アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第二章 政治
第四節 ナチス
アイヒマンと日本人
著者:山崎 雅弘 


 アーレントによる裁判評価を巡る各種議論に始まり、裁判絡みの映画も何本か見てきたナチス親衛隊将校について、その経歴から逮捕、裁判に至る歴史を改めて綴った著作である。著者は1967年生まれの在野の「戦史・紛争史」研究者ということで、出版は2023年8月と比較的新しい。

 アイヒマンのナチスでの役割、そして逃亡、逮捕、裁判の概略については、上記の各種媒体で何度も触れてきたので、大筋は知られた話がほとんどである。ただ、ここではその詳細が改めて記されているので、ここでは今まであまり認識していなかった事柄だけを残しておこう。

 アイヒマンの経歴は、1906年生まれ。ドイツ南部のゾーリンゲン生まれで、父親の仕事の関係からオーストリアで育った後、普通の就職をするが、26歳の1932年、友人の勧めでナチ党に登録し親衛隊に入隊した。それからは、シオニズムの創始者、ヘルツェルの「ユダヤ人国家」を精読、その要約を報告するなど、ユダヤ人問題の専門家として第一歩を踏み出し、当初はユダヤ人国家を認め、そこにユダヤ人を移送するといった「住み分け」実現を検討し、ユダヤ関係団体とも接触。1937年には、上司である親衛隊保安局長であるハイドリヒの命を受け、エルサレムには入れなかったようであるが、パレスチナ視察の出張なども行ったとされる。そして彼は併合したオーストリアに移り、ウィ―ンでオーストリアのユダヤ人の財産を没収し、パレスチナに追放する実績を上げたようである。しかし、パレスチナではすでにユダヤ人とアラブ人の紛争が拡大するなどしており、アイヒマンはその後プラハで同じ業務を担当するが、新たに大量のユダヤ人を送ることは困難になっており、そして第二次大戦が始まり、状況が一変するのである。

 ドイツとソ連により分割されたポーランドには330万人を越えるユダヤ人がいたことから、既にベルリンに移っていたアイヒマンのみならず、ナチスにとっては、彼らの移送はほとんど不可能な課題であった。一時は良く知られている「マダガスカル移送」も検討されたが、結局物理的に抹殺するしか選択肢がなくなったことからユダヤ人虐殺が加速し、それ以降はソ連侵攻もあり、効率的にこの虐殺を行うかに課題が集約されていくのである。アイヒマンは、そのための絶滅収容所への鉄道移送を如何に効率的に行うかを、日常業務として淡々とこなしていくことになるのである。ユダヤ人大量虐殺を正式に決定したヴァンゼー会議では、アイヒマンは議事録の作成といった職務で参加したこともあり、こうした虐殺の実態を知っていたことは間違いない。

 以降、絶滅収容所での大量虐殺とそこでの「鉄道輸送担当」アイヒマンの占領地パリ出張を含めた働きが語られていくが、これは何度読んでも気色悪いので省略する。しかし、一つ知らなかったのは、やはりアイヒマンが訪れるハンガリーが、当時枢軸国側で大戦に参加していながら、ユダヤ人が相対的に保護されていたという事実である。ここでは実権を握っていた摂政ホルティが、ユダヤ人排斥に批判的で、ナチスが圧力を加えても、裏でのアメリカ政府の支援を受けたスウェ―デン外交官などが動き、アウシュヴィッツなどへの移送を最小限に抑えていたということである。そしてアイヒマン自身もそのため1944年3月からブダペストへ出張し、ユダヤ人移送を強要したりしていたが、その頃既に戦況はドイツに不利に傾いていた。そして12月、ソ連軍がブダペストに接近する中、アイヒマンは、そこの親衛隊らに、残ったユダヤ人の射殺を命じた後、そこを脱出することになるのである。同じ頃、アウシュヴィッツでの虐殺は停止され、その施設の破壊・隠滅作業などが開始され、敗戦は時間の問題となっていた。そしてアイヒマンは、オーストリア北部のアウタルッセ(岩塩坑にナチス略奪美術品の多くが隠されていた町)で敗戦の報に接し、逃亡生活が始まることになる。

 著者は詳細にその過程を記載しているが、彼は偽名を使い、何度か拘束されるが、都度脱走に成功し、ドイツ国内で森林伐採などの仕事を行った後、1950年、親衛隊互助組織とカトリック教会の支援を受け、イタリア北部からアルゼンチンに密航することに成功する。家族はドイツに残した単独行で、家族は彼の死亡をオーストリア国内の裁判所に申し立て、一旦は死亡宣言が出されるが、親族の宣誓が根拠であったためにそれは撤回されたという。しかし、妻をはじめとする家族も、1952年には遅れて密かにドイツを出てアルゼンチンに向かい、そこで合流し、新たな家族生活が始まることになる。

 戦後の東西対立や中東でのイスラエル建国を巡る紛争激化により、戦後のナチ戦犯追及はやや停滞していたが、アルゼンチン在住のユダヤ人からドイツ・フランクフルトのユダヤ系検事総長、フリッツ・バウアーに届けられた一通の手紙を契機に、モサドによるアイヒマン拘束計画が進むことになる。この辺りは、以前に観た映画、「アイヒマンを追え!」(別掲)で詳述されているところである。そしてイスラエルで裁判にかけられたアイヒマンの供述やそれについてのアーレントの「悪の陳腐さ」評価、及びそれを巡る論争も良く知られている通りなので、ここでは繰り返さない。ただこの新書では、この裁判に数人の日本人が傍聴していたことを初めて知った。そのうちの一人は「週刊朝日」特派員の犬養道子、もう一人は「サンデー毎日」特派員の村松剛ということで、著者はこの二人の裁判報告を紹介している。ここでようやく「アイヒマンと日本人」というこの新書のタイトルの意味が分かることになる。

 夫々の報告は、基本アーレントの評価と大きく異なるものではなく、「組織内の人間の責任」や「裁判の法的根拠」などについてのコメントをしているものであるが、著者はこれを参考に、本の最後で改めて、この「組織内の人間の責任」について、日本人の日常生活に落として総括することになる。それは「非人道的な命令を受け、それを拒絶することで、自身にも大きな危害が加えられるときに、人はどうすべきか?」という問いである。もちろんそれは、その命令の「非人道性」と、それにより自身が受ける「危害」の相対評価で対応が決まるとしか言いようはなく、個人的には自分の人生で、そうした場面に追い込まれなかった幸福を噛みしめるだけである(公務員接待で、地検に呼び出され、本部判断でそれを認めたことくらいか)。ただこの本で紹介されていて面白かったのは、2003年、ドイツ連邦軍のIT専門家が、イラク戦争に関連するソフト開発を命じられたが、それを「違法な戦争」への協力として拒否し、「職務違反」処分を受けたことを巡る裁判の事例である。そこでは下級裁判所での有罪判決が、上級審で覆り、彼の行為を合法的行為とし、検察もそれを認めたという。こうして「現代のドイツ連邦軍では、国際法に違反する命令や非人道的な命令など(中略)には従わない権利が原則として認められている」とされる。かつて、ドイツ滞在時に一時通った語学学校の事務員が、兵役を拒否したことの代替としてそこでボランティア業務を行っていたが、そこには、こうした「アイヒマン」問題なども勘案したドイツ的理性が貫かれているということであろう。翻って、日本でそこまでの例がないのは、自身の経験と同様、単なる幸運であったのか、それともその問題が顕在化していないだけなのか?そのあたりも今後の日本やドイツの政策を見る上で、注視していくことになるのであろう。

 ということで、「日本人」というタイトルはほとんど意味のない著作であったが、アイヒマンについての若干の追加情報を得ると共に、彼の裁判で議論となった倫理判断基準について改めて確認することになったのであった。

読了:2025年11月3日