アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第二章 政治
第三節 政治家たち 
アデナウアー
著者:板橋 拓己 
 ドイツ現代史でアデナウアーといえば、もちろん戦後ドイツを設計した大物政治家であるが、彼を正面から取り上げた著作には今まで偶々接してこなかった。もちろん、ドイツ戦後史を見ていくと、そこには常にアデナウアーが影を落としているのであるが、しかしどちらかと言うと彼は、越えられるべきネガティブな対象として描かれていたように思う。例えば、ナチの蛮行に対するドイツの贖罪は、ヤスパースやヴァイツゼッカーなどに象徴され、奇跡の経済復興は第二代首相のエアハルトの功績として、また戦後ドイツの外交的な斬新さではブラントやシュミットが語られることが多かった。その理由は、多くのドイツ戦後史の研究者たちが戦後ドイツの成功を語る際に、アデナウアーの持つ「保守性」と「ワンマン宰相」というイメージに故に、その功績を正面から彼に与えることを躊躇させたからではないかと思われる。

 もちろん石田勇治の「過去の克服」(別掲)では、この本でも触れられているアデナウアーによる、「1952年9月ユダヤ民族への賠償義務実施のための(イスラエルとの)国家間補償協定(「ルクセンブルグ協定」)の調印」等が評価されており、断片的にはアデナウアーが主体的に進めた政策に接してきたことも確かである。また、著者がこの作品で、「アデナウアーを『奇跡の老人』と褒めちぎっている」としているS.ヘフナーの著作(別掲)も読む機会があった。しかし、彼の政策全般の評価を含めて、彼の全体像を示した評伝に接するのは、これが初めてである。彼については、そもそも膨大な研究実績があること、そしてそれらの多くが専門的な学術論文であるということも、今まで彼を全体として取り上げることがなかった理由のように思われるが、その意味で、1978年生まれの著者によるこの評伝は、改めて戦後ドイツを作ったこの政治家の全体像を大まかに知るための恰好の素材であった。

 客観的に見ればアデナウアーが、齢73歳で1949年に戦後ドイツ初代の首相となり、1963年に87歳で引退するまで、その地位を保持し続けたことだけでも、「奇跡の老人」という称号に値するたいへんなことである。しかし、「七十になるまで、どんなに好意的に見ても人並み外れて優れたものを見出すことのできない」(ヘフナー前掲書)アデナウアーがなぜ年老いてから「神老」になったのか?もちろんその背景には、ヘフナーが前掲書で分析したように、「戦後、人材が枯渇していた」ことに加え「ヒトラーの時代の徹底性故に、戦後ドイツの政治を担うのはヒトラーと同じ世代や若い世代ではなく、年老いた世代でなければならなかった。そしてドイツの人々は、アデナウアー政権によって古き良き時代、あるいは『こんな過去であって欲しい、こんな過去であったに違いない』という安堵感を抱いた」といった要因があったことは確かだろう。しかしその結果、「アデナウアーの内政・外交はドイツの統一を犠牲にしたとはいえ、西欧近隣諸国としっかり結びついた筋肉質のドイツを作り上げた」(ヘフナー)のである。それでは、実際アデナウアーの生涯と、そして特にその首相時代の指導力はどのようなものであったのだろうか?

 まず、ヘフナーが「どんなに好意的に見ても人並み外れて優れたものを見出すことのできない」とコメントしている、首相就任までのアデナウアーの軌跡を簡単に見ておこう。

 1876年1月、ドイツ帝政成立後間もない時期に、中級官吏の三男としてケルンで生まれる。後に彼はプロイセン的な国家主義や軍国主義の批判者となるが、少年時代は、父親からこの「プロイセン的美徳」や「プロイセン的規律」を叩き込まれたようである。ケルンは大聖堂に象徴されるように、ライン地方のカトリックの中心都市であり、彼も「濃厚なカトリック的環境」の中で育つことになるが、他方でケルンのそれは反自由主義的傾向の強いバイエルンのそれと比較すると「『実際的』で『開放的』かつ『リベラル』な性格をもっていた」という。そしてプロイセン帝国の中でも、ケルンは行政的には広範な自治権を認められていた。しかし、ギムナジウムから大学(フライブルグ、ミュンヘン、ボン)、そして最初の職務としてのケルン検察庁の時代を通じ、彼は決して目立った存在ではなかったようである。

 その彼が社会的な上昇を開始するのは、テニス・サークルで知り合ったケルン財界の名門一族の女性と最初の結婚をしてからである。また転職した先の弁護士事務所の弁護士がケルン市議会の中央党議員団長であったことも彼の上昇を助けることになる。彼らのコネを使い、まずは1906年、空席となったケルン市助役の座を射止め、そして特に第一次大戦中に市の食糧供給問題の処理で頭角を現すことになる。戦中、最初の妻が病死したり、彼自身が大きな自動車事故にあったりということもあったが、1917年、当時のドイツ帝国の全市町の中で最年少の41歳でケルン市長に就任し、12年の任期に臨むことになる。

 第一次大戦がドイツの敗北で終わると、ケルンのあるラインランドは戦後処理の大きな焦点となる。英国によるケルンを含むラインランドの占領と戦後処理としてのラインランドのプロイセンからの分離独立構想。著者は、この一連の戦後処理の過程で、ケルン市長としてのアデナウアーが、占領国の思惑と自国の利害をうまく調整しながら対応したことを説明し、これが、今度は第二次大戦後の処理でも、彼の巧みな「外交能力」として生かされることになったと評価している。またこのラインランド分離独立問題は、その後のフランスによる占領や、その最中の分離主義者による「独立宣言」などで複雑な過程を経るが、ケルン市長としてのアデナウアーは「あらゆる陣営と接触を保つ」ことにより巧妙に振る舞いながら、「新しく連邦主義的に構成されたドイツ内での、プロイセンの解体と西ドイツ州の創設」を模索する。それはその時には結局実現しなかったが、第二次大戦後に、ノルドライン・ヴェストファーレンという新州設立の際に生かされることになったという。

 ケルン市長時代、アデナウアーは「君主のごとく強大な権力をふるう」ことになるが、実績的には、ケルン大学の再建、ケルン市の近代化(城壁の撤去とグリーンベルトの設置、メッセホールや多くの体育施設の建設)等。しかし、それは「金にいとめをつけず、その手法はきわめて強引だった」として、1929年、市長に再選された時は、その「専制政治」と「放漫財政」から社会民主党が反対に回り、薄氷の勝利であったという。この第二期の任期中は、有名なケルンーボン間のアウトバーン建設を除き、あまり具体的な成果はないと言われている。また個人的には1919年に、19歳年下の女性と再婚することになる。そして時代は、大恐慌の時代とナチの勢力拡大に向かっていくが、大恐慌で、個人的に米国株で運用していた資産が大きく毀損し、政治的スキャンダルにもなったというのも、戦後の活躍から振り返ると、平凡な政治家であったという印象である。

 ナチの勢力拡大で、「ユダヤ人の友人が多く」、「フランス贔屓」のアデナウアーは、彼らの攻撃の恰好のターゲットになるが、彼はヒトラーを本格的な脅威と考えず、ナチスやヒトラーを攻撃、屈辱させるような態度をとり、それがまたナチの攻撃を激しくさせることになる。そしてナチが政権を獲得した1933年、ケルン市議会も彼らが多数派となり、アデナウアーは市長を罷免される。その後はケルンを密かにのがれ、それから大戦が終わるまでの12年間、修道院に1年間籠ったりしながら、孤独な生活を余儀なくされることになる。また1934年には、レーム事件との関係でゲシュタポに逮捕・拘束され、処刑の危機に晒されたこともあったようであるが、結局釈放され、常時監視下におかれはしたが、取敢えずは年金生活者として家族と共に静かな日々を送ることはできたようである。また1944年には改めて逮捕され収容所に入れられる。この時は脱走を試みたものの、妻が拷問にあい、その結果再逮捕されるが、最後は士官になっていた息子の奔走で釈放された、という。結局、彼はレジスタンスの闘士であったブラント等とは異なり、基本的には政治からは距離を置き、大人しくしていることで、この危機の時代を生き延びたと言える。

 69歳で終戦を迎えたアデナウアーは、ケルンを占領したアメリカ軍に市長として呼び戻される。彼は、米軍の作成した「ホワイト・リスト(ナチ非協力者)」のドイツ全体で筆頭に挙げられていたのが、その理由であった。第一次大戦後の復興を経験していたアデナウアーは、それよりももっと徹底した破壊に見舞われた今回の祖国も、「経験とオプティムズム」で復興が可能と信じていたという。しかし、間もなくケルンの占領軍が英国軍に引き継がれると、アデナウアーは、労働党指導下の英国占領軍とウマが合わず、間もなくケルン市長を解任されてしまうが、著者によれば、このことがむしろ「政党政治家」として「キリスト教民主同盟(CDU)という党派を超えた政党の創設と、そこで自分の権力基盤をじっくり築いていくことを可能にした」と評価される。

 当然この過程は、各種の利害関心や思惑が交錯するものとなるが、アデナウアーがとったのは、「キリスト教社会主義的なもの」と「自由民主主義・市場経済志向的なもの」との間での妥協の道であり、彼は、それをまずケルンを基盤に主導し、続いて新設されたノルドライン・ヴェストファーレン州、更にはドイツの国際舞台への復帰を目指した公式の外交活動や非公式な「西欧の指導的なキリスト教民主主義政治家が集う定期的な秘密会合『ジュネーブ・ネットワーク』」などを通じ国際的な連携にまで広げていったという。そして占領軍との「特権的対話者」としての地位を獲得することにより、基本法の制定から連邦議会選挙を経て、1949年9月、戦後ドイツの初代首相に就任することになる。言わば、占領軍とのパイプ役という地位を利用し、国内的な権力を固めていった訳であるが、その後も、主として彼は、外交にそのエネルギーを集中していくことになる。

 彼の外交姿勢は明確で、一言で言えば「強い反共産主義に裏付けられた西欧志向」で、これに基づき再軍備から主権回復、ドイツ再統一やイスラエルに対する戦後賠償問題等、時として内外から強い反対が巻き起こった重要課題を、強い指導力とバランス感覚をもって推進していく。ドイツ再統一問題に関し、1952年3月に公表された、中立を前提に再軍備を認める統一ドイツという「スターリン・ノート」に対する強硬な反対と、占領国による頭越しの決定を回避する姿勢が、彼の外交姿勢を象徴しているように思える。そして結果的には、冷戦の激化と、その中での東ベルリンでの民衆蜂起(1953年6月)等により、彼の政策は正統性を得ていくことになる。また再軍備に関して、彼が進めた欧州防衛共同体(EDC)が、フランス議会の拒否に会い頓挫しかけた際に、英国外相イーデンがNATOの枠組みでの再編を主導し、「ドイツ再軍備と、アメリカのヨーロッパへの軍事的関与の継続、西ドイツの西側体制への統合、そしてヨーロッパ統合の継続」を見事に融和させた、というのも興味深い逸話である。そして戦後の分断されたドイツを含めた冷戦構造が定着し、「単独代表要求」を国際社会で要求するハルシュタイン・ドクトリンが彼の冷戦下での外交方針となる。

 イスラエルへの賠償問題については、米国との関係や「ハルシュタイン・ドクトリン」との関係からもデリケートな問題であったが、アデナウアーは、イスラエル寄りの解決に突き進んでいった。これは著者によれば、ドイツを国際社会に復帰させるために必要という配慮のみならず、「彼なりのユダヤ人に対する共感と贖罪意識も働いていた」他、「ナチス支配下の苦しい時代にユダヤ人実業家のダニー・ハイネマンに助けてもらった」という個人的恩義もあったという。

 こうしたアデナウアーの政治手法から、著者は、彼が首相であった1949年から63年までの時代を「宰相民主主義の時代」と呼んでいる。それは外交における独裁的な手法と、内政における首相府スタッフ、なかんずく彼の右腕といわれた次官グロプケの巧みな利用に要約される。戦後ドイツ社会の安定をもたらした諸施策―住宅問題、調整負担、被追放者の統合、共同決定法、ナチ迫害者への補償、年金改革―などが次々に実行されていく。しかし、皮肉なことに、彼の政治体制の安定化に最も貢献した経済成長により、その立役者としてのエアハルトの存在感が次第に高まっていくことになる。より「自由主義経済」を志向するエアハルトを排除しようというアデナウアーの動きは結果的にことごとく失敗し、最後は1961年、ベルリンの壁がまさに建設されようとしていた時に、同時に進行していた連邦議会の選挙戦を優先させたことで、権威を失墜させ、1963年10月、彼が望んでいなかったエアハルトに後継首相の地位を禅譲せざるを得なくなっていったという。しかし、最後まで「名声ある大政治家」として取り扱われ、1967年4月、91歳で逝去した際は、盛大な国葬が行われることになる。その点では、ドイツ統一の立役者であったコールが、汚職問題で晩節を汚したのとは大きく異なっている。

 こうしたアデナウアー時代を総括して、著者は「西側結合」がドイツの「国家理性」として定着した時代と規定している。もちろんそれはドイツの外交政策を硬直化させるものであったが、それを打ち破った社会民主党ブラントの「新東方政策」も、基本的にはこの「国家理性」を超えるものではなかった、というのが著者の評価である。他方で「宰相民主主義」は、経済成長の時代とも相まって、国民の政治的アパシーを強めることになり、これが60年代末の学生運動に繋がっていくことになるが、これはもちろんドイツだけの問題ではない。そして最後に、ドイツの「過去」に対する道義的判断よりも、「社会秩序の安定と、自分の権力基盤の強化を優先した」点において、結果的に西ドイツ国民の「過去の克服」ではなく、「過去の忘却」をもたらしたと批判される。但しそれも、その後ブラントらにより進められる「過去の克服」に向けての出発点であったと、著者は考えている。

 冒頭に述べたように、その権威主義的政治が、その後批判的に評価されることの多いアデナウアーであるが、冷静にその厳しい時代背景の中で見ると、政治指導層内でも多くの思惑や利害関心が蠢く中、時として強引な指導力により戦後ドイツを設計していった彼の指導力は、ヘフナーの「神老」という表現に値すると思えないことはない。そして、戦前までは、それなりに目立っていたとは言え、取り立てて「大政治家」を予感させることがなかった彼が、戦後そこまで力を発揮したのは、何よりも時代が「老人の知恵と能力」を必要とした、ということが最大の要因であったのだろう。そしてそれは同じ敗戦国から復興した日本の戦後とそれを率いた吉田茂などの手法と、それほど変わっている訳ではない。日本も戦後は、米国追従外交という、ある意味アデナウアーの「西欧志向」と同じ、冷徹な政治判断を優先させた単純な外交路線を突き進むことにより、経済成長を「過去の克服」よりも優先させ、先進国の仲間入りをすることができた。ただ残念ながら、アデナウアーの「西欧志向」は、近隣国、なかんずくフランスとの和解を通じ、その後の欧州統合を見据えた長期戦略と適合したのに対し、日本の選択した道は、結果的に近隣諸国との関係改善を劣後させたものとならざるを得なかったことから、結果的に現在の中韓との軋轢の原点となってしまった。その意味で、アデナウアーのドイツは、同じ冷戦体制の中でも、ドイツが歴史的に直面してきた地政学的な問題に対し、中長期的観点で立ち向かった、ということができよう。更に、ドイツがこの基盤の上で、社会民主党政権となってから新たな「東方外交」や「過去の克服」を進めたのに対し、日本では、その後55年体制が、1990年代に崩壊するまで続き、その外交政策も、周辺国との戦後処理も硬直的なままであったという違いも指摘することもできるだろう。

 繰り返すが、アデナウアーの「西欧志向」は、その後半世紀を超える欧州域内の動きと適合したものであった。おそらくこれが、現在も尚、その権威主義的な政治手法にも関わらず、世論研究所の調査によれば、彼がドイツ国内で高い評価を維持している理由なのであろう。確かに、彼は日本では現在ほとんど忘れられているし、私が今までドイツ現在史を見てきた範囲では否定的に議論されることも多かった。しかし、やはりこの政治家は、戦後ドイツの指導者の中では確かに大きな位置を占めているし、今後も欧州統合が深化するとすれば、その評価が決定的に変わることはないであろう。その意味で、この新書は、個人的にはやや抜けていたアデナウアー時代のドイツに対する自分自身の認識を大きく補充してくれる作品となったのであった。

読了:2014年8月9日