ヒトラー暗殺計画と抵抗運動
著者:山下公子
強制的同一化を成し遂げたとはいってもヒトラーの支配が、決して一枚岩になっていなかったことは当然である。政治的に有効か、有効でないかは別として、1930年代以降、多くの反ヒトラー運動が存在した。そうした反ヒトラー運動を広く解釈し、一方の極に「7月20日事件」とよばれる有名なヒトラー暗殺未遂事件を、他方に配給切符の不正使用や外国放送の傍受、教練への不参加といった日常的な「規則違反」を置きつつ、その流れを整理した作品である。時代としてはヒトラーが政権を掌握した1933年から、1945年の終戦直前までを扱うが、もちろん初期の抵抗と、後期のナチ支配が強固になってからの抵抗とは当然質的に異なってくる。それを著者は時代毎、抵抗の主体毎に整理しながらまとめているが、ここではそれに従い、まず簡単にどのような「抵抗運動」が存在したかを整理しておこう。
まずナチによる共産党、社会民主党弾圧のきっかけとなった1933年の国会放火事件から始まる抵抗運動。著者は最初の抵抗者として、バーペンら保守主義者による抵抗を上げているが、これは危険を察したヒトラーによる1934年のレームら親衛隊及びシュライヒヤーら青年保守派幹部の粛清により抑圧される。これはどちらかというと、ヒトラーの傀儡化に失敗した従来の支配層による政治抗争という性格が強いが、著者は「抵抗」という言葉を「その出自における結果や、予測される体制に対する価値判断から自由なもの」として捉えると共産党や社会民主党からの抵抗に加え、伝統主義者からのそれも同じ意味合いを持つと主張している。
第二章で、著者は、この時期ヒトラーに対する大きな抵抗勢力となりえた国防軍の動向を分析する。本来、ブロイセン的伝統のもとで、政治から超然とした「困家の中の国家」的存在であった国防軍は、一方で正規軍化を主張する突撃隊に対する対抗策と、ベルサイユ条約による制限から逃れた再軍備への戦略としてヒトラーを支持するが、1934年、それまでの権威ヒンデンブルグの死去によりヒトラー個人への忠誠を誓った時に、既にヒトラーに取り込まれ、その抵抗主体としての独自性を喪失したのである。
社会勢力としてドイツ社会の中で確固たる地位を有するキリスト教会についても、ヒトラーの攻権掌握と共に、ドイツ・キリスト者という親ナチ勢力が浸透することになるが、まずは余りに国枠主義的、北方神話的な色彩に対する伝統的ブロテスタント勢カ側からの反対が「告白教会」として組織され、親ナチの「帝国教会」と並存することになる。
そうした中で、教会勢力にとって大きな失敗となったのは、カトリック勢力がロ一マ教皇庁とナチ攻権とのコンコルダートを進め1933年7月に調印したことである。「聖職者の政治活動禁止を受け入れる代わりに、ドイツ国内におけるカトリックの宗教活動の自由、司教教書配布の自由、学校での宗教教育の存続、カトリック系団体の存続の権利保障を手にいれた」ことであった。その後聖職者側からのナチ批判は常に「コンコルダート違反」というロジックで非難されることになったのである。そしてカトリック、プロテスタント双方共、その後、例えばナチによる優勢保護的観点からの安楽死の合法化推進といった問題に時として抵抗・反対の動きを示したものの、政治勢力としては力を削がれていくことになる。
こうしてナチによる同一化が進む中、それでも抵抗を諦めなかったいくつかの動きが語られる。まず共産党関係ではパリに亡命していた党員ミュンツェンベルグを中心に結成された人民戦線。しかしこの人民戦線の成果はアピールの発表や、スペイン内乱への義勇軍派遣に留まり、結局モスクワとの距離を巡る不協和音から消滅する。また大戦が開始されるとモスクワでは亡命者による「自由ドイツ」と「ドイツ将校連盟」が結成され、現実にはスターリンの手駒として使われるものの、人民戦線の思想を受け継ぐ運動となったという。また社会民主党系としては、戦後首相となるW.ブラントが属していたドイツ社会主義労働者党や共産党に近い左派による「新出発」、あるいはゲッチンゲンの哲学教授L.ネルソンに率いられた国際社会主義戦闘連盟等の政治党派が紹介されているが、ナチの同一化が進むと、これらのグループはほとんどが摘発され、内外での亡命状態を余儀なくさせられることになる。
1930年代末以降の国防軍を巡るナチ抵抗という観点で特筆されるのは、1938年、チェコ併合という野望が現実味を帯びる中、親ヒトラーのブロンベルグ将軍の街婚との結婚というスキャンダルを機会にベック将軍を中心に面策されたヒトラー不服従のストライキ計画やハルダー大将を中心とするクーデター計画であるが、最後は中心人物の弱気から中止されるに至ったという。そしてそれ以降も、前線視察に訪れたヒトラーを暗殺しようという試みもあったものの、全て失敗する。しかしこうしたヒトラー排除の軍部の流れは、その後のシュタウフェンベルグによる「7月20日」事件に連なっていく。またプロイセンの大将軍モルトケの末裔らによる「クライザウ・グルーブ」等も、結局秘密警察に潰されてしまうものの、軍部内での動きとして特筆される。
これらに加え、著者はナチにより摘発・処刑された幾つかの抵抗運動を紹介している。これらは、シュルツェ=ボイゼン及びハルナック夫妻を中心とする「赤い楽隊」や「白バラ」「スウィングス」「工一デルワイス海賊団」といった、全てナチにより摘発された時の呼称が戦後も使われ、最初のものは、モスクワと結託したスパイ事件として、また最後の2つは不良少年たちによる無意味な反逆とみなされてきたものである。しかし、著者は「赤い楽隊」はスパイ事件である前に反ナチ計画として、また最後の2つもヒトラーユーゲントによる青年支配への抵抗として位置付けられるべき、と主張しているように見える。
こうして最後に著者は「7月20日」事件の詳細を叙述していくが、これについてここでコメントすることはしない。戦争の最終局面でこの計画が成功し、ヒトラーが死んでいたとすれば、ドイツの焦土化がなかったかどうかも、歴史の仮定の議論に過ぎない。しかし、少なくともそこにこの時代を生きた人間の大きな決意と、また敵対者からの必要以上の報復があったことは確かである。こうした多くの運動が、戦後ドイツの中でどう位置付けられてきたかは、例えば「赤い楽隊」の評価のように、戦後の政治状況が反映することになったと言える。1980年代の歴史家論争と同様に、今後もそれぞれの時代に応じた評価が固まるのか、あるいは戦争体験の風化と共にこうした議論自体がはやらなくなるか。ユーロの時代を迎え、歴史を見る眼は引続き大きく開いておかねばならないことだけは確かである。
読了:2000年7月l0日