アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第三節 政治家たち 
荒れ野の40年 大統領演説
著者:R.v.ヴァイツゼッカ− 
 この本を、夏休みで滞在していた日本で読んだ後、ドイツに帰国。その数日後に、日本の「終戦」記念日を迎えた。45年振りの非自民党連立政権首相が、先の戦争を公式の場で「侵略戦争」と呼んだことが保守派の反発を受け、来たる9月23日に行われる予定の所信表明演説ではその表現を避けるといった、今だに子供のような議論が日本では行われている。他方、日本の新聞にも、ドイツの戦後処理に係わる記事が、1970年のポ−ランドとの国家条約締結にあたり、ワルシャワのゲット−記念碑の前で脆くブラントの写真と共に掲載されている。「今更何なのだ」という気持ちと、それにもかかわらず、「まさにこうした自己本位の子供の議論が行われているが故に、このドイツの戦後経験は、我々が深く内省化しなければならないのだ」、という気持ちが共存するのを強く感じる。20世紀に、2度にわたり欧州全体を巻き込む大戦争を引き起こし、その都度敗戦し断罪されたドイツ。最初の戦後処理が、決定的な打撃を受けずしての敗戦であったことから、結局ルサンチマンだけが残り、それが更なる壊滅的な打撃をもたらしたドイツ。その二重の経験と最初の戦争ではなかった非戦闘員の人種的偏見等による大量殺戮が、この国の戦後処理の方法を徹底させた、と言える。もちろん、大統領の感動的な、理想主義的演説の背景で、それをあざ笑っている物達も存在するのであろう。しかし、それにもかかわらず、この2つの書物は、まさに大統領が演説で使用した言葉を借りれば、この理想主義を我々の心に充分「刻印 (erinnern)」してくれるのである。

 永井の書物は、この大統領演説に触発された、戦後ドイツの精神史である。日本の敗戦と異なり、「本土決戦」を挑み、破壊され尽くされた瓦礫の山からの出発。600万のユダヤ人虐殺の裏では、戦闘員約400万、非戦闘員約380万、そして戦後故郷を追われる中での300万とも言われるドイツ人の死者。難民の数も、1400万に及んだという。これが、ドイツの1945年5月8日、「Stunde Null(零時)」の状態であった。ニュ−ルンベルクで戦争裁判が行われる中、戦争責任を自らに刻印しようという動きが、早くも1945年、プロテスタント教会からの「シュットガルト宣言」という形で現れる。

 しかし、この宣言も、当初は、ドイツの戦争責任に批判的な世論を考慮し、非公開で出されたものであったという。そして実際、この宣言がマスコミにリ−クされると、これに対する反発が渦巻くことになった。それにもかかわらず、プロテスタント教会の中では、この宣言の精神を維持すべく、その後も1947年には、「教会内部にもあった弁解、自己弁護、責任回避などの傾向に反対する」べく「ダルムシュタット宣言」が出されるが、著者はこうした良心的宣言を、その後の「東方教書」、そしてこのヴァイツゼッカ−演説の源流と位置付けている。

 アデナウア−の時代は、冷戦が激化する中、マ−シャル・プラン等の援助に支えられた「経済の奇跡」の時代と言われるが、アデナウア−は戦争責任についても、現実的な対応を行ったとされる。即ち、彼は世論の反対に抗して大規模なイスラエル賠償に踏み切ったが、これは、良心的行為であったと共に、西側に認知されるための政治戦略の一環だったという。他方、ナチ時代に活躍した官僚達−例えば、ナチの民族法の作成に貢献した内務官僚であった総理府次官グロプケ、元突撃隊大尉で戦後難民相となったオ−バ−レンダ−等を側近に採用したが、これは逆に知識人達の強い反発を受けたのであった。

 ドイツの本格的な「過去の克服」は、1969年に「悼む能力」を持った二人の指導者が首相と大統領に就任した時から開始される。「支配者民族から抜け出たドイツ最初の宰相」(H.ベル)と呼ばれたプラントは、公然と、ドイツ分割や領土喪失はドイツ人自身の罪の結果である、と述ベ、またドイツ人が組織的に殺人、強制的服従、侮辱を行ったところでドイツ政府が納得してもらうにはそこでのドイツの責任を認めなければならない、として積極的な東方外交に踏み切った。他方、反ナチ抵抗運動に加わり、戦後はシュットガルト宣言に参加すると共に、法相としてナチ時効停止問題にも取り組んできたハイネマンの大統領就任もこの時代の良心の象徴となったという。そしてこの指導者の生み出した姿勢が、世界的な学生運動の高まりと呼応して、戦後ドイツの精神史の一大転換点を作り出した。そして日本等とは異なり、その価値観の変化は、暑い季節が終息した後もしっかりと根付くことになったのである。

 もちろん、こうした価値観の大転換は突然発生したのではない。1955年の「アンネの日記」の公刊(この本の贋作問題が最終的に司法当局により決着したのは1988年になってからであった、というのは興味深い)、1959年のハ−ケンクロイツ落書き事件、1960年からのアイヒマン裁判等のユダヤ問題への関心の昂揚、ベル、グラス、エンツェンスベルガ−等、新世代の文学者の登場、ヤスパ−スやアドルノによる哲学的問いかけ等が底流となり、こうした戦後価値を見直す動きが次第に醸成されていったのである。プラントは1974年、ギョ−ム事件の責任を取り辞任し、政権は短命に終わり、またその後「テロとナチの影」に怯える70年代が訪れたとはいえ、この時代にドイツの「戦争責任」の有り様がほぼ出来上がったと言えるのである。そして繰り返しになるが、日本と異なり、この姿勢は、知識人や若者の間のみならず、政党や政治家達にも共有されていったのである。

 その過程はある意味では、70年代にエコロジ−が国民的なコンセンサスを得ていった過程と同じものであったといえる。1985年、終戦40周年に当たりヴァイツゼッカ−が行った演説が多くの感動をもたらしたのは、彼の演説がまさにこうしたドイツの戦後精神史を踏まえつつ、60年代の転換以降、時として忘れ去られることのあるこの反省を、改めて「心に刻む」よう人々に訴えたところにある。私もただちに岩波プックレットで出版されているこの演説を一読し、感動を禁じ得なかったことを告白しておきたい。国体の護持を終戦時の最優先課題とし、天皇制を維持したことから国家元首として天皇を抱くにも拘らず、他方で天皇は、「象徴行為」という名のもとに宮内庁官僚の作成した無害な作文を読み上げるだけの存在としたことを考慮すると、如何に国家制度としての天皇制が形式的なものであるか、ということが理解される。元首として政治的な権限はなくとも、大きな良心的、道徳的権威を有することが、国民的コンセンサスの点でも、また外交関係に於いても大きな存在価値を持つのである。

 永井の著書の最後に、この戦後処理を巡ってのドイツと日本の相違についての総括が行われているが、この多くが納得できるものである。「歴史との自己批判的な付き合い」を学んだドイツとそれのできなかった日本。利益誘導型のビジネスと化し、良心などという言葉は唾棄すべきロマンチシズムでしかない国内政治と、米国追従外交から、実際に被害をもたらしたアジア諸国に対しては一切考慮を払わなかった戦後外交。こうした新たな「過去のつけ」は決して増えることはあっても減ることはない。冷戦終了後の世界秩序の流動化を受け、日本が大きな対価を払わされるのはそう遠い先ではないような気がする。

読了:1993年7月31日(ヴァイツゼッカー演説の精神)
読了:1993年8月3日(荒れ野の40年 大統領演説)