ナチ・ドイツと言語
著者:宮田 光雄
ナチ研究で知られる老境の政治学者が、本格的な研究の合間に蓄積したナチ時代の言語に関わる素材を、演説、映像、教育、そして小話や夢という観点でピックアップし、一般向けに読みやすく書き下したもので、既にいろいろなところで接してきた事実や切り口を改めて思い浮かべながら流し読むことができる。ナチ時代の断片ということで、気になったところのみ、若干書き留めておく。
ヒトラ−やゲッペルスという、演説の天才が、ナチの勢力拡大において最大の力になったことは疑いない。こうした演説、特にヒトラ−のそれが、ある種、宗教的恍惚感をもたらすものであったことは、よく言われている。ヒトラ−演説にある「宗教的メシアニズム」が、「キリスト教やユダヤ教などの啓示宗教の彼岸的約束をこの世において実現しようとする≪世俗内宗教」」としての効果をもたらしていたというのは、既に30年代からヒトラ−研究家が指摘していたことである。ナチ党の政策綱領自体が「政治的信仰告白」として主張され、そこでは≪血≫や≪人種≫以上に、≪指導者崇拝≫が中心概念として置かれていた。「指導者」を「信仰」し「服従」し、「犠牲」となること。これを形容詞の最上級を多用し、「数千年」の帝国というように、時間の次元をとめどもなく拡大し表現することにより、聞き手の感性を麻痺させ、現実に無感動にさせるような宗教効果をもたらしたのである。特に聖書や教会生活からとられたイメ−ジや宗教的表現が多く用いられたことも、こうしたナチズムの「擬似宗教的性格」を示している。「ヒトラ−の口調は、ほとんどキリスト教的な≪祝祭説教≫に近い。」そして彼自身が「神と摂理により自分に与えられた使命に対する信仰」を持っていたことが、「彼の全行動に対する内面的原動力になった」のである。
こうしたナチの「擬似宗教的性格」は、30年代のベルサイユ体制下では決定的な威力を持ったが、現代政治の中では政治家が露骨に出すことができない要素になっている。ナチのこうした経験を踏まえた我々は、むしろこうした宗教的思想の残滓が、それでも時折巧妙な形で、政治世界や、日常世界に入ってきていることを意識せざるを得ない。否、むしろ、組織論の観点から、時としてこのタブ−が要求される局面も多いのである。ヒトラ−は半世紀以上前の現象であるが、その精神は決して死んだとは言えないことだけを明記しておこう。
ナチが日常的世界の中に様々な政治的儀礼や象徴を持ち込んだことも指摘されるが、こうした政治的/宗教的祝祭の典型が、レニ・リ−フェンシュタ−ルにより製作された映像であったことは言うまでもない。著者は、彼女の代表作である1934年のニュ−ルンベルグ党大会の記録、「意志の勝利」を克明に追いかけることにより、党大会そのものの儀礼的性格と、それを更に増幅させた映像を跡付けている。著者は、この作品の特徴として「映像としての緊密な出来映えとともに、とくにヒトラ−の人格をあらゆる党活動の帰着点として、はっきり描いたこと」を指摘している。飛行機によるヒトラ−の到着、市内パレ−ドから党大会に移り、レ−ム粛清の余韻が残る時期の突撃隊の点呼、彼の演説、そして夜の松明行進等々、リ−フェンシュタ−ルの美学がヒトラ−個人の意図と完璧に結合した映像。戦後のリ−フェンシュタ−ルを巡る論争と、彼女個人の生き方とも重ね合わせると、個人的にも、この作品とベルリン・オリンピックを撮った「民族の祭典」は見る機会をつくらなくてはならないことを痛感する。
教育を巡る言語は、ワイマ−ル期からナチ時代に至る教科書歴史記述の変遷についての素描である。ワイマ−ル期に、従来の英雄崇拝とショ−ビニズムに溢れた歴史記述を、民衆中心の社会史としての記載に置き換えるリベラリズム的傾向も現れていたが、著者によると大勢としては、ビスマルクらを中心に歴史を記載する英雄史観の残滓は残ることになった。それは混乱の中での英雄待望感を醸成し、ナチに繋がる「指導者崇拝」の心理に繋がっていったとする。ナチによる歴史教科書の全面改訂は1939年まで行われなかったにしろ、それは帝政時代からワイマ−ルを経て生き残っていた英雄崇拝史観を、「個人崇拝」に昇華しただけのものだったというのが実状であろう。
他方、ナチ政権下で、リベラルな教育を続けた稀有の例として、ティ−フェンゼ−という街の「農村学校」教師ライヒヴァインの教育実践を紹介している。1944年のヒトラ−暗殺に連座して処刑されたこの社会民主党員は、≪民族≫≪共同体≫≪僚友関係≫といったヒトラ−的な概念で巧みにカムフラ−ジュしながらも、子供達の主体性を育てるリベラルな教育を続けた、というのが現代での評価であるという。
最後に取り上げられているのは、旧ソ連・東欧圏で多く語られた、民衆の隠れた毒としての政治小話と、ややフロイド的な独裁政権下での夢の記述である。前者では多くの政治的ジョ−クの例が紹介されているが、多くがソ連・東欧圏のそれと酷似しており、民衆の不満の捌け口としての言語が、全面的な思想統制が行われたナチ時代にも生き延びていたことが、そして後者ではナチに迫害された者、あるいは迫害される懸念を持っていた者の、それこそ「悪夢」の数々が紹介されている。例外的なものとしては、ヒトラ−の建築家として著名であり、戦後は当然責任を問われ服役したA.シュペ−アのヒトラ−の性格を無意識ながら的確に捉える、しかし自分の責任は回避している夢のケ−スと、ヒトラ−に対する「教会闘争」によりダッハウ収容所に監禁され、戦後は非核平和運動家として名を馳せたM.ニ−ゲラ−の贖罪意識に溢れた夢のケ−スである。後者は、著者によればニ−メラ−による「シュトゥッガルド罪責宣言」(教会のナチ責任を認めた1945年秋の告白教会宣言)は、40年後の「ヴァイツゼッカ−演説」に連なっていったと見なされるのである。
こうしたヒトラ−時代の分析は、多くの部分が既に論議尽くされ、発展されている。ヒトラ−時代の極端な傾向は、それ故に理解しやすく、また面白いのであるが、しかし、現代はこうしたプロトタイプが微妙に変容し現れてくる時代である。その意味で、プロトタイプを念頭に置きながらも、その現代的な変容を追いかけていくことが、ドイツ、欧州、そしてそこから日本や世界の次なる姿を模索する時に必要とされることをもう一度確認しておこう。
読了:2002年9月3日