩序の中で性差別が顕現化することになる。「東の女性は三重に差別されています。第一に労働市場における’二流市民’として、第二に女として、第三に東の市民として」。旧東独時代からの女性運動の組織である独立女性同盟(UFV)から連邦議会に唯一人当選した女性議員の言葉は、旧東独統合にはまだ何段階も越えねばならないステップがあることを示唆している。

 旧東独における両性の社会的地位や家族の位置付けは、社会主義の特徴と限界を示す好例となっているのでもう少し細かく見てみよう。

 まず男女平等の実現は、社会主義の必然的な帰結であった。男性と女性が共に解放されることが社会主義の目的であり、子供の教育や家事といった再生産労働は、営利労働と同等の意義を有すると見なされていた。しかし、この理念の実現は、言わば女性に対して、営利労働と再生産労働を両立させるための制度作りという形でしか行われなかった。確かに、妊娠、出産、育児休暇の整備とその間の職場の保障、母親の就労の前提条件である保育所、幼椎園等の諧施設はそのために十分に整備された。旧東独家族法10条では家事や育児について夫にも同等の分担を定めるなど法制度上でもその意図は明記された。しかし実際には、家事労働は相変わらず女性の仕事と見なされ、出産、育児、家事休暇等も圧倒的に女性が取るとることが多かったという。そして、ソ連型社会主義の問題点であるが、こうした理想を実際に実現することが困難な時は、むしろ現実が曲げられることになった。

 これは言わば、解放された世界であることを宣伝することの方が、実際に解放されていることよりも優位に立つという逆転が生じたことを示している。女性の経済的自立が進んだことから、女性からの離婚は増加したが、社会生活の単位としての家庭内で離婚を促す要因について議論されることはなかった。保育所や幼椎園は、女性労働を支える基盤となったが、実際は社会主義モラルを幼時から教育することが隠された本音であり、更に、性や性的暴力の問題は社会のタブ−として表立って議論されることさえなかった。こうして、社会主義の理念であった、客観的な自由と平等を守る制度、が実体を伴わないまま疎外され、物神化していったのである。こうした点も含め、現実に存在する社会主義が、結局のところ自らの論理により自己否定されていったのが1989年に至る歴史であったと言えよう。

 しかし、この崩壊に続いて発生したのは、制度を倒した保守的社会意識の復活とそして制度の消滅であった。東では、幼稚園は朝6時から夜7時まで開いており、子供の94%を受入れていたのに対し、西では3歳から6歳児のための全日制幼稚園は該当年齢の子供の9%しか収容できない。学童保育についても東では1〜4年生の80%につき施設があったのに対し、西では半日制の学校、3.6%の例外的な全日制学校及び5%の学童保育があるのみである。保守的意識は残存し、制度は消滅したというのが旧東独女性にとっての統一の実態であった。

 旧東独女性が三重に抑圧されているとすれば、旧東独の外人女性は四重の抑圧を受けている。著者たちは、独立女性同盟(UFV)にも加盟している「ゾフィア、外国人女性の連帯イニシアチブ」なる組織の活動家への取材で、こうした人々の持つ問題にも焦点を当てている。

 旧東独の時代にベトナム、モザンビ−ク、キュ−バ等の共産圏から、男性のみならず女性も労働力として招聘されてきた。旧西独と異なるのは、彼らが一般のドイツ人とは隔離されて生活していた点であり、それが壁崩壊後の東独ドイツ人の拒絶反応をもたらしたのである。しかし、そうした外国人労働者の中でも女性の場合はより厳しい取扱いを受けたという。例えば外国人女性が妊娠すると、労働カとして無価値であるが故に、即座に中絶するか、国に追い返された。ある部分でナチスがポ−ランドやウクライナの強制移民の女性に行った仕打ちと比較できなくはない事実である。89年革命の後、彼女たちも一時は希望を見出したがそれは長く続かなかった。職場はまずドイツ人に、次に男性に、そして外国人女性には最後に配分される。連邦外国人法では4年以内に離婚した女性には滞在許可は与えられないという。もちろんその他の社会保障や法的立場でも多くの不利益を被っている。それにも拘らず、ドイツ人からスケ−プゴ−トにされ、罵声を浴びせられるのは外国人男性と同じである。こうして差別が、外国人犯罪を、そしてその犯罪が更なる差別を呼んでいくという悪循環が発生する。生理的特徴故に、この場合も確かに最も差別されるのは女性である。

 本書ではこうした旧東独の女性に関わる否定的側面のみではなく、例えば女性の再教育センタ−を設立し、軌道に乗せた女性たちやベルリン中央区の区役所平等課といった行政の中で女性政策に取り組んでいる人々の例も紹介されている。ベルリンやエアフルトの女性センタ−や、女性中心の自助グル−プもこうした活動を底辺から支える力になってきており、こうした勢力が、例えば家庭内暴力から妊娠中絶問題といった政治問題まで影響力を持つようになりつつある。こうした運動が、男性、女性を問わず第二の戦後を迎えた旧東独の人々を支えていくのは間違いない。戦後の西独国民が出発したのとはまた異なる地点から東独の人々は出発しようとしているが、幸いなことに彼らは、かつての生活から統一ドイツに貢献しうる能力と価値を学んできている。あるジャ−ナリストの言葉を要約すると、それらの価値とは「たえまない窮乏生活の経験からの質素と倹約、強制された共同生活からの連帯性、恒常的な社会危機からの生存のための技術、偽善、嘘、見せかけだけの議論の経験からの、より大きな誠実さと本質的なものへの確かな勘、そして独裁政権から疎外されていた経験からは、消費とメディア社会の誘惑からの免疫」である。そして女性にとっては、旧東独における女性の自立と解放についての再評価と反省を行うことが、単純に西独社会と文化に吸収されることを避け、ドイツにおける文化を前進させるためのエネルギ−となるであろう。いずれにしろ、統一前後の西独から文化が消えてしまったのに対して、東独の中からは統一に伴うアイデンティティ−の危機と社会不安の中から新たな文化の胎動が聞こえ始めている。深刻化する経済状況とネオナチの躍進といった社会不安の中から生まれた、こうしたエネルギ−が次の時代を作っていくのは疑いのないところである。

読了:1993年12月29日