アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第三節 政治家たち 
ビスマルク
著者:飯田 洋介 
 久々のドイツ物は、今年(2015年4月1日)が生誕200年を迎えた、19世紀ドイツの大政治家ビスマルクの伝記である。1862年から1990年の引退まで、27年に及ぶプロイセン首相、その内19年はドイツ帝国宰相として、19世紀ドイツのみならず、欧州全体の政治に絶大な影響を及ぼしたこの政治家については、学生時代に欧州近代史全般を学ぶ中で、1871年のドイツ帝国の統一に加え、国内政治における「社会主義者弾圧法」と「社会保障政策」といった「アメと鞭」の使い分けや、外交における「同盟政策」などで、ある意味十分な理解が出来てしまった。更に20世紀のドイツ史を見ていく過程で、「ドイツ問題」を巡る彼の功罪についても、いろいろなところで学んできた。しかし、考えてみれば、彼の通伝ということでは、彼自身の自伝や、後世の研究者による膨大な伝記が数多ある中、私は今まで接することはなかった。1977年生まれの、「ビスマルク研究一筋でやってきた」著者によるこの評伝は、その意味で、この大政治家の一生を眺めながら、彼の生涯が物語る「ドイツ問題」につき、改めて考える良いきっかけを与えてくれる。更に、ここシンガポールで、まさにこの国ではビスマルクに匹敵する「カリスマ政治家」として君臨してきたリー・クアンユーの逝去と彼の今後の歴史的評価、そしてこの大政治家亡き後のこの国や地域の将来を考える際に、いくつかのヒントを与えてくれる。

 ベルリンから西に100キロほど行ったところにあるシェーンハウゼンという小村の地方地主(ユンカー)の家に生まれた彼の、幼年時代から青年時代にかけては、ゲッチンゲン大学で数々の奇行で名物学生であったこと(大学の学生牢にある彼の落書き)を除けば、あまり特記すべきことはない。大学卒業後、いったんベルリンの裁判所に官吏として勤務するが、すぐに父親の経営する農業に戻り、そこからプロイセン・ザクセン州選出の「騎士身分」の代議士として政界に足を踏み入れる。そしてそこからは、若干の揺らぎもあったとは言え、基本的には、「ユンカー」の利益代表として「強硬保守派の陣営に身を寄せ、自らの既得権益を擁護する意味でも反革命のスタンスに立ち続ける」ことになる。ただ、それだけでは、自由主義やナショナリズムから距離を置くただの「反動政治家」に留まることになったが、彼はその政治活動を行うのに、「議会、新聞、協会といった近代的な政治手段を利用すること」で、存在感を高めていったという。著者の考えでは、このように「自身を取り巻く外的環境の変動を受けて、彼は自分が信奉・拘泥する伝統的な権益やスタイルを、革新的な手段でもって擁護」するという、「伝統的要素と革新的要素が巧みに連動」したスタイルを編み出したこと、そしてそれを、時代の変動という「外的状況の変化」の中で巧みに利用していった彼の「術(クンスト)」が、彼をして稀代の政治家に育てた、ということになる。

 1851年、ビスマルクは、ドイツ連邦議会のプロイセン代表としてフランクフルトに赴任し、ここで8年間、外交官として活動するが、この時代に、後に彼が縦横無尽に活躍する欧州国際政治の「術(クンスト)」の基礎を身につけることになる。この時期を経て彼は、単なる「反革命の闘士」から、「国家利害を対外的に再認識できる」外交のプロへと成長していく。更に彼のフランクフルトへの派遣は、そもそもは時の大国である隣国オーストリアとの関係維持が目的であったにも拘わらず、この時代に彼は逆にオーストリアとの対決姿勢を強めることになったという。

 著者は、この時代のフランクフルトが、「ドイツ連邦」(オーストリア帝国、プロイセンを含む5つの王国、30弱の中小諸邦と4つの自由都市から構成された)の連邦議会が設置された、「国際政治」の中心であったことを詳細に説明しているが、これはまさに「神聖ローマ帝国」から、「ドイツ統一」に至る過渡期の舞台となる。ここで、当初はプロイセンとオーストリアの均衡が保たれていたものの、それが次第に不安定になったことで、ビスマルクは次第に反オーストリア姿勢を強めていったとされている。この時期、彼はナポレオン三世に接近して、本国の保守派の怒りを買ったこともあったようである。更にこの時代に続く、1859年からはペテルブルグに「左遷」されるが、ここではロシア皇帝との関係を築き、後の外交のカードの一つを手に入れる。この辺りも、心情的には「反動主義者」であり、「大国プロイセンの権力・権益を追求する保守的・伝統的目標を達成するため」に、手段としては使えるものは何でも手に入れて使う、という彼の革新性の例と言えるかもしれない。この時期から、彼にドイツ・ナショナリズムを評価する発言が増えたことも、著者は同じ側面から捉えている。

 1862年、パリに駐在していたビスマルクの下に、至急ベルリンに戻れという指示が下される。それまで、革新的な行動から忌避されていた彼に、軍制改革を巡る国内の政治危機から、「何をしでかすか分からない」が故に、首相としての白羽の矢がたったのである。ヴィルヘルム一世との謁見を経て、彼はプロイセン首相に就任、それから両者の26年に及ぶ「二人三脚」が始まることになる。彼が47歳の時であった。

 しかし、首相に就任した彼は、直ちに厳しい政治的試練を受ける。まずは、就任早々の議会での「鉄血発言」で、そもそも国内政治を混乱させていた「プロイセン憲法論争」といわれた自由主義勢力との対立を、益々先鋭化させることになる。体外的には、「ドイツ連邦改革」を巡るオーストリアとの対立も激化していた。しかし1863年、シュレスヴィッヒ・ホルシュタインを巡るデンマークとの対立が両国の戦争に至ると、ビスマルクは外交能力を駆使して、この戦争の原因がデンマークにあることを欧州各国に説得すると共に、戦争で勝利し、国内的にも権威を獲得。更に1866年にはついに宿敵オーストリアとの戦争に踏み切り、これに短期戦で勝利すると、国内における自由主義派の勢力も弱まり、彼の政権基盤が安定すると共に、「ドイツ問題」が、「(プロセン中心で、オーストリアを除く)小ドイツ主義」でいっきに進むことになるのである。

 この「ドイツ統一」については、ビスマルクは、「北ドイツにおけるプロイセンの覇権を確立すること」が主目的で、始めからそれを意図していたものではなかったが、普墺戦争の結果として、結果的に進めざるを得なくなってしまった、というのが著者の見方である。そのためビスマルクは、それまでは距離をおいていたドイツ・ナショナリズムを最大限利用。しかし、そもそも統一に消極的な南部諸邦や、それに反発する、例えばナポレオン三世といった周辺諸国に対しては、硬軟双方の手練手管を使っていく。そして最後は、「エムス電報事件」をきっかけにした普仏戦争に勝利し、1871年、未だパリでは戦闘が続く中、ドイツ軍の大本営が置かれたヴェルサイユ宮殿で、ドイツ統一が宣言されることになる。しかし、この際、ヴィルヘルム一世とビスマルクの間で、「皇帝」の称号を巡る深刻な争いがあり、両者が著しく不機嫌の中、式典が執り行われた、という裏話が伝えられている。

 こうして、「ビスマルク自身の根幹ともいえる伝統的なプロイセン主義というこれまで受け継がれ培ってきた要素と、それとは相反するドイツ・ナショナリズムという全く新しい要素が奇妙な形で融合した」ドイツ帝国の宰相としての彼の時代が始まる。重要なことは、ドイツ帝国憲法に示されたように、彼が「神聖ローマ帝国時代から根強く続く邦分立主義や、とりわけ反プロイセン感情の強い南ドイツ四邦に配慮をし」、中央集権的な枠組みをとらなかったことである。これは、私のドイツ帝国に対する今までのイメージと異なるものであるが、その後、ナチスによる中央集権化を経て、第二次大戦後再び復活する、ドイツの分権的伝統となり生き続けることになる。また彼は新たな帝国の枠組みを規定する、刑法典、営業法、銀行法、出版法、司法関係法などの様々な法整備を行ったが、時の自由主義的風潮を考慮し、その勢力の中で自分の政策に賛同できる部分を巧妙に取り込むことで、具体的な政策を遂行していったとされる。その意味では、ビスマルクは封建的な政治心情を有していたが、現実政治の局面においては、「合目的的」でリアリストであった。そして時として、カトリックを俎上にのせた「文化闘争」や社会主義者に対する「社会主義者鎮圧法」といった「負の統合」という抑圧政策と、一連の社会保険制度整備という「アメ」の双方を使い分けることになるが、このあたりは高校の世界史の教科書でも取り上げられている、私のドイツ史学習の原点である。また外交面においては、ドイツ帝国成立に当たってのフランスの怨恨を含め、「同盟の悪夢」に直面するが、そこでは「充足国家」としてこれ以上の領土拡大の野心がないことを積極的に発信すると共に、フランスに対しては、周辺国との同盟を妨害し、外交的孤立を図るという戦略で対応する。しかし、バルカン情勢の不安定化を受け、1879年以降は彼も、積極的な周辺国との同盟を求める「急場しのぎ」政策に転換せざるを得なかった。複雑に入り組んだ同盟関係が構成され、ビスマルクがコントロールしている間はそれでも間が持ったが、彼が失脚した後は管理不能となり、「ヴィルヘルム期の『世界政策』も災いして、ドイツは外交的苦境に立たされ、そして第一次大戦を迎えることになる。」外交面での「ビスマルク体制」を引き継ぐ能力をもった者は、皇帝を含めて誰もいなかった、ということになる。これが、ある意味、「カリスマ後」の政治的問題となったのである。

 1990年、ビスマルクは、新たに即位したヴィルヘルム二世と度重なる衝突の後、辞任を余儀なくされる。直接的には1890年1月の帝国議会選挙で、彼を支えてきた連立与党が敗北したのが引き金となった。その時彼は75歳であったというので、辞任はある意味、遅すぎたといっても過言ではない。そして実際、ドイツの世論も、長すぎたビスマルク時代の閉塞感から、彼の退陣を歓迎したという。

 ところがいったん彼の辞任が決まると、世論は手のひらを返したように、政界を引退する彼に対する「信仰」を高めていったという。こうして引退後も、1898年、83歳での死に至るまで、彼は、現体制を批判する旺盛な執筆活動により、ヴィルヘルム二世とその時々の政権にとって「目の上の瘤のような存在」であり続け、そして「政界を離れ、、そしてこの世を離れたときにはじめて崇拝の対象となり、カリスマ的な存在となってその後のドイツに君臨し続けていった」のである。

 こうしたビスマルクの政治手法と、その後の「神話化」から、現代の我々は何を学ぶことができるのだろうか?ここから私がまず思い浮かぶのは、ここシンガポールにおける最近のリー・クアンユーの死と、足元隣国マレーシアで繰り広げられている元首相マハティールによる痛烈な現政権批判である。

 リー・クアンユーの死からの連想については、まず彼の政治手法は、ビスマルクについてこの著者が指摘している、以下の特性がリーにも当てはまる。即ち、「突如襲ってくる状況の変化に敏感に反応し対処できる反射神経のよさというべきか、彼が状況の変化を極めて大胆に利用する『術(クンスト)』に長けていた。」こうした天性の「政治的勘」は、リーの場合も、彼が第二次大戦後の混乱期を巧みに生き抜き、状況に応じて共産党と連合したり、また粛清したりしながら、最終的には実質的な一党独裁の安定的政治体制を築いたこと、あるいは英国軍の撤退により、それまでは批判的であった米国に急遽接近したり、あるいは経済成長前後の中国との距離感の調整するといった外交政策で示されているとおりである。もちろん広大で分裂していたドイツ領邦国家の統一と、小国シンガポールの生存とは、その政治的負荷は大きく異なる。しかし、反共主義という中核的な政治心情を維持しつつも、具体的な政策においては状況の変化に巧みに反応し、現実的な権力を強化するためにカメレオンのように変節していったということ、そしてその過程で、経済成長による国民生活の改善と、罰則強化による管理国家化という「アメと鞭」を使い分けていったことは両者に共通している。また国家としての生存を確保するために、冷徹なリアル・ポリティックに徹した外交政策をとったことも同様である。

 しかし、こうしてカリスマ指導者が去った後の問題に関しては、両者の影響はおそらく異なるのであろう。それはまず、ビスマルクの時代のドイツが、依然内政、外交に大きな問題を抱え、同時代的にも、彼の退陣後、益々混迷の度を高めていったことから、彼の「伝説」が益々人々の間に広がっていくことになる。特に、彼の末期、周辺各国と張り巡らされた同盟網が、多くの矛盾を抱えるものであり、その後任者たちにとっては全くコントロール不能なものとなっていたことが、この本でも詳細に説明されている。こうした矛盾は、実はビスマルク自身でも管理できなかったのかもしれないが、一般の人々から見ると、「彼であれば解決してくれた」という気持ちを抱かせるものとなり、それが彼の「神話化」をもたらすことになる。その意味では、多くの権力者と同様、ビスマルクは、権力に執着するあまり、後任者の育成に失敗し、個人としての名声は維持・拡大したかもしれないが、国家指導者としての引き際を誤ったと言わざるを得ない。

 これに対し、リーは、数段巧みである。既に、1990年に首相を退いた後も、2011年までは閣僚として、そしてそれ以降も、政治に対する実質的な権力は維持し続けたとはいえ、表立った政策決定に対する介入は行わず、彼の後任のゴー・チョクトンや、現在の首相である息子のリー・シェンロンを陰から支える役割を演じてきた。この結果、もちろん今回の彼の葬儀で示されたように、「リー神話」は、確かにこの国では定着し、現政権もそれを最大限利用することは心得ているとしても、日常的政策決定は、既に後任の指導者たちが、大きな問題なく進められる体制を周到に準備してきたのである。もちろん、ビスマルクの時代と異なり、現在はこの国を巡る国内的、対外的な深刻な問題がある訳でもないことが、後任指導者への権限委譲を順調にさせたということであり、一旦何らかの危機が発生し、現政権の対応が不十分だった際には、容易に「リー神話」が復活する恐れがない、とは言い切れない。そうした問題がなければ、おそらくこの「リー神話」は特段高揚するということはないにしても、他方で色あせることなく、この国では将来に渡り受け継がれていくことになるのであろう。

 もう一点の、隣国マレーシアでの最近のマハティールの言動からの連想である。これはビスマルクが退陣した後、現政権への批判を繰り返し、「目の上の瘤」となったというこの本での記載が、現在マレーシアのナジブ政権を批判しているマハティールの言動との類似性を感じてのものである。

 ある時期強い権力を握った政治家は、誰しも権力から退いた後、後任の政治家たちが進めている路線に対し、どうしても批判的にならざるを得ないという側面は持っているだろう。特に、ビスマルクの場合は、ヴイルヘルム二世と衝突を繰り返した挙句の引退であったことから、自ら作り上げた体制やその運営方法について、言っても言い切れないものがあったのだろう。しかし、翻って、今回のマハティールによる、現ナジブ政権の批判は何なのだろうか?

 詳細は、別掲「マレーシアの政治状況」のとおりであるが、マハティールによる政権批判は、「利権を巡る争いに過ぎない」という見方もあるものの、少なくとも表面的には、自らが率いてきた政党や政権がこのままでは民衆の支持を失うという危機意識からのものであることは疑いない。

 既に2004年に彼が首相の座をアブドラ・ラーマンに譲った後、直ちにこの政権に対する批判を開始し、他方アブドラ側も彼が再度立候補した党員選挙で、彼の支部代表選出を妨害するなど、やや緊張が高まったことや、2008年3月の選挙でのUMNO敗退が、彼のUMNOへの献身を失望させることになったことなどが、彼の邦訳自伝である「マハティールの履歴書」で語られている(別掲ご参照)。また彼がこの回想録を終える時点で、アブドラが首相を退任し、ナジブが第6代首相に就任することになり、「このことでUMNOや与党連合は救われるのだろうか」と自問し、「無能な国家経営の下で国がつまずいているのが耐えられない」として復党を決意したことも語られている。そして彼は、リーマン危機が発生し「金融機関のメルトダウン」が発生しているこの時点では、ナジブ政権がこれを乗り切れるか?と自問した上で、「アブドラ政権よりはよほどまともであることは間違いない」として、この回想録を結んでいるが、その後の彼の懸念が、まさに、あわよくば独立後初めての政権交代、しかも、彼の宿敵であるアンワル率いる野党への政権交代をもたらす一歩手前まで行った2013年5月の薄氷を踏むような際どい総選挙結果に示されたといえる。マハティールにとってみると、こうした脆弱なナジブ政権が、依然維持され、且つ数々の疑惑に包まれていることが耐えられなかったのだろう、という理解をすることは可能である。但し、ビスマルクと異なり、マハティールは自分が育て、後任指名したアブドラやナジブについては、直接助言ができる立場にあったにもかかわらず、何故こうした公開の場を使っての批判となったのか?それが物語るのは、おそらく、マハティールの政権中枢での力が時代と共に確実に弱くなっており、「密室」での圧力が聞かなくなっていることが最大の要因なのだろう。しかし、同時に、後任政権を批判するのはこれが初めてではなく、彼の行動様式の中に、こうした「ポピュリズム」要素が入っていることもあるのであろう。そしてそうした公開の批判がそれなりに許容されていることは、ある意味マレーシアの政治土壌が、それなりに寛容性を高めてきているということにもなるのであろうが・・。マハティールの「カリスマ力」が、依然生きているかどうかを確認するには、今回の論争をもう少し長く眺めていく必要があるだろう。

 最後に再びドイツに話しを戻し、「ドイツ問題」につき頭を整理しておこう。言うまでもなく「ドイツ問題」とは、地理的にドイツが欧州大陸の中央に位置しているが故に発生する地政学的問題である。特に陸続きで、フランス、オーストリア、ロシアという早くから統一された大帝国に接していたことから、まず神聖ローマ時代にあってはドイツ地域の分裂した領邦国家が、常にこの大国の影響に晒される状況であった。そうした中から、「大ドイツ主義」と「小ドイツ主義」という2つのドイツ統一論が登場するが、他方で周辺帝国からすると、欧州大陸中央部に強力な統一国家が誕生することは、それ自体が脅威であった。まさにビスマルクが生きた時代というのは、対内的には個々の領邦国家の歴史的アイデンティティとドイツ・ナショナリズムの間で、そして対外的には統一ドイツ国家とその成立を懸念する周辺国の間で常に大きな緊張が発生していた時代であった。そうした状況下で、主としてプロイセンという一領邦国家の北ドイツにおける覇権を目指したビスマルクの政策がドイツ・ナショナリズムを刺激することになり、結局は「小ドイツ主義」に基づく統一までいっきに突っ走ってしまった。しかし、そのスピードが急であったために、結局周辺部との緊張が持続し、取り敢えずはビスマルクが彼の「術(クンスト)」による同盟政策で、綱渡り的に均衡を維持していたものの、彼が引退したとたんに破綻し、その後の20世紀の二つの大戦に連なっていったのである。まさに、ビスマルクは、それなりに統一ドイツが周辺国に対してもたらす衝撃を理解した対応を採ったのに対し、彼の後任者にとっては、その問題は荷が重すぎた、ということになる。

 このドイツ問題は、結局第二次大戦後の冷戦の中で、ドイツが東西に分割される中で一時的に凍結され、そして1989年の壁の崩壊と共に不死鳥のように蘇る。しかし2回の大戦を経て、欧州の政治家たちも賢くなった。第二次大戦以降の欧州統合の流れを阻止しないどことか、むしろそれをさらに推進する立場からドイツも周辺国(なかんずくフランス)も、新たなドイツ統一に向けて進むことになったのである。それ以降の歴史―ドイツ統一が直接欧州その他に与えた影響と、その後の欧州同盟が直面した様々な試練―は、もちろんいろいろなところで見てきたとおりである。この「ドイツ問題」が、ビスマルクの時代に起因していることが、この作品で明確に理解できる。地政学的なパズルを如何に解いていくか?しかし、ビスマルクは、著者が指摘しているとおり、「魔術師の弟子」であり、自らが作り出した魔術に自分も絡めとられてしまった。そしてビスマルク亡き後、直接の後任者たちはその魔術の虜となり、その魔術から抜け出すのは、2回の大戦の悲劇とそれ以降の欧州の分裂を経て、ほぼ一世紀の時間を過ごさざるを得なかったのである。

読了:2015年4月26日