アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第二章 政治
第三節 政治家たち 
シュミット外交回想録(上/下)
著者:H.シュミット 
 欧州近隣諸国を巡る外交回想録(続編)を取り上げた後、順序は逆になるが、先に出版された同じ著者による回想録に触れておく。

 既に近隣諸国との外交を欧州共通の利害関係を機軸に組み立てていく著者の姿勢については説明したが、ソ運、米国そして中国といった欧州以外の大国を中心としたこの回想でも、対象の規模こそは異なるが、二国間の利害を前提としつつも、それを越えた理念も忘却することなく、現実的な外交政策を進めていく著者の姿が感じられる。まず上巻で取り上げられるソ連との外交の中に、シュミットと戦後ドイツの外交理念を見ていくことにしよう。

 とは言っても著者が始めに断っているように、これは決して一貫した理念を論証しようとした書物ではなく、むしろ彼の政治生活の過程で接した人々を巡る個人的回想の色彩が濃い。しかし、その個人的回想の中に我々は彼の一貫する理念を逆に読み取ることができる。

 その理念は序文のこの一文に端的に示されている。「もし、これからの100年間にわれわれドイツ人が再統一されることがあるとすれば、これは決して隣人たちの意向に反したものであってはならず、また平和的な隣人関係を結ぼうという、ドイツ人側の信頼に足る意志と変わらぬ能力に対する他民族の信頼を抜きにしては考えられることではない。」

 回想は1973年5月のブレジネフとの最初の邂逅から始まる。ブレジネフのナチ批判とシュミットの一兵士として経験した戦争一般の悲惨へのこだわりの応酬。立場の相違をまず明確にし、そこから歩み寄る可能性を模索する著者の政冶手法は後年の「東西の力の均衡と利害の調停を内容とする」「二重路線」の採用へと連なるものである。ブラントの東方政策はその路線の一面であるが、W.シェ−ル、E.バ−ルらと共にH.ベ−ナ−がシュミットに大きな影響を及ぼしたことが語られている(「私はロシアがあれだけの苦難を背負っているからこそ、あの国を愛する」)。

 利害を調整するにはまず相手を理解しなければならない。シュミットはロシアの歴史を振り返りつつ「モスクワの大戦略は4分の3がロシア的であり、4分の1が共産主義的である」と認識する。従ってそこでの政治に今日の米国や西欧の尺度をあてはめるのは意味がない、道徳的非難や断罪ではなおさら影響を与えられない。西欧派ゴルバチョフの失敗とエリツィンのロシア型政治への回帰を見てきたものにとっては、そして中国を始めとするアジア諸国との外交音痴な我々にとっては気になる決めつけである。しかしまさに現実政治を行う者にとってはこうした決めつけはある程度必要であるのは確かである。理念は理想主義的であっても認識は現実的でなければならない。更にシュミットは「ソ連は唯一の拡張主義的大国であると共に、ロシア以来の安全保障コンプレックスがつきまとっている」と言う(「ロシアの国境はその両側にロシアの兵士がいて初めて安全になる」)。経済的にも西側工業国と肩を並べるのは不可能であるという劣等感も、ソ連の潜在的な敵に対する不安を拡大させる。歴史的にはその敵はまずドイツ、そして米国、中国であった。こうした認識の下でシュミットはいかにしてドイツ民族の利益を追求したのか。「世界はドイツの分割にたいそう満足していた。しかしそれとは裏腹にヨ−ロッパの分割という状態には満足しているわけではなかった。」そして「2つのドイツに住むドイツ人たちは平時にもかかわらず多数の戦術核兵器を装備した外国や自国の軍隊が集中していることから、自分たちの平和は危うい性質のものだということを忘れないでいる。」こうした中部ヨ−ロッパ情勢の正常化に向けてソ連の合意を取りつけられる分野はどこか、またどんな行動や提案によるのか。シュミットは、ひとつは「ドイツ人に対する不安、とりわけ1945年につくられた東部国境についての不安を和らげる」ことであり、もうぴとつは「ソ連と連邦共和国の経済交流の分野であった」、と言う。丁度70年代のソ連は冷戦の枠組みの中ではあるものの、既往の勢力圏を固め、軍事的均衡を米国に認めさせ、それにより国内経済、特に民生部門に活力をもたすことを目的とした門戸開放政策と緊張緩和政策に転換しつつあった。ブラントが突破口を開いたこの政策を具体化していくことが首相職をプラントから引き継いだシュミットの任務であった。

 こうして1974年の連邦首相としての初めてのモスクワ訪問が子細に再現される。歓迎式典等、具体的な政治問題が関与しない限りはプレジネフは大変な孝行爺である。しかし例えばベルリンの地位に関する4カ国協定の解釈、連邦環境庁のベルリン設置の問題といった政治課題に入ると彼の保守意識が鮮明に現れることになる。それにもかかわらず全欧安全協力会議やSALT交渉、そして経済協力の発展についての議論では双方の利害と希望が率直に示される。個々の論点は除くが、一見唯の堅物共産主義者のイメ−ジがあるブレジネフは実は内外の状況に目はしのきく、その意味で優れて現実主義的政治家であり、またシュミットもそうした人間として敬意を払いつつ(これはコスイギンやグロムイコに対する著者の評価であると同時に、ス−スロフのような観念的共産主義者への違和感にもなっている)、他方で率直に自己の利害を主張しているのが分かる。双方の利害を認識するという第一回会談の目的は達成され、以降ブレジネフとの間にはパイプができることになるが、これは著者によると1977年にカ−タ−が米国大統領になり、この新大統領の動機と目標の理解にプレジネフが苦しんだ際により緊密になっていったという。

 1978年5月に行われたブレジネフの2回目のボン訪問も、全体的な信頼感と個々のテ−マでの対立が続いた点で世界的な緊張の高まりを反映していた。西側の中性子爆弾配備に対抗するソ連のSS20配置を巡る論争(説明に使用されていた軍事地図をシュミットの説明の最中にプレジネフが怒ってテーブルからはじき落としたエピソ−ド等)は平行線のままであった。

 この交渉の失敗によりシュミット自身も米英仏との4者会談で決定された「二重決定」に従い、ドイツヘの中距離兵器の配備を決断するが、これはその後ドイツのみならず西欧全域における国内的な大反対運動を引き起こしていくことになる。他方ソ連側も自らの安全保障コンプレックスから西側にとっての脅威を配慮する余裕は無くなっていた。更に、シュミットによると、カ−タ−の西欧諸国の不安を無視する発言がソ連の誤解を強めたと言う。そして1979年、ソ連がアフガニスタンに侵入し、西側がこれに制裁で答えたことで70年代に模索された東西緊張緩和は終わりを告げた。シュミットは米ソ両大国が対立を激化させる時には西独が独自の外交をとれる余地が少なくなったことを認めている。

 それでも対ソ制裁最中の1980年、シュミットのモスクワ訪問が、フランスのジスカ−ル・デスタンと協調しつつ、カ−タ−の意向には反して行われた。一方で米国のイニシアチブで危機にあるソ連との信頼関係を再確認しつつ、アフガンからの撤退と軍縮交渉への帰還を訴えた彼の演説はクレムリン内部で当初明らかに怒りをもたらしたものの、軍縮交渉については肯定的反応を受けることになった。しかし、米国の大統領選挙とレ−ガン政権の実質稼働を待つことにより、軍縮交渉の開始までには1年半が浪費されてしまった、と彼は悔いている。その間レ−ガン政権の発想を理解しかねるプレジネフに対し、再びシュミットは仲介者としての役割を果たしたという。しかし1981年のブレジネフのポン訪問を最後に、シュミットは政権を退き、彼の外交は事実上ゲンシャ−が引き継ぐことになる。

 結局、軍縮問題については、コ−ルはアメリカに従い、ドイツにおける「後追い軍拡」を認める単純な立場を採っていった。そしてソ連も政権が目まぐるしく変わったことから、いずれにしろこの時期は込み入った外交の余地はなかったことをシュミットも認めている。

 こうしてゴルバチョフ政権になりようやくソ連に当事者能力を持つ交渉相手が誕生した。しかしこの回想が書かれた1987年は、まだゴルバチョフ政権の性格や方向性が明確になっていない時期であったことから、シュミットはゴルバチョフの評価については多くを語ってはいない。しかしそれでも、ソ連における老人支配の終焉による変化の予感と、他方その変化がもたらすであろう、そして後年実際にもたらされた経済停滞による民衆不満の増大や自由化、民主化による民族運動勃発等の遠心的動きの危険について警告している。

 レイキャピクのレ−ガン=ゴルバチョフ・サミットはゴルバチョフが余りに交渉を焦りすぎたためにアメリカ側の混乱をもたらし失敗した。しかしそれでもシュミットがこの交渉の行方に、自分自身が首相として求めた理念と同じ方向性を見出し、期待をよせているのは明らかである。その後9年、再びロシアはエリツィンの当事者能力自体が揺らぐ状況に至っている。しかし、シュミットが求めたソ連との外交理念−ソ連の安定と理解なくしてはドイツの安全は保障されない−は依然真実であり続けている。その間ドイツはまさにシュミット外交を引き継いだゲンシャ−の活躍もあり、ゴルバチョフ・ソ連の承諾を取りつけ、今世紀中に実現することはない、と言われていた統一を実現した。その栄誉に則したのはシュミット程の政治哲学や理念を持たないコ−ルであったのは歴史の皮肉であったと言うしかない。

 回想録の下巻は、上巻末尾から始まる米国との外交関係の回想、そして中国との関係からアジア全域とドイツ、欧州との関係を構想し、日本の役割にも一部言及されている。

 彼のアメリカについての第一印象は、戦後の貧困時のアメリカからの経済支援とそれに裏付けられ成功したドイツの通貨改革を通じて形成された(彼の卒論は1946年の日本の通貨改革と1948年のドイツのそれとの比較であったと言う)。更にハンブルグ出身の亡命アメリカ人ハイマンという、フランクフルト学派に属する大学教授との出会いにより、アメリカ的自由と欧州的秩序の統合という理念を得ることになる。ナチ時代に青春を迎えていた人間にとっては、終戦までは米国はゲッペルスによる中傷キャンペ−ンの対象でしかなかった。しかし戦後、日本でも起こった価値の180度転換の中でシュミットも、現実の経済政策と自由主義的理念の両面からアメリカと接触していったのである。

 しかし日本人が「解放者」アメリカにその後政治的、経済的、文化的に盲従した程には、シュミットは自分自身を見失うことはなかった。リアル・ポリティックスの世界においては、ソ連との軍事的均衡を維持するため米国との集団安全保障に従うことを躊躇するものではない。しかし時として米国の政策は、ドイツ・欧州の具体的利益を余りに単純化して理解し、自国の利害が同盟国共通の利害と思い込むことが多い。その場合は当然自国の利害を正面から主張していく、そうした柔軟さがシュミットの対応の中には見受けられる。

 シュミットは米国と欧州で本質的な見解の相違が発生する分野として以下の3つを挙げている。
@アメリカ外交の短期的非連続性
Aソ連に対するアメリカの大戦略の危機についての論議
B一連の世界経済の危機の克服策についての意見の相違

 特に外交の不連続性は政権の変更と共に顕著に示される。シュミットの理解では「ニクソン=フォ−ド=キッシンジャ−時代の国際政治は中道政治。カ−タ−は90度左へ転回をはかり、次のレ−ガンは180度右へ転回した。」そしてこの方向転換に影響を与えたのは、国際情勢自体の変化というよりも「ほとんどはアメリカの内政、つまりアメリカの政治・経済構造とその改革、政党の主導権争い、世論及び政界の意識と傾向」であったのだ。

 シュミットによると米国の外交政策は戦後においては所謂冷戦時の戦略であった。彼はそれを以下の4つの段階に整理している。

@ソ連との協力を試みたが失敗に終わった短期間の段階。
A冷戦、軍拡競争そして「巻き返し」を狙ったが失敗した長期間の段階。
B2つの超大国が互いに相手を全滅に追い込む核戦略能力を持つことによってもたらされた力の均衡の時代、部分的な協力もあった時代。
C新たな冷戦と軍拡競争の段階。

 著者がこの回想を著した1987年以降、明らかにポスト冷戦時代の第5段階が始まっているが、それを別にすれぱ著者はBの段階を最も安定した段階と考え、それを維持したニクソン=フォ−ド時代を評価しているのは、著者の外交論が欧州特有の勢力均衡論というリアル・ポリティックスに依拠していることからすれぱ当然である。

 他方カ−タ−との関係においては、彼の大統領就任直後から外交政策の軋轢が発生することになる。シュミットはこれをカ−タ−の「理想主義と不決断」の結果である、と主張するが、これは例えばソ連に対する声高な人権外交やSALTT交渉における非現実的提案、更には経済分野で赤字財政の協調的ケインズ政策を欧州諸国に強く要求する姿勢等で示される。こうしたシュミットの見方は、丁度第一次大戦後の欧州秩序の構想時にウィルソンの理想主義が投げかけた影を論じる欧州人の見方と同様である。この結果シュミットは、例えばカーターの決定的失敗となったイラン政策とテヘラン人質奪回作戦に対しても突き放した見方をすることになる。

 レ−ガンについては、彼の能力についての個人的評価を惜しまない(@複雑に絡みあった問題を単純化し理解・解釈し、政治的な結論に導く傾向と才能、A資本主義と自由な企業家気質、楽観主義と道徳的理想主義等アメリカを大国にした要因と能力に対する確信、B国民が自分たちの間で話すような調子で国民に語りかける才能)。反面で、レ−ガン流のテレビ民主主義に対する懸念を隠そうとしない。何故ならそれは「本来慎重に行うべき政治的決定を急がせる」からである。シュミットはその一つの典型例を1982年12月のポ−ランドにおける戒厳令布告に際して、世論の盛り上がりを受けた米国の単純な反対活動に見ている。シュミットが言いたいのは、ポ−ランド情勢が、アメリカ人が考える程単純ではない、ということに尽きる。シュミットによると、これは「テレビ民主主義と政治的理性の対立」である。米国人に理解できない点、それは外国軍の侵入と国土の荒廃を何代も前から経験していない北米の国民と、その悲惨を十分知り尽くし、和解・協調・均衡そして条約で定めた軍備制限による平和確保を求める欧州人との相違であると共に、政治手法としてのポピュリズムと政治エリ−ト主義の対立なのである。後者については戦後ドイツの所謂「戦闘的民主主義」=ナチの体験を反省した上で、国民投票や議会解散といった制度面でも大衆煽動型の政治を意識的に排除すると共に基本権を一定の範囲で制限する手法をシュミットが意識しているのは間違いない。ナチ以降の現代先進資本主義の権力構造が拠って立つ微妙なバランスがここには表現されていると言える。

 経済面においてもシュミットは、カ−タ−、レ−ガン両政権に対し批判的である。なぜなら「アメリカ国民が経済政策の成巣が十分でないと感じた時は必ず日本とドイツ(そして時にはヨ−ロッパ共同体)をスケ−プゴ−トに仕立てるという安易な原則で行動した」からである。確かに米国との関係では日本がやりすぎたことはシュミットも認めている。しかしそれ以上に「アメリカが資本輸入を必要としたのは自ら招いたものであり、世界貿易の流れと金融の流れをうまくコントロ−ルできなくなった責任はアメリカの方が倍も大きかった」のである。結局著者の観点では、ワシントンに世慣れた、古きヨ−ロッパに親近感を持つ古き東部のエスタブリッシュメント(例えばトル−マン、アイゼンハウア−、ケネディ、ニクソン、フォ−ドまで)が存在し、アメリカの外交政策を形造っている限り意見対立は少ないが、その状況は変化してきていた。ダレス、ブレジンスキ−、バ−ル、ワインバ−ガ−、カ−タ−、レ−ガンは使命感溢れる衝動を時として抑えられず、これが米国と欧州の対立をもたらしてきた。しかしシュミットはこのことからヨ−ロッパが2つの極端に走らないよう、即ち一方で単純に米国に依存して保護してもらう立場になることは許されないし、他方で本来の危険がソ連ではなくアメリカに責任があるとする反米主義的幻想に浸ることも避けねばならないと警告するのである。

 中国との関係においては、シュミットは純粋に第3の大国という観点から客観的にその印象を語っている。彼がそうした姿勢を採れるのは、「北京とポンとの間には、二国間の懸案の問題はなかったし、今もない。むしろ多くの分野で協力が成功裏に発展している」からである。そしてシュミット自身は正しいことに、中国に対しては、米国、欧州そしてソ連の考え方・政策を中国に説明する仲介者の役割を果たそうとしている。

 1975年の毛沢東との会談では、既に老衰している毛の、中ソ対立、戦争の迫り来る危機についての固定観念を聞かされるだけに終わっている。横に控えるトウ小平の迎合的な態度だけがシュミットの目に焼きつくことになる。そのトウ小平は1976年に毛自身により失脚させられ、そして1976年の毛の死去の後復活、そしてその後はシュミットの回想はトウ小平の中国との回想になる。しかし幕間劇としての華国鋒に対してシュミットは決して否定的な印象は持っていない。むしろ「彼は私に中国の戦略的状況とそこから生まれる中国の目標設定の理解に役立つ多くの本質的なことを伝えてくれた」と評価している。しかし彼は1981年に解任され、トウ小平の時代が始まる。

 中国についてのシュミットのアプロ−チの出発点は以下の基本認識に基づいている。即ち「共産主義国の中で断然人口の多い中国が、アジアの共産主義国の中では北朝鮮とだけ良好な関係を持ち、ソ連、モンゴル、ベトナム、ラオス、カンポジアの共産主義政権と良い関係にない」という事実、「他の『資本主義園』との関係はほとんど支障がないのに対し、中国を悩ませるものはすべて共産主義国から発している」という事実である。従って中国は自ら共産主義の指導者の役割をとろう、という誘惑には負けない。超大国の覇権主義に対しては第三世界の国の下で反対すれば成功すると考え、その上で経済の発展に注力することが21世紀に向けた中国の最大のテ−マとなり、これがトウ小平の経済改革路線を促していくのである。既に政権から退いていたシュミットは1984年以降こうした中国の変化を目撃していく。トウ小平の腹心である逍紫陽の市場経済への展望について、シュミットは驚きを隠さない。「ジスカ−ル・デスタンとレイモン・バ−ルを除き、自国経済についてかくも確実且つ詳細で納得のいく判断力をもった政府首班にあったことはない。」そして今後の中国の改革路線の成功を左右する3つの要因を看破する。それは@トウ小平と逍紫陽の指導力の持続、A大衆が実感しうる経済的効果、そしてB東アジアと太平洋地域に働きかける世界的大国の間のバランス維持という中国外交政策の成功である。むろんその後天安門事件を経て、逍紫陽は失脚し、トウ小平も老衰の域に達している(その後逝去)とはいえ、取り合えずこの10年は中国は経済改革に猛進し、未曾有の中国投資ブームを呼ぷことになった。台湾問題での緊張を除けば中国を巡る国際政治のバランスは大きく崩れではいない。その意味でシュミットが見た80年代の中国の変化は依然持続している様に思える。しかしポストトウ小平の中国に何が待っているのか、シュミットの観察の楽観主義に、「二国間の懸案のない」ドイツ人の気楽さを見るのは私だけであろうか。

 中国との関連においてシュミットは、このアジア地域での日本が果たすべき役割について、短いが的確に言及している。「日本は−ドイツ人と違って−近隣諸国が恨みを忘れ、増大する協力に基礎を置く信頼をもち得るようにするために1945年以降ほとんど貢献しなかった。」そしてその最大の理由は日本人の他の隣国諸国民に対する優越感であったと考える。また日本の政治家の中ではシュミットは福田武夫を評価しているものの、中曽根に対しては、「明確ではあるが右翼の影響を受けすぎている」と批判的である。

 シュミットの大学の卒論が戦後日本の通貨改革についてであったということは既に書いたが、これは日本とドイツの相互影響の一つと言えなくもない。しかし第二次大戦時のべルリン=束京枢軸の不幸な想い出を呼び覚まさないよう、シュミットは連邦政府が、日本との協力はあくまでヨ−ロッパと日本の協力関係の枠で行うよう努める、と宣言しているのは教訓としなければならない。

 こうして三大国及び日本との関係についての回想を受けたシュミットの将来に向けての展望は明確である。世界政治はワシントン=モスクワではなく、モスクワ=ワシントン=北京の三極構造の中で捉えられるべきである、というのが、西側が留意すべき前提である。西側と中国の友好関係を維持し、経済改革を支持することは、米国や西側の利益となり、他方これが中ソの接近あるいは中国の東アジアでの覇権主義につながっていく場合には新たな危機をもたらすだろう、とシュミットは考える。ソ連についても国際的な軍備制限交渉を粘り強く続けながらソ連の経済改革を支援する努力が必要である。そして経済面においてはアメリカ、EC、日本の三極構造をより安定させていくこと。こうした世界認識は冷戦終了後も大きく変わってはいない。もちろんミクロでは、より細分化された地域紛争、民族主義の噴出が新たな問題としてクロ−ズアップされている。しかしこの大きな枠組みの安定なくしては、小規模な地域紛争の解決もありえない。その意味で、シュミットの著作は、出版後10年弱の月日が経っているとはいえ、なお大状況を冷徹に認識した上で現代の個々の問題に現実的に対応していく方法を示唆していると言えるのである。

 最後に、シュミットの外交手法は、相手方の重要人物の懐に飛び込み、相手の発想を理解した上で、率直な自己主張も行い、その上で利害の調整点を探っていくというやり方であることを繰り返しておこう。それ自体は言うことは簡単である。しかし、相手を理解するためには相手の拠って立つ国内情勢、歴史的・文化的背景、更には交渉相手の個人的性格等を総合的に判断しなければならない。そしてもちろん、自己の利害を的確に説明するためには自国の現実についての明確な認識がなければならない。一般に、敗戦後米国の傘の下に置かれた国として日本とドイツには戦後独自の外交の余地はなかった、と言われている。シュミットも認めているとおり、大国間の緊張が激化した場合には独自外交の可能性が縮小したのも確かである。しかしそれにもかかわらずシュミットは時として自国の利害のために自由に振る舞っているように見えるのは、一つには、外的環境の如何にかかわらずソ連との良好な関係無くしてはドイツの安定はなく、ドイツの安定なくしては欧州の安定はありえないという明確な理念を持っていたからであろう。E.H.カ−の独ソ関係史を待つまでもなく、両国の関係は常に他の西欧諸国や米国との勢力関係の中、微妙なバランスの上に存在してきた。これが崩れた時の悲劇は20世紀の2回の戦争が十分に教訓を残してくれた。シュミットが拠って立つのは、まさにこうした歴史意識に支えられた将来に向けての理念である。しかし日本で例えば中国との関係においてこれだけ明確な外交理念を示しながら外交政策を実行しできた政治家がいただろうか。例えば日中国交正常化を行った田中角栄は、如何なる理念を以てこの政策を実行したのか。それは米国の頭越し外交の単なる追認ではなかったのか。あるいは「普通の国家」を説くドメスティックな政治家である小沢一郎に、こうした外国の発想、文化を理解しながら問題の糸を丹念にほぐしていくだけの力があるのか。その能力のない独自外交は、単なる利己的な独自行動となる。もちろんドイツにも常にそうした身勝手な外交への後退の契機は存在している。そしてそれは我々の日常生活の中でも常に矮小なレベルではあるが提起され続けている問題なのである。ドイツ人や英国人と交渉する際、他者の理解は交渉の当然の前提である。それなくして、日常的な業務は進まない。余りに自己の論理のみに依拠し、他者を理解しようとしない輩が依然多い中、自分自身がこの発想を忘れ又チェックを怠ってはならないことをこの書物は改めて痛感させてくれたのである。

読了(上):1995年11月27日
読了(下):1996年3月11日