アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第二節 ドイツ統一とその後
メルケルと右傾化するドイツ
著者:三好 範英 
 2015年に、読売新聞の元ドイツ特派員であるこの著者による新書、「ドイツ・リスク」を読んだが、これに続く2018年2月出版の、メルケルに焦点を当てたドイツ分析の新書である。その「ドイツ・リスク」は例えば、欧州におけるドイツ批判の先鋒であるE.トッドの様に、欧州におけるドイツの覇権という懸念ではなく、ドイツがその理想主義的な政治志向から、みずから内在的に破綻を招くのではないか、という論点から、それを、ドイツのエネルギー政策―原発廃止―、ユーロへの対応、そしてロシア及び中国との関係という3つの論点から説明した。そしてそのドイツを率いていたのは、2005年11月に首相に就任してから、この著作出版の時点まで4期13年にわたりドイツを率いてきたメルケルである。この著作では、「右傾化するドイツ」と銘打っているが、実際はその論点はごく一部であり、その主要部分は、メルケルの生い立ちからの人生を追いながら、そこで形成された彼女の性格や思考パターンが、首相となってからも、その政策に反映されてきたことを跡付ける、著者なりの「メルケル評伝」である。「右傾化」は、その後半顕著となったメルケルによる伝統的なCDU/CSUの政策からの左旋回を受けた保守派の抵抗が、2017年の総選挙での「ドイツのための別の選択(選択肢)」(AfD)の連邦議会への進出を招き、それへの対策がメルケル政権の急務となっているという足元の課題ということで取り上げられている程度である。

 しかし、結論を先に逝ってしまえば、こうした著者の懸念は、その後の新型コロナ感染拡大による国境閉鎖により当面止まることになったEUへの移民の流れと、2021年12月のメルケル退陣、そして2022年7月のロシアによるウクライナ侵攻で、足元は主要な課題ではなくなっている。そうした中で、メルケルの通算16年にわたる政権評価も、現状は全く議論になっていない。もちろんこうした足元の課題が落ち着いた時に、この著作で取り上げられている議論が改めて再燃することになるのだろうが、それを前提に、メルケルの時代を振り返っておくことにする。

 メルケルは、私と同じ年である1954年7月に旧西独ハンブルグで生まれたが、その直後にプロテスタント牧師の父親の転勤で、生後約2か月で家族と共に旧東独に移住(ベルリンの北西80キロのところにあるクヴィッツォウという小村)、その後学校へ通う年代になるとテンプリンというもう少し大きな街に移り、そこで1989年の壁が崩れるまで東独市民として暮らすことになる。牧師である父親の決意や、それに従った母親の心情なども綴られているが、メルケルが学校に上がる直前、西独地域に家族旅行を行った直後の1961年にベルリンの壁が建設され、東西ドイツの分断が確定する。そして牧師の娘として、学校時代のメルケルは、成績は優秀であったにもかかわらず数々の不当な扱いを受け、それに耐えながら成長していくととになる。共産主義青年組織へも、思想的には一線を画しながらも、世渡りの必要からそれなりに参画していた。そうした現実とうまく折り合いをつける経験が、その後政治家になってからのしぶとさを身に着ける一因になったようである。

 学業では特に数学やロシア語で飛びぬけており、ロシア語では、10年生の時にはロシア語オリンピックで優勝することになる。これは後年のプーチンとの交渉等で生かされることになるが、決して共産主義思想に共鳴したからではなく、ロシア語そのものの情感に魅せられたからだと回想しているそうである。また大学進学前に「反体制劇」を企画・上演したことで、かねてから目をつけていたシュタージによる摘発で、大学進学を取り消される危機に直面したが、有力政治家(シュトルペ)へ詫びを入れることで、何とか大学進学を認められたという。

 1973年、現在のライプチヒ大学の物理学科に進学した後は、従来よりも積極的に共産主義青年運動と折り合いをつけながらも、学業の性格から何とか「外の世界と内面とのバランスを確保」することができた。そして23歳の時に、隣の研究室にいたウルリヒ・メルケルと最初の結婚をすると共に、大学卒業後は科学アカデミーに採用され、ベルリンに移ることになる。結婚生活はその後僅か4年で破綻し、二人は離婚するが、メルケルがその後もこの別れた夫の姓を名乗り続けたことは面白い。著者は、これを「体裁や形式にこだわらないメルケルらしいやり方」と言っているが、その真意は不明である。そしてその頃知り合った現在の夫である量子物理学者ヨヒアム・ザウアーとの交際が始まり、彼とは16年の事実婚を経て、1998年、党内保守派感触に配慮するCDUの指示を受け最終的に籍を入れたという。この辺りは、個人的には、メルケルも、西独における68年運動の影響を受けていたのではないかと想像している。1986年、彼女は量子化学の論文で博士号を取得する。ただ旧東独での研究に不満を持っていた彼女に転機が訪れる。それは言うまでもなく、ベルリンの壁の崩壊で、その1年後にドイツが統一された時、彼女は36歳であった。

 以降は、旧東独の市民運動組織「民主的出発(DA)」での報道官として頭角を現し、DAがCDUに吸収されると、CDUの候補者として統一後最初の1990年の連邦議会銀選挙で当選、1991年には、第4次コール政権で、最年少の大臣として「女性・青年相」に抜擢される。コールにとっては、旧東独出身の若い女性閣僚というのは、統一後の人材多様化の格好の宣伝材料であり、またメルケルもそれに答えたという。確かにそれだけでは彼女の出世というのはなく、やはり能力的にも優れていたことは間違いない。そして1999年、コールに闇献金問題が発生すると、それまで「コールの娘」であった彼女はいち早くコールに反旗を翻し、翌2000年には野党CDU初の女性党首、そして2005年にはついに首相に上り詰めることになるのである。

 メルケルが、各種の閣僚を務めながら存在感を高めていた1990年代は、私のドイツ滞在時期と重なるが、この時代、彼女の存在感を強く感じたことはなかった。当時は、1991年のドイツ統一を受けてコールへの信認が続いていた時期であり、彼の周りの閣僚たちの動向が注目されることはなかったように記憶している。しかし、メルケルは、この時期、特に1994年からの環境大臣時代に地球温暖化防止会議や高レベル放射能廃棄物輸送問題の取りまとめ等で着々と実績を積み上げ、私の帰国後に発生した上記の闇献金問題を契機にしたコール降ろしの流れで、CDUの後継党首の立場を固めたことが、改めて理解できた次第である。またSPⅮシュレーダー政権末期のイラク危機や労働市場改革への対応や、2004年の大統領選挙での「権謀術数」的振舞などでも評価を上げたという。こうした流れで2005年の連邦議会選挙後のCDU/CSUとSPⅮの大連立政権で、妥協の産物としてのメルケル政権が誕生することになる。メルケルが本格的に政治の世界に入ってから僅か15年での最高権力者の地位を獲得したのである。

 こうしてメルケルによる16年の政権が始まるが、まずは2008年のリーマン・ショックへの対応(「小さな政府」路線から、政府の役割重視の変更)や人権外交から、中国の反応を踏まえた現実路線への変更等、状況に応じた柔軟性を見せ、それが危機対応能力として彼女の評価を高めたという。シュレーダー政権時代から課題であった社会保障改革は難航したが、それをG7等の外交での成果で補っていったとされる。対ロシアでは、伝統的にロシア寄りであったSPⅮの路線を変更し、人権外交を表に出したが、大連立政権での外相は
SPⅮのシュタインマイヤーであったことからメルケル色を出すには時間を要することになったようである。しかし、こうした時期もメルケル特有の粘り強さは示されたという。

 著者は、「(プーチンの)ロシアの変化を導けなかったという意味で、メルケルの人権外交も、シュタインマイヤーの東方外交も共に挫折した」という評価をしているが、現在のプーチンのウクライナ侵攻を鑑みると、そもそもプーチンの反西側姿勢に対しては、ドイツ一国で対抗できるものではなかったのは確かである。
 
 また中国に対しては、2007年にはダライ・ラマをドイツに招待しメルケルが面談したり、またメルケルの中国訪問時は反体制派の個人との面談がセットされたりしていたが、中国の反発を受けて、以降はダライ・ラマとの面談は行われず、反体制派とドイツ政府要人との面談も慎重に行われたという。それどころか、「メルケルは温家宝首相とは会談を重ねるうちに信頼関係を築き」「爆発的な成長で揺れている中国を率いるその指導力に、尊敬の念が増していった。」私の中では、当初メルケルが中国に対し人権外交を行っていた、というのが驚きで、むしろ彼女の中国との関係は経済重視で、何度も経済界の要人を従え訪中していた(それは彼女の訪日回数を大きく上回った)というイメージになっている。この辺りも「カメレオン」メルケルの面目躍如といったところであろうか。その他、リーマン・ショック時の自国金融機関の優先救済(ドイツ単独外交の萌芽)や時短労働を活用した景気・雇用対策、ギリシャ債務危機への厳しい対応、そして福島原発事故を受けた原発廃棄への「センセーショナルな転換」や2014年のロシアによるクリミア併合を受けた対ロシア外交等はよく知られているとおりである。そして極め付きは、無制限の難民受け入れであり、これは周辺国からのドイツ「道徳帝国主義」批判を惹起することになる。そしてそうしたメルケルの「社民化」が、右派によるCDUからの離反とAfDの勢力拡大という結果をもたらす事になったのは冒頭に記したとおりである。しかし、この問題でも、アルバニア、コソボ、モンテネグロを政治的迫害がない「安全な国」に指定し、そこから来た難民申請は原則受入れ不可としたり、トルコからギリシャへの密航者は原則送還といった対応も主導的に行ったということなので、メルケルはここでもそれなりに柔軟な対応を行っていたことが伺われる。そしてこの著作の最後は、緊張したトランプとの関係や一段と進んだ中国との関係等で締めくくられることになるが、それがその後の2年で大きく変わったことは言うまでもない。そしてそれ以上に、2021年12月のメルケルの突然の退陣は衆目を驚かすことになるが、それ以上の驚きは、退任後のメルケルの動静が全く聞こえてこないことである。コールのような汚職の噂も一切なく、しかし今回暗殺された安倍元首相の様に、引退後も影の影響力を行使することもなく過ごしているというのは、また別の意味で、この政治家の特異なところであろうか?

 政治家の評価は、時間の経過を経た後に歴史が改めて行うことになるが、個人的には、メルケルの場合は、恐らく肯定的な評価が下されることになるのではないだろうかと予想する。その意味でも、彼女は戦後欧州を代表する政治家と言えるのであろう。改めて私がドイツを去った1998年以降のドイツの歩みをメルケルに即して整理してくれた著作であった。

読了:2022年7月22日