大国ドイツの進路 欧州の脅威か統合の中核か
著者:五島 昭
1988年から94年のドイツ激動の時代に毎日新聞のポン支局長を勤めた記者によるドイツ・レポ−ト。同じ時期にポン駐在であった朝日新聞の記者は、統一過程を子細に跡付けるレポ−トを残したが、こちらはむしろテ−マを限定しつつ、より自分の取材の現場感覚を生かした読み物を目指している。その意味で、記載の全体観・包括性には限界があるものの気楽な読み物になっている分、個々の論点は理解し易いものになっている。
扱われているテ−マは、民族主義の台頭、政治路線における現実主義への転換、欧州統合に向けての現場感覚、東への膨張の4つであり、最後に変質する国際環境下でのドイツの方向性を模索している。これらの論点は既に他の著作でも触れられているものであることから、ここでは、若干の新しい事実、見方のみを注記するに留めておく。
(民族主義の台頭)
1992年11月のシュレスウィヒ=ホルシュタィン州、メルンでのトルコ家庭焼き討ち事件は、シュトラウスの交響詩のテ−マにもなったディル・オイゲンシュピ−ゲルがペストで没したことで知られていたこの町を、ネオナチ事件で有名にした。運邦擁護庁発表の統計によれば、極右による暴力事件は、1989、90年の各264、306件から91年、1489件と急増し、92年には2639件とピ−クに達したが、その後93年、2232件、94年、1233件と滅少傾向を辿る。その一因は後述する難民受入れにかかわる憲法改正に求めることができる。
他方、外国人の人権擁護団体の活動も至る所に見られるが、ネオナチ取締りで特記されるのは、「アウシュビッツの嘘」を刑事罰とする刑法改正が保守党のイニシアチブで議会に提出され、憲法裁判所もこの改正を合憲と認め1994年12月に発効した点である。正直のところ私はこの刑事罰は戦後間もない時期からのものと誤解していたが、実はまさに今回のネオナチ問題が発生してから成立したものだったのである。戦後ドイツの戦闘的民主主義は、民主主義の破壊を試みる的に対しては時として基本的人権も制限するが、それは現在においても進化しているのである。
(現実主義への転換)
難民天国のドイツ。1984年から1993年までの10年間の欧州21カ国への亡命申請者数は約3500万人。その内約1700万人がドイツヘの亡命申請者で、特に1992年には欧州21カ国の69万人中、実に44万人がドイツに殺到したのである。この状況下、1991年夏より基本法第16条の改正が政治テ−マとなり、最終的には社民党の支持も取りつけ、1993年7月に難民受入れを制限する改正が発効することになった。この改正を受け、亡命申請者数は93年の約32万人から、94年には12万人と大きく減少することとなり、戦後ドイツの理想主義の放棄と言われかねないこの政治判断は、取り合えずポジティブに評価されたのである。
NAT0域外派兵に向けての基本法改正問題。1955年のNAT0加盟以来、ドイツはNAT0を基本法24条2で言うところの「集団的安全保障」と見なし、西独連邦軍の行動はNAT0加盟16カ国の領域内に限定される、との解釈を採用してきた。しかし1990年の湾岸危機に際し、ドイツはこの解釈を基に湾岸地域への派兵を拒否。総額150億マルクの資金協力にもかかわらず「貢献不足」を非難されることになり、基本法改正論議が高まることになる。更にユ−ゴ紛争に関連したアドリア海への艦隊派遣に際しては、PK0協力の範囲が議論の焦点になる。社民党も「PK0の枠内での域外派兵は認めるが、戦闘参加は認めない」という現実路線に転換していたが、他方その解釈を逸脱したと判断されるケ−スでは違憲訴訟という手段で対抗した。しかし1994年7月、連邦憲法裁判所は、あくまで政府が「議会の同意を得ずに派兵したことは違憲」としつつも、PKO協力のための域外派遣の中には戦闘行動も含まれるとする趣旨の判決をくだし、アドリア海への艦隊派遣、ボスニア上空監視、ソマリア派兵の3件を合憲とした。基本法改正自体は議会の2/3の支持が必要であることから、まだしばらく時間を要することになろうが、この判決の結果、現実の派遣には議会の単純多数決の賛成で十分ということになった。コ−ル政権はもちろん域外派兵の指針を策定し、一定の枠をはめているが、1995年4月のポスニアへのトルネ−ド派遣のように依然限界的判断を求められるケ−スは多い。こうした判断の背景にある思惑は、地域紛争による難民の発生阻止とNATO、EU諸国との連帯維持という2点である。同じ問題で戦後のタブ−の転換を追られる日本の場合も、基本的にはドイツと同じ状況にあるが、その場合の基本理念と個別判断基準は依然ドイツ程には明確になっていないと感じるのは私だけであろうか。
(欧州統合に向けての現場感覚)
バ−トエムズの「1870年7月13日午前9時10分」と書かれた小さな碑文。スペイン国王の座を巡る独仏緊張が、この町での、この時間の会談を契機に普仏戦争勃発につながった、という。他方ポン郊外レンドルフのアデナウア−邸。宿敵から友人へと変化した独仏関係を象徴する2つの逸話。
独仏合同旅団:独仏友好協力条約締結25周年の1988年1月に合意し、1990年10月に発足した冷戦後の欧州防衛力再構築の第一歩。1995年10月からは実戦配備され、NAT0や西欧同盟内の活動のみならず、域外のPKOや人道援助、環境保護活動にも従事するという。
コ−ルの欧州統合に向けての基本理念:@統合は独仏関係の基礎の上に築かれる、A統合は政治・経済・社会・安全保障の各分野に及びドイツがその核になる、Bドイツの経済支配を懸念する周辺諸国に配慮。
欧州におけるドイツの「大国」振り:@人口:8060万人/36880万人(21.9%−1994年現在)、AGNP:1兆9029億ドル/7兆2803億ドル(26.1%−1993年現在)、BEU予算に占める加盟15カ国の分担率:ドイツは29.3%−1995年度、CEU主要機関の各国別割当数:欧州議会(99/626議席)、欧州委員会(2/20人)、理事会持ち票(10/87票)。
(東への膨脹)
対ロシア支援を主導−ロシアから帰還するドイツ人の受入れ。群を抜く経済支援:統一時の一時的支援とは別に、1994年末現在でロシアに総額818億マルクの金融支援をコミット。
NATOとロシア間での「平和のためのパ−トナ−シップ(PFP)協定」−ロシアから見ると、東欧諸国のNATO加盟は、欧州との緩衝地帯がなくなる懸念があることから、ロシアに配慮した妥協策としての意味あいの協定締結を支援。
ロシア・東欧圏へのドイツの直接投資−88年末:0.05%一92年末:1.2%ヘ。チェコ、ハンガリー、ポ−ランドの3国で対ロシア・東欧圏直投の91%を占める。ロシアヘの直投は進まず、他方チェコでは94年9月末で全投資額に対するドイツのシェアは29.3%と最高。91年のフォルクスワ−ゲンによるシュコダ買収(ルノ−の敗北)が象徴的出来事。
エネルギ−資源の相当部分を旧ソ連に頼るドイツ→中央アジアのエネルギ−資源への渇望。中・東欧におけるドイツの資産及び資源輸送ル−トの安全確保の必要→EUへの早期加盟を実現させたいというドイツの期待。しかしEUの中心がドイツに移行することを懸念するフランスとしては、マルタ、キプロス等の地中海諸国を先に加盟させたいとの意向を有していることから、今後の独仏枢軸の不安定要因になる懸念も。
こうして90年代におけるドイツの直面する問題群が示されるが、常に私自身が感じているように、冷戦の終了と統一ドイツの実現が、戦後50年に及ぷ欧州秩序とその中におけるドイツの役割とその実行可能性を大きく変質させているのは間違いない。日常的に市場に反映されるそうした変質の背景にある大きなうねりを見逃すことのないよう、こうした書物で示される論点を反芻しながらドイツ滞在のラスト・ストレッチを駆け抜けていかねばならない。
読了:1996年4月29日