ドイツリスク
著者:三好範英
読売新聞ベルリン特派員による最新ドイツ・レポート。先にE.トッドによる「ドイツ帝国論」を読んだばかりであるが、本書はまた別の角度からのドイツが抱えるリスクを提示している。それはトッドのような、単純なドイツ覇権への懸念ではなく、ドイツがその理想主義的な政治志向から、みずから内在的に破綻を招くのではないか、という議論である。そして著者はそれを、ドイツのエネルギー政策―原発廃止―、ユーロへの対応、そしてロシア及び中国との関係という3つの論点から説明している。
まずエネルギー政策であるが、2011年3月の福島第一原発事項を受け、ドイツではいっきに原発廃棄の流れが強まり、メルケル政権は2022年までに国内の全原発を廃棄する政策を法制化した。著者は、この事故に際してのドイツ・メディアによる報道(「死の不安におびえる東京」等の見出し)が、「チェルノブイリを上回る悲惨な事故である」という決めつけに基づくヒステリックなものであったことを、英国メディアの冷静な分析と比較して紹介しているが、確かにその報道の偏り、更にはそれが「日本の大手メディア、日本社会、日本人一般への批判」まで拡大したというのは、ドイツに親近感を覚えている私から見てもやや驚きであった。確かに、もともと「環境帝国主義」といわれるほど、国内でエコロジーへの意識が強く、環境保護政党である緑の党も、早くから政治的存在感を高めていた国であるが、メディアに煽られたことも大きな要因であると思われるこのエネルギー政策の全面転換は、まさにこの国のこれまでの環境への固執を政策面で更に進めるものであった。もちろん日本でも、この事故の後、反原発の市民運動が一時的に盛り上がったり、小泉元首相などが原発廃止政策を主張している等、同じ懸念をもっている人々もおり、政府も原発の比率を中長期的に低くしていく方向性は出しているが、全面廃止といったドラスティックな主張はまだ少数派にとどまっている。ドイツではそれがもはや保守政権によっても共有されるレベルまでなっているのである。
原発廃止論の最大の問題は、エネルギー・コストと電力の安定供給である。発電効率の悪い太陽光や風力発電のコストは、原発全廃を目指すドイツでも、「政府買取コスト」を消費者に「賦課金」として転嫁する方法で賄っているが、その結果として電力コストが急上昇しているという。他方、地域的、季節的な需給バランスの変動が大きくなることから、電力蓄積や長距離送電設備などの整備と細かい運用が必要になる。自然エネルギーの増加、なかんずく太陽光発電の比率上昇と共に、「好天が続き、太陽光発電が効率よく発電すればするほど(=買取量が増加すればするほど)、消費者の負担が増加する」という現象が起こり、また送電制御を行う施設での発電量調整の頻度や難度も増している。更に、発電量が不足する場合の調整は、管内の石炭発電所に給電指令を出して行うが、この石炭発電所は、コスト面から安い褐炭を使用しているために、温室効果ガス(二酸化炭素)の排出量を増加させているという。メルケル自身が「エネルギーの安定供給、環境保護、低料金の三つの条件を満たすことは容易な道ではない」と認める一方で、自然エネルギー買取価額の引き下げなど、いろいろな施策が実行されているようであるが、「質実剛健なドイツ人であれば困難はあっても、任務、計画を着実に完遂するだろう」という思い込みは危険で、このエネルギー政策の破綻リスクも十分考慮すべきである、というのが著者の見方である。
ユーロの導入も、著者の観点では、ドイツのロマンチシズムの反映であり、これは「ヨーロッパを結びつけるどころか、逆にヨーロッパ内、ドイツ国内の矛盾を顕在化させる触媒となってしまった。」ユーロ懐疑論については、連綿とした流れがあり、「政治統合のない通貨統合は破綻する」というのが、その共通する骨子である。それを受けて、例えば「ユーロ南北分割論」といった主張が出てくるわけだが、それらについては、2009年のギリシャでの「隠れ債務」発覚以来、言い尽くされた感があるので、ここでは著者の解説に立ち入ることはしない。ただ、ドイツのユーロに対する傾斜が、「ホロコーストに対する贖罪意識がドイツに対し、国家としての自己主張を断念させ、経済原理に則して合理的判断を下すことを封じている」という保守系右派の指摘には留意しておこう。これは、日本でも、平和憲法についての議論で右派からの批判として度々主張される、「戦後の終わり」と「普通の国家への転換」と同種の議論である。このドイツ右派の指摘も、分析としてはまさにそのとおりであるが、それではそれについての価値判断をどう行うかが、まさにここでも問題なのである。ドイツは国家としてこの「贖罪意識と共に生きることを選択した」のであり、それがまさに80年代の「修正主義論争」の主要な論点であった。後に著者も指摘しているように、現代ドイツにとって「ホロコースト」というのは唯一無二の蛮行であり、これを記憶から消し去るべきではない、という強い規範意識が、戦後ドイツの政治原理として維持されてきた。その意味で、著者は否定的に論じているが、「ホロコーストがユーロを生んだ」というのは、私はそのとおりであると考える。
ただ、日本の平和憲法問題もそうであるように、それが「規範」の問題であり、且つ「民主主義的プロセス」を経て熟成されていくことから、時代の流れの中で変化していく。即ち、時代の変化と共に、新たな「規範意識」が生じるのは当然であることから、その次世代の規範がいかなるものであるかが、将来に向けて問われなければならない。まさにユーロ危機が提示しているのは、ある時代の「規範意識」で遂行されたこの壮大なプロジェクト(ハーバーマスの言う「近代というプロジェクト」の一つの大きな実験例と言える)が、現在の環境でいかに進められるのかが問題なのである。その意味で、丁度私がドイツに滞在していた統一直後の時代にも、いわゆる「ネオナチ」の勢力が拡大したのと同じように、ユーロが数々の問題に直面する中から、「反ユーロ・反難民・反イスラーム」等を標榜する右派ポピュリズム的性格を持つ政党の動きが活発になっているのは、この規範意識の変化という観点で注意して見ておく必要があろう。この状況についての左派からの指摘として著者が紹介しているのは、2010年のハーバーマスの寄稿である。これは「政治にもう少し気概さえあれば、共通通貨の危機は、かつてのヨーロッパ共通外交が望んでいたことを実現できるだろう。すなわち、ヨーロッパ共通の運命を分け合うという国家の境を越えた意識の成立である。」「欧州主義者」たるハーバーマスとしては、その時期の著作「ああ、ヨーロッパ」(別掲)と同様、やや諦観が表面に出た発言であるが、これが戦後ドイツを率いてきた基本的な理念であったこと、そしてその「規範意識」が危機に立っていることを如実に物語るものとして興味深い。
こうした規範意識が流動化する中で、メルケルは、アメ(信用供与)とムチ(緊縮財政)を使い分けながら、危機の対応にあたってきた。これはこれで私は難しい環境の中で巧みに指導力を発揮してきたと評価しているし、また著者も指摘しているように、メルケルは「ユーロの維持、ヨーロッパの連帯を重んじる」決定を行ってきたと考えている。ただ著者は、この「綱渡り」は「いつバランスを崩しても不思議ではない」と警鐘を鳴らしている。この作品の全体の主張から言うと、まさに著者はここにアクセントを置きたいのであろう。
蛇足ながら、ここで著者は「ドイツ覇権論」について、私も先に読んだE.トッドの議論に触れ、これは「ヨーロッパの伝統的な対ドイツ脅威論の表現でしかなく、実態を伴ったものではない」としているのは、私の感覚に近い。また、英国の研究者H.クンドナニの「地経的な半覇権国家」論=「勢力均衡にとっては強すぎるし、覇権にとっては弱すぎるという中途半端な半覇権状態」というのは、「ドイツ問題」の本質を言い当てていると思われる。
「夢見るドイツ」の3つ目の現象は、対ロシア、対中国外交である。2014年3月のロシアによるクリミア半島併合とその後のウクライナ東部での内戦に際し、ドイツの中で、「プーチンの論理と行動に対する共感」(H.シュミットやシュレーダー等)が現れたのは、「ドイツの東方への夢」を映し出した、と著者は論じている。ドイツにとって、ロシアは常に東の大国として外交上重要な相手であった。それは言わば愛憎共存した関係で、更に13世紀に始まった東方移民以来、その地はドイツにとっては東に開かれたフロンティアでもあった。そうした両国の関係の歴史については、E.H.カーの「独ソ関係史」を含め、多くの研究がなされてきた。そして今回のウクライナ危機に際してのメルケル外交も、この延長上にあるというのが私に見方である。
著者は、現代のドイツのロシアへの接近には、@資源、経済面での関係強化(石油、天然ガスの35%をロシアに依存)、A安全保障環境の変化と米国依存(=米国への親近感)の減少といった要因があるとする。そして東独権威主義体制の中で育ったメルケル自身はプーチン体制の権威主義に対し、「実存に関わる真摯」な批判意識を持っている、と見ているが、例えばメルケルがロシアに対する経済制裁を提案したところ、政権内で慎重を求める意見が出たという。「制裁によりドイツが損害を被る」という見方と、「資源輸出にしか頼れないロシア経済」の対西側依存度が高まれば、ドイツにとっての安全保障になる、という議論がその核心であるという。そしてこうした議論が、「我々は西欧になったのか?」という、ドイツ人の自己認識を巡る議論を促すことになったという。
この議論の背景には、ドイツの歴史的な「東方への憧憬」及び「繰り返し侵略者が押し寄せた異郷への畏怖」があるという。そしてその視線の到達点が中国である、と著者は論じる。それはまた急速に拡大する中国との経済関係の反映でもある。
「すでに2002年に、ドイツにとってアジアの最大の貿易相手国は、輸出入とも日本から中国にとって代わられ」、その差は開くばかりである。フォルクスワーゲンの中国での成功(最近のディーゼル・スキャンダルはまだ取り上げられていない)や、ドイツー中国の鉄道網の整備などが、両国の緊密な関係として例示される。他方で、2007年までは、ダライ・ラマ14世を迎えるなど、自由や人権などの価値を外交に持ち込んでいたメルケルが、中国の反発を受け、それ以降は経済重視の姿勢を強めている。言わば、自由や人権を封印し、欧州諸国のアジア・インフラ銀行参加の流れを作り、最近も習近平を大歓迎した英国などのやり方の先陣を切ったのがドイツであった、ということである。そして著者は、「ドイツの東への志向が中国に至ることは、ドイツの持つ『危うさ』が日本にとって直接的なものになる」というリスクを抱えることになる、と論じる。
それを象徴するのが、2014年3月の欧州歴訪で、習近平が、ドイツを、歴史問題での日本批判に最大限に利用したことである。日本軍の南京侵略時に民間人の保護にあたったシーメンス社中国駐在員ジョン・ラーベの賞賛と、それと対比する形での日本の残虐行為の宣伝、更には「過去を忘れる者は心を病む」というブラントの」発言を引用し、戦後対応におけるドイツと日本の比較するなど、自国の人権抑圧行為を棚に上げた狡猾な発言は、まさに「ドイツを利用した日本批判」というあからさまな宣伝となったという。そしてその「中国による対日批判は、とりわけドイツのメディアに効果を発揮している。」そこでは、「ドイツは過去の克服を真摯になしとげたが、日本人は過去の罪の隠蔽と自己正当化を行っている」として、例えば2013年11月の中国による一歩的な防空識別圏設定も「歴史を清算していない」日本に非があるかのような論調もあったとされており、ここでも英米メディアの論調と全く異なっているという。その背後に、中国から日常的に行われているドイツの政界、官界、経済界、メディアに対する熱心かつ執拗な働きかけがあるということであるが、これは外交そのもの力量の問題である。我々はドイツによる中国への接近につき文句を言う前に、日本の中国や韓国、そして東南アジアに対する戦後貢献への宣伝を含め、ドイツなどに対する日常的な外交努力が不足していることを真摯に受け止めるべきではないか、というのがこの議論での私の見方である。
著者は、もちろんドイツにも冷静な議論を行う知識人もおり、政府も「中国が頻りにドイツを引き合いに出すことに対する警戒感」を示しているとも指摘している。2014年3月の習近平のベルリン訪問で、中国がこだわったホロコースト警鐘碑訪問を断ったのは、「自身の過去に関する取り組みを政治利用されたくなかったからだ」というドイツ外交筋のコメントも紹介されている。ただ「歴史認識に関しドイツ知識人が抱く屈折した心理」が存在し、そこから「日本が過去の正当化に拘泥することを倫理的に批判する、少なくとも主観的な優越性が生まれた」という指摘は、我々は常に意識しておく必要があるだろう。そしてもちろん地政学的には、「ヨーロッパ、なかんずくドイツは中国を封じ込め、アジアの海洋の自由を確かにする必要もないし、戦略的に東アジア情勢を考える必要もない。」経済的なメリットがある限り、ドイツも英国と同様、中国を最大限利用していくことは已むを得ない。その意味で、繰り返しになるが、日本のこの地域での各種の協力と平和外交への貢献につき最大限の主張を行っていくことがまず必要であることを肝に銘じておかなければならない。
かつて、英国の保守政治家E.バークは、ナポレオンによる欧州大陸席巻の中で、「理性(=理念)では、人権は守られない」として政治に理念を持ち込むことの危険性に警鐘を鳴らした。その発言に対し、私自身は、確かに英国的な経験主義は、安定した民主主義を発展させてきたにしても、他方で人間の熱情を掻き立てるような理想を打ち立てることはできず、むしろ欧州大陸の理念がそうした歴史の進化を促してきた、と考えてきた。その意味で、ロシア革命や社会主義運動は、それが壮大な失敗に終わったとはいえ、そうした理念による現実の変革の試みであり、欧州統合も、現代におけるそうした試みであると考えて、共感を覚えながらその進捗を観察してきた。その意味で、著者によるドイツ人の思索の理念的性格=ロマン主義的性格という分析はそのとおりであるが、それはまさに私にとってのドイツの最大の魅力であったのである。それ故に、それを批判的に評価することには、私は賛成できない。
しかし同時に、現実の国家間の政治、経済、文化関係といったものは、そうした基本認識を踏まえながら、その他諸々の要因を冷静判断し対処していかなければならない。第二次大戦で枢軸国として共に戦い、共に完膚なきまでに叩き潰されたというのは、今や大昔の話である。中国の政治的・経済的台頭といった新しいアジアの環境の中で、新たな日独関係を考えていかなければならない時期に来ていることを、この作品ははっきりと提示していると言える。
読了:2015年11月7日