アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第三節 政治家たち 
ドイツ人と隣人たち 続シュミット外交回想録(上/下)
著者:H.シュミット 
 1974年から82年まで、西ドイツ第5代の首相を務め、その後も西欧現代を代表する論客として活躍する著者の外交を中心とした回想録である。次に紹介する「外交回想録」は米国及びソ連等の所謂超大国との外交を中心にしているが、この続編ではそれ以外の欧州諸国との諸関係−具体的にはまず旧東独、英国、フランスとの関係、全欧安全保障協力会議を巡る周辺諸国も含めた大欧州の中での政策対応、そして最後に、東の隣国ポ−ランドとの関係が中心である−について語っている。ここでは出版の順序では逆になるが、私が読んだ順で紹介することにするが、著者の言葉の端々には、明確な政治哲学とプラグマティックな政策、そして細心の気配りが垣間見られ、これが一人の卓越した政治指導者の回想であると共に、現代欧州の政治的位相とその中での欧州の良識が何であるかを十分に示してくれる。そして果たして現代日本でこうしたバランスの取れた、そしでそれを自信を持って回想できる政治家がいたかどうか、不安な気持ちで思い返すのである。

 著者の外交理念はその序文に全て語られている。地理的にヨ−ロッパの中心に位置するドイツは否応なく全ての隣人に対して平和と善隣を保証しなければならない、という使命を有している。しかしそれを達成するには善意だけでは不十分である。そのためには他者の利益、体験、期待、恐怖、総じて他者を理解することに基づいた現実的、理性的施策が必要である。ドイツ統一を展望した旧東独との対話もECの深化を軸とした英国、フランスとの関係も、基本的にはこの理念から生まれた政策である。そしてそれらの政策が、他方では、シュミットという、一人の知性的ドイツ人の一つのヨ−ロッパ観をも指し示していくのである。その意味で、この書物は、現実政治の回想としてのみならず、ドイツ人の自己認識と他者認識の一つの格好の例として読むことができる。以下、後者の観点を中心に、いくつか気付いたポイントを記しておこう。

 まず旧東独との関係。言うまでもなく前任のブラントが開始した東方政策を継続することがシュミットの課題であった。その政策の根底には、「DDRはわれわれにとって外国ではない。」という認識があった。それ故、「もう一つのドイツ国家との関係を、われわれは外務省に委ねることをせず、連邦首相の手中におき」、その他の諸国との関係とは別のやり方をとった。その結果、東独問題は首相の直轄事項として処理されることになる。

 こうして1975年のヘルシンキにおける、全ヨ−ロッパ安全保障協力会議での初めての出会いから始まるホ−ネッカ−との会話が開始されることになる。東独共産主義に対する数々の批判にもかかわらず、シュミットのホ−ネッカ−に対する見方は、特定の政治状況の中で厳格にならざるを得ない政治指導者の内面を理解したものであり、また具体的な彼との政治交渉は、双方の立場を考慮した上での現実政治のアプロ−チをとっている。こうした前提で、経済交流、人道問題、あるいは、70年代後半に持ち上がった中距離ミサイル配備やアフガン戦争問題といった政治課題が両者の間で議論されていった。80年になり急変したポ−ランド情勢が、予定されていたシュミットの東独訪問を延期させたり、またその後ホ−ネッカ−からの中傷キャンペ−ンが行われたことによる停滞の時期があったにしろ、こうした両者の対話は継続的に行われていたことが語られている。そして、1981年12月のシュミットの東独訪問により再び対話の道が公式にも開かれることになり、西独の政権がコ−ル率いる保守党に変わった後も継続し、87年にはホ−ネッカ−の初めての西独公式訪問に繋がっていくのである。

 シュミットは「ドイツの地から、けっして再び戦争を起こさせない」という信条をホ−ネッカ−が理解してくれたことを感謝している。「平和のために統一を断念する」ことも、周辺国におけるドイツの脅威を取り除く上では必要である、しかし、同時にそのために民族的な一体性を放棄する必要はない、という基本哲学が、1989年以降の統一のうねりの歴史的な背景を形作ったことは疑いない。

 英国との関係は、ある意味で、ドイツ人のイギリス観を知る上で大変興味深い。シュミットはこの回想を、1979年11月のダプリンでのEC首脳会議におけるサッチャ−の、負担金問題を巡る強硬発言から始めているが、これはその他多くのEC問題に際して、英国とその他諸国とで繰り返されてきた相克の典型的一例である。そして、その後の独仏関係を読むとより明らかになるのであるが、英国が、EC諸国の中で如何に特殊で、またそれを大陸諸国が如何に困惑気な視線で見ているか、ということが理解されるのである。

 言うまでもなく、英国のECに対するスタンスは、主権の放棄に対する懸念である。もちろん大陸諸国にも、実際に主権の完全な放棄ができると信じている者などいないが、英国の場合は、歴代の政権で程度の差はあるにしても、そもそも論としての主権の放棄という方向性自体を抑制しようとするものであった、と言える。

 こうした中で、著者は、「イギリスにおける数少ないヨ−ロッパ人」として、ヒ−スの名をあげているが、彼が英国の中ではまた困難な立場にあったことも認めている。しかし、その後、ウィルソン、サッチャ−による「繰り返し果てしない論争」が、シュミットに英国人気質に対する感覚を植え付けることになっていく。その一例は、74年の労働党によるEC脱退決議を受けたウィルソンとの交渉であり、また前述した79年のダプリンでのサッチャ−との拠出金を巡る交渉であった。

 しかし他方で、彼は英国並びにイギリス人に対する正当な評価を隠すことがない(それが、外交上のリップサ−ビスであったにしろ)。「こうした失望によっても、イギリス人、そしてその民主主義、コモン・センス、注意深く守ってきた伝統、文化にたいする私の共感は損なわれることはなかった。」それは、一部は彼の少年期のイギリスヘの交換ホ−ムステイの経験から、また一部は彼の育ったハンブルクの英国との類似性とそれ故の競争意識のなせる技であった。そしてそれは英国なしのヨ−ロッパ統合にたいする疑問を持ち、ロ−マ条約の批准採決に棄権するという行動に繋がっていく。そうした政治家としての初期の英国びいきが、その後の英国「島国根性」の経験によって変わっていったこと、そしてその点で、シュミットが首相として接した4人の英国首相が、「その人格や政治的背景はかなり異なっていたにもかかわらず、外交面では驚くほど連続性を保っていた」ことを認めるのにやぶさかでない。それにもかかわらず、「その不屈さとプラグマティズムと冷静さが一つにまとまっていること」は彼に強い感銘を与えている。そしてドイツ人にとっても、その完璧な組織への願望を押さえ、具体的な目標や実用的な可能性を抽象的な議論よりも重視し、そして政治的な忍耐を学ぷ上で、大きな教訓を与えてくれる、という。まさに、こうした分析の中に、シュミットの英国認識のみならず、冷静な自己認識が示されており、こうしたドイツ人らしからぬ政治家の政治哲学を垣間見ることができるのである。彼がK.ポッパ−の「漸進的社会工学」に、ゲルマン的全体主義にたいするアングロサクソン的政治方法論を見だしたのはそれなりに理解しうることである(もちろん、私はいまだに哲学的にはポッパ−の方法論は不十分だと思っているが。)。

 こうした一般的イギリスの回想の後、彼は、彼の接した4人の英国首相を回顧し(その中では、特にJ.キャラハンとの友情が印象深い)、また安全保障を巡るキャリントンの調整力を称賛し(「国際政治において重要なのは、イデオロギ−や『世界観』、あるいはまた共同で仕事をする人物の党派政治的な色彩ではなく、むしろ、自国の利害を正しく認識し理解し、また他国の利害を考慮する能力、特に予想しうる安定性だ。」)、そして、英国経済に対する失望につき語っていくが、これらはそれぞれの分野でのシュミットの優れた政治哲学を示すと共に、その時代の雰囲気を生き生きと伝えている。70年代の2度の石油危機に際してのポンド下落と、それを契機とした国際協調のくだりなどは、昨年のEMSの危機が決して初めてのものではなく、ある種、循環的なものであることを改めて示唆してくれるし、またEMSの実効性を妨げる要因としてシュミットが挙げているロンドンの経済的主権への固執とドイツ連銀の自律性喪失への懸念は、現在も依然生きているものである。

 フランスとの関係は、戦後ドイツにとっては決定的な意味を持つ課題であった。言うまでもなく、19世紀後半以来3度にわたる独仏戦争はヨ−ロッパを不安と混乱に陥れてきた。敗戦国としてのドイツはこれを戦後の最大の教訓とする必要があった。そしてヨ−ロッパの安定のためには、この独仏の友好関係が必須である。こうして、アデナウア−以来の対仏関係の構築がシュミットにとっても最大の外交課題として課せられることになる。

 彼の回顧は1962年9月のド・ゴ−ルのハンブルク訪問から始まるが、これは、その後のフランス政府の政策が常にこのド・ゴ−ルの政策を意識したものになったことを示唆している。

 ド・ゴ−ルの外交政策とは、「フランスの世界政治上の地位を再興するため、既存の大国米ソからのフランスの軍事上の自立を確保。これを前提条件としてフランスに指導された西ヨ−ロッパ諸国の統合と、アメリカの『トロイの木馬』としての英国の排除」というのがシュミットの理解である。彼はこうしたフランスの民族的指導者としてのド・ゴ−ルには否定的であるが、同時にド・ゴ−ルに象徴されるフランス的なものの見方を認識することを躊躇することはない。そしてそれが、彼が追求した独仏関係の基礎になっていくのである。

 シュミットがまず「ヨ−ロッパ合衆国のための行動委員会」に参加し、ジャン・モネと接触する機会を持ったことが、その後の彼のヨ−ロッパ主義を強めると共に、フランス的政治思考への洞察力を強めた、という。そして政治家として、1972年7月以降ジスカ−ル・デスタン(以下「ジスカ−ル」)との終生続く友情に支えられた交歓が開始されるが、その根底には、欧州の平和を確保することを第一の目標とするドイツ外交の本質はフランスとの共存である、という、これまた変わることのないシュミットの外交哲学があった。

 こうして73年の石油危機を契機とする先進国サミットの実行や、「ヨ−ロッパ理事会」の制度化や欧州通貨同盟の創設を始めとするEC統合の深化、そしてアフガン戦争をきっかけとする冷戦の激化を受けた欧州安全保障問題等々で、シュミットとジスカ−ルが如何に理解し合いながら進んでいったかが語られている。それは言わば70年代の独仏蜜月時代の記録であるが、一方で両者の米国カ−タ−・レ−ガン両政権との相克は、彼らの欧州的安全保障観とアメリカのそれが如何に異なっていたかを示している。そして結局のところ、このシュミットのとった立場が、ヨ−ロッパの土壌に根ざした現実政治の手法であり、アメリカ的理想主義と対称をなすことになるのである。

 下巻に入りまず触れられているヨ−ロッパ通貨同盟の創設とECUの導入を巡る政治的駆け引きは、現在の私の仕事との関連でまず取り上げられねばならないだろう。今や欧州の金融を考える上での自明の条件であるこのシステムは、まさにシュミットとジスカ−ルの議論の中から生まれたものである。その導入に際しての調整過程は、欧州の夫々の国の特徴を示している。即ち、ドイツには、「ヨ−ロッパ統合を作るか、連銀の国家機関としての自立を維持するかの選択を迫られればためらわずに後者を選ぷ」だろう連銀がおり、フランスでは社会主義者とゴ−リストからの、「フランスをドイツの経済力に引き渡す」という名目での政治的抵抗が予想された。もちろん、英国では保守主義的伝統と「欧州統合に対する一般的な島国的偏見からの根強い反対が必至である。こうした認識のもと、シュミットとジスカ−ルは、この調整をトップダウンで、且つ機密裏に行うことを決め、その最初の議論を、1978年4月にコペンハ−ゲンで開催されたヨ−ロッパ理事会で開始した。

 こうして、幾多の論議を経た後、1979年3月、ERMが効力を発すると共に、新通貨単位の名称としてECUを使用することが決定される。13世紀、ルイ9世のフランスで使用された金貨であるこのECUは、同時に英語での語呂合わせができることから、英国人にも受け入れやすかった、というのも、興味深い裏話である。いずれにしろ、この一連の交渉は、社会的、文化的相違を有する地域での経済統合の難しさと、またそれを前提とした柔軟な発想力を持つ政治家の現実的対応の見事さを物語っている。そしてその後予想通り展開された独仏両国での反対運勤(フランスでは前記の通り、「マルク支配への屈伏」、ドイツでは、「フランス、イタリア、ベルギ−等のインフレ志向の経済への屈伏」との批判)は、依然として現在でもこの通貨同盟の発展の途上に変わる事なく横たわっている難問である。

 こうして一連の回想を行った後、シュミットは再度欧州通貨統合への熱い思いを語る。「本当に決定的に重要なのは2つの原則である。第一にECの全加盟国が(中略)、独自の金融政策を行う国家的『主権の断念』、第二に、ヨ−ロッパ中央銀行からなる連邦制度的なEMSシステムの自立一(各国の政府からのみならず)他のEC機関からも一である」。こうした理想と知性とそして実行力がバランス良く存在していることに、私は大きな驚きと共に、深い尊敬の念を感じるのである。

 1981年、フランスの政権交替により、ミッテランが大統領に就任すると、独仏関係は新たな時代を迎える。とはいっても、野党指導者の時代に、ミッテランの共産党よりの政策故に警戒感を抱いていたシュミットが、すぐにミッテランの率直な考え方を知り、基本的な両国の信頼感が持続していったことが語られる。このシュミットの印象は、その後12年に亘り、幾多の危機を経ながらも生き延びたミッテランの政治家としての資質についての鋭い洞察ともなっている。

 こうして、独仏関係は1982年にシュミットが退陣し、コ−ルの保守党が政権を取った後も本質的に変わることなく維持される。フランスとの関係の回想を終えるに当たり、シュミットは繰り返し、ドイツにとって、また全欧州にとってこの両国の関係が決定的に重要であることを警告している。国際政治における引き続き大きいフランスの発言力と歴史的、文化的誇りに敬意を払うと共に、ナチの犯罪に汚されたドイツの過去を認識しつつフランスと共に歩むこと。現在、東西ドイツ統一後の経済的困難の中で、政治的にややドイツの独自行動が目立ち始めていることを考慮すると、このシュミットの警告は再度心に刻みつけておく必要があろう。

 1975年にヘルシンキで行われた全欧安全保障協力会議の回想についてはあえてここでは細かく触れない。欧州の既往秩序を固定化することを意図し、ソ連側から提案されたこの会議を西欧側は、軍縮と人権のために利用した。結果的には、ソ連の自己崩壊に至る伏線となったこの会議の歴史的な意義は大きいが、ここでの駆け引きの記載を除けば特記すべきことはない。

 最後にシュミットは、ドイツの東の隣人ポ−ランドとの関係にも触れている。13世紀以降のドイツ騎士団の進出を始めとし、18世紀の3回にわたる分割、そして2回の大戦と、ドイツとポ−ランドとの歴史はまさにドイツの侵略の歴史であった。それ故に、欧州の安定のためには、こうした過去を踏まえた両国関係を作る必要がある。ここでもシュミットの哲学は明晰である。社会主義政権下、個々の政治的課題についての進展ははかばかしくなかったにしても、ギエレクとの友情に満ちた関係が築かれていたことが語られている。現実政治の面で、表面的には敵対関係にあろうとも、人間として分かりあえることはできるのであり、そうした基本的な信頼感が危機の際の適切な判断を可能にする。著者は1981年のヤルゼルスキ−によるク−デタ−の際も、アメリカ的な一方的非難と制裁に加担しないが、これは、こうした指導者間の理解に基づいた理性的反応といえる。鉄のカ−テンのなくなった現在、問題はより経済的な側面に現れてきている。著者はポ−ランドを含めた旧東欧諸国に対する新たなマ−シャルプランを提唱するが、これは「ポ−ランド国民が経済の改善を実感できる場合にのみ、多元主義的な民主主義が存続しうるから」に他ならない。そして、それは旧東欧のみならず、旧ソ連諸国家でまさにそうした西側の力がためされているのである。歴史と個々の民族性を踏まえながら、こうした問題を如何に効果的、現実的に解決していくか、シュミットの回想はまさにこうしたヨ−ロッパ的な発想からの解決の方法論を示しているのである。

 以上のような回想を通じ、シュミットの外交哲学は明確に示されている。我々は、このヨ−ロッパ中部の明晰な頭脳の中で、英国やフランス、ポ−ランドといったドイツの周辺諸国が如何に位置付けられているかをはっきりと認識しうる。それは一言で言ってしまえば、過去の欧州史の教訓から地理的な意味での善隣外交を徹底的にまで進めようという発想であり、またそのため、言語も文化も異なる欧州諸国の中での相互理解を達成するための労を惜しまない、という態度である。それ自体、私自身の生活信条と重なるところが多く、その点で多くの共感をもたらしてくれる。しかし、他方で彼の一義的な手法が善隣外交である限りにおいて、世界規模ではある種のエゴイズムに堕してしまう危険と限界を持っているのも確かである。EC統合がプロック経済の確立を目指すという不安と共に、こうしたヨ−ロッパ主義の政治哲学もまた、我々アジアやその他の地域の人間にとっては克服しなければならない発想であるのも事実である。その意味で、この書物は、良い意味でも悪い意味でも我々が、単にドイツ的なものに留まらない、ヨ−ロッパ的な思考様式を理解し、対応を熟慮するための良い材料を与えてくれるのである。

読了(上):1993年3月21日
読了(下):1993年4月17日