現代ドイツの試練 政治・社会の深層を読む
著者:仲井 武
ドイツに25年にわたり滞在し、主として旧東独の政治体制を研究してきた学者による、個人的回想も含めた論文集である。旧東独研究者であるが故に、分析の手法としては、旧東独の実態を前提に、それが統一後いかなる問題を残したか、という切り口が中心になる。また熊谷や上野の新書と同様、時として個人的感情も交えたジャ−ナリスティックなルポの類いが本書の中心である。
東独国家建設30周年記念の年(1979年)の東独取材旅行や、その後の東独に関わる批判的執筆活動により、著者はシュタ−ジの監視対象になっていたという。統一後公開されたシュ夕一ジ文書に記載された著者自身についての管理デ−タから、シュタ−ジが具体的にどういった観点や項目により内外の人々のコントロ−ルを行っていたかが理解される。
こうした経験を前提に、著者はより一般的なシュタ−ジ論に入っていくが、もちろんこの議論は崩壌した国家の過去の犯罪を如何に裁くか、という問題である。ナチ裁判が西独の戦後に長く影を落としたように、このシュタ−ジ裁判も、今後しばらく統一ドイツの喉元に刺さった骨として残るのは間違いない。しかし、他方で現象としては既に過去の問題になってしまったこの論点は、裁判の問題としてはともかく、政治的問題としては重要性を失っている。旧東独の崩壊した管理体制を批判し、優越感に浸るのではなく、現在支配的な西欧国家と世界の支配的秩序を批判的に見ていくことの方が今は重要なのである。唯一特記しておくべきは、東独革命がシュタ−ジによって仕組まれた革命であった、とする見方である。ベ−メ、デメジエ−ル、シュヌ−ア、シュトルベ等の反体制運動指導者に対するシュタ−ジ疑惑、無血で行われた1989年革命、シュタ−ジ・デ−タの計画的処分と幹部の新体制での社会的・経済的地位保全といった事実がこの見方の論拠となる。しかし国家崩壊が避けられなくなった時に、自己の利権を最大限維持しようとする動きがあったのは当然であり、だからといってそれが革命の主因であった、というのは余りに強引な議論である。
第四章で紹介されている統一に際しての様々な論議は、私にとっては新しい事実を含め、いくつかの示唆を与えてくれる。1989年から90年にかけてドイツ統一を巡り、国家の形態論と統一の方法論という2つの論議が俎上に上ってきた。しかし現実の政冶過程の加速化により、これらの議論が十分に論争されることはなかった、と言う。それでもいくつかの議論は、統一過程の中で結果的に知識人がその存在感を喪失してしまったが故に興味深いものである。
一例を挙げれば、歴史家のコッカは、統一の衝動を自由・民主主義の要求とナショナルな要求(統一)が合体したものとして、ビルヘルム帝国、ワイマ−ルそして第3帝国とは対立するものとして肯定的に捉えた。同様に歴史家ニッパダイも、主権在民を強調し民主化を求める『壁』開放以前の第一スロ−ガンと、『壁』開放後の祖国統一に向けての第二スロ−ガンは異質なものではないと、民主化と統一を同一の衝動の顕在化と考えるのである。他方これに対立する立論としてはグラスのものが有名である。彼にとっては「ドイツ」という文字と「統一」という文字の組合せは「アウシュビッツ」を呼ぷ悪魔の声なのである。これが、彼が60年代から統一に反対する論陣を張り、1989年から90年にかけても大勢にあえて逆流し、あくまで東西の国家連合にこだわった理由である。同様に統一に否定的であったハバ−マスはナチオ−ン、国民国家、愛国心といった国家概念を否定し、憲法愛国主義や市民概念を対置したという。著者はこの論争を、西独知識人に定着したかのように見えたポスト国民民主主義国家的思考の、突如の統一による動揺と見ているが、その中でも常識的統一歓迎論、伝統的国民国家枠内論にただ一人ドンキホ−テ的に対峙したグラスに共感を示しているのは明らかである。
また、統一ドイツの首都問題は、政党の枠を超えた「ベルリン党とボン党の2大政党対立下における総選挙の様相」を呈した後、1991年6月の連邦議会が僅か18票差でベルリン遷都を決定したが、これも単なる物理的な首都の変更に留まらず、国家の質に変更を与える可能性が高い。結果的には歴史的、法的かつ極めてエモ−ショナルなベルリン遷都論が、現実的、合理的なポン首都維持論を押し切った形となったが、その意味で統一問題と同様、ここでは西独の戦後民主主義とドイツの歴史意識が試されていると言える。しかし、その議論の詳細は割愛し、むしろ以下の2つの事実を確認しておこう。
@1949年5月の連邦議会での採決は、ボン33票、フランクフルト2 9票と接戦であったこと。
A分権国家としての西独:ポン(政治機能のみ)、西ベルリン(連邦環境庁他の多くの中央官庁)、カ−ルスル−エ(憲法裁判所、最高裁判所)、ビ−スバデン(連邦統計局、連邦刑事局)、フランクフルト(連邦銀行)、ニュ−ルンベルク(連邦雇用庁)、
カッセル(連邦労働裁判所)、ミュンヘン(連邦特許庁)に対する、政治、経済、文化の集中した東ベルリン。
この対比に示されるように、べルリン遷都は戦後西ドイツの権力分散型の政治・行政機構を変質させる可能性を秘めていることには注意する必要がある。
ドイツにおけるフォルクとナチオ−ンの境界の曖昧さは「遅れてきた国民」に現代史の数々の試練を課してきた。戦後アデナウア−は、民主主義と民族自決の区別とナチオ−ンの分裂という状況下、「少なくとも西のナチオ−ンをフランス主導による西欧統合の枠内に入れ、西欧の安全保障という利害の中で、米国を盟主とするNAT0に融合」することにより主権を回復する戦略を採った。その上でドイツにおける「1つのナチオ−ン、2つの国家」を理論根拠として「2つのナチオ−ン(階級的ナチオ−ン概念)」を譲らない東独と対峙した。東独側のナチオ−ンも一方では西独の消費文化と自由に憧憬の目を向けながらも同時に東の既得権を過大評価することによってそれなりのアイデンティティ−の根拠を持っていった(著者の言う「ハルプ・ナチオ−ン」)。このため冷戦が終了し、壁が崩れた時、東独の階級的ナチオ−ンが存立根拠を失ったのは当然としても、同時に西独の主張したようなすっきりした1つのナチオ−ンが成立していた訳ではないことが、特に統一負担問題が現実になるに従い明らかになる。オッシ−とウェッシ−というナチオ−ンの分裂が精神的な壁として残ることになったのである。著者はドイツ人の性格の特徴として、日本人がパニックに陥りやすいのに対し、「アングスト(不安)」が深層心理に横たわっていることを指摘しているが、これは奥深い森に潜んできたゲルマン民族の根源的性格と言える。この性格は北方民族の悲観主義につながる。環境破壊という不安を政治化したのが緑の党、という言い方もドイツに長く暮らした者ならではの感覚である。
こうして統一後の雇用格差、失業の増大が東の住民心理に暗い影を投げかけることになった。従来のナチオ−ンの形成に重要な役割を占めることのなかった経済格差が、再統一に際しクロ−ズアップされた。従来の東独の階級的ナチオ−ンが崩壊した後に、経済的劣等感という経済的ナチオ−ンが取って代わったのであり、この結果これを克服することがドイツ統合における当面の最大の課題となったのである。加えて西独市民の「イタリア化」と呼ばれる現象−労働と勤勉の従容から私生活の享受、政治不信感の増大、新党の進出と政治の不安定化、経済混乱、財政赤字の急増、そうした中での消費志向の拡大、労使間の緊張と労働争議、闇経済・地下経済の拡大、地域格差から生ずる社会的対立等−が、戦後の高度成長と同じ道を辿ることを困難にしている。ダ−レンドルフが指摘している通り、「経済危機が民主主義の危機に直結しない米英と異なり、ドイツではそれが民主主義に対する懐疑につながる恐れがあること」にも留意する必要があろう。この論文が書かれてから現在までにおそらく2年程度の月日が経っていると思われるが、この間もちろん危機は一部改善、緩和されてきているとは言うものの、構造的には依然残存している。ドイツにおける生活者の実感に裏付けられたこの論文は、この書物の中で最も印象深いものである。
その他、ドイツ右翼運動や、欧州統合とドイツの関係を扱った論文が続くが、多くは既に色々な機会に接してきた事実、分析を整理した、との印象で、特段の新鮮さはない。その中で一つだけ、今後の欧州政治の分析視角として留意しておくとすれば、以下の一文であろう。即ち「将来のヨ−ロッパ連合を描く場合、ヨ−ロッパ統合の東への移動と、ドイツの中部ヨ−ロッパヘの帰還と、独仏関係という3つの文脈を無視することはできない。」ドイツ問題という欧州政治のアポリアは依然存在している。欧州統合とドイツ統合という2つの統合を同時に行うことによりもたらされる問題は、私の残されたドイツでの時間の中では決して解決されることはないと同時に、解決に向け僅かでも進捗するか、あるいは大きく後退、悪化するか、予断を許さない状態にあるのは間違いない。
読了:1995年4月25日