ナチズム極東戦略
著者:田嶋信雄
第二次世界大戦に至る1930年代、ナチ攻権のドイツと日本が、それぞれどのような国内的な権力状況にあり、そこからどのように状況を認識し、特に1936年の日独防共協定に至る相互の外交関係を築いていったかを跡付けた労作である。特に大きな変動の時代に多くの思惑が交錯する中、日独それぞれの権力主体の動きを分析する手法は、現在日常的にこうした事態に直面している自分自身の状況を分析する手段を提供してくれたように感じたのであった。
この日独関係の日本側の主人公は元駐独大便、大島浩。彼は駐独日本大使館武官から、日独防共協定の功績を評価され大使に昇格するが、敗戦後は戦犯として起訴される。しかし、彼のドイツ側の重要な接点であったリッペントロップらが死刑判決を下される中、辛うじて終身刑で逃れ、結局約7年の服役後出所し、89才で静かな人生を終えたのであった。そしてもう一人のドイツ側の重要人物元ドイツ情報部長カナーリス。R.ルクセンブルグやK.リ−ブクネヒト虐殺の協力者でもあるこの強烈な反共主義者は、1945年シュタウフェンベルグ大佐によるヒトラー暗殺末遂事件に連座し、かつては共産主義者に対する戦いで手を結んだはずのヒトラーにより残虐な方法で処刑される。更に日本駐在ドイツ大使館武宮のオットー大佐の信頼を獲得し、いち早く日独防共協定の情報を入手し、モスクワに打電したゾルゲも、諜報戦という観点では重要な参加者となる。そのゾルゲは治安維持法違反で、1944年11月に日本で処刑されるのである。
さて、こうした参加者により織りなされる大戦直前の日独関係はどうであったのか。まずドイツ側については、まずヒトラ−が、1936年までは、中国のみならず日本を含むアジア地域に対し何ら閲心を抱いていなかったということは周知の事実である。それに対しドイツ外務省は、まず1938年2月に外務大臣ノイラ−トが解任されリッベントロップが任命されるまでユンカ−貴族を中心とする伝統的保守派の牙城ではあったが、まだナチ化はしていなかった。そしてそこではナチと同様日本に対する利害関心は基本的には弱かったものの、第一次大戦時の日英同盟に基づく日本の連合国側での参戦を裏切りと認識する議論が主流であった(もちろん、駐日ドイツ大使ディルクセンのように「現場の行動様式」から親日路線を主張する者もいたとしても)。
同様にドイツ国防軍の中においても、日本に対する利害関心はほとんど存在せず、むしろナチの攻権掌握により維持が困難になった伝統的なソビエト・ロシアに代わって軍事パ−トナ−として注目されていたのは蒋介石に率いられた中国であった。特に軍事経済上の原材料供給元としての中国への期待は大きかったという。そして海軍には武器商人ハックのような親日派もいたものの、20年代ドイツには日本との関係を強化する勢力は育たなかった。
こうした中で、数少ない親日家、後の防諜部長カナーリスが、その強い反共意識から、反ソ防諜包囲網を構想し、その一環で日本との接近を次第に強めていく。そして1934年6月に駐独日本陸軍武官としてベルリンに赴任した大島浩は、満洲を基地とする対ソ諜報情報を挺子にカナーリスとの関係を強化していく。
30年代に入りナチが権力基盤を固めつつある時期においても、こうした複雑な権力構造は持続する。まずナチ党内においては、党の公認イデオロ−グたるA.ロ−ゼンベルグ率いる党外交政策局は、その人種イデオロギ−から極束戦略においても、親英、反ソ、反仏路線をとり、日英間の抗争には中立的態度で臨んでいた。他方、伝統的支配層との関係とワイン商人としての外交経験から急速にヒトラーに個人的に接近していたリッペントロップが、外務大臣ノイラートに直属する「軍縮問題全権代表」に就任し、ベルサイユ条約の軍事制限条項破棄に成功すると、外務省から独立した「リッペントロップ事務所」の設立が許可される。こうしてリッベントロップは、ノイラートら外務省と決定的に対立すると共に、ローゼンベルグとも反目し、その権力抗争の中でヒトラーの寵愛を確実なものにするための攻治的野心が向かったのが日独防共協定であった。
こうした状況下、まずリッペントロッブとハックが日本に接近。当初の動きは駐独日本大使らの慎重論で抑えられたものの、1935年以降ドイツ側はカナーリスの支持を受けて、大島が推進する日独協定案の具体化に向かっていく。著者によると「リッペントロップが日独協定をめぐるヒトラーの支持の調達をめざし、他方でカナーリスが同協定をめぐる国防軍内部の反対論の抑制・寛服をめざす」という分業関係ないし、「ナチスと伝統的支配層を横断する政府内政治連合」が成立し、駐日ドイツ大使館の慎重論(ここの駐日武官オットーよりゾルゲに情報が流れることになる)や外務省内部の反対派を押し切っていくことになる。但し、1935年末には、イタリアによるエチオピア占領に対する英仏の宥和政策である「ホーア・ラバル案」の評価や、ロシアによる日独協定のすっぱ抜き等により、ヒトラーはいったんこの日独協定を中座させることになった。
この停滞期を打ち破ったのは、部下のオットーが慎重姿勢を貫く中、それまで様子を見ていた駐日大使ディルクセンであったが、彼の変質が重要であったのは、それまで日独協定反対の姿勢で固まっていた外務省の内部分裂を促したことである。そしてリッペントロップ=カナーリス=ディルクセン連合対ブロムベルグ・ライヘナウ(国防軍)=ノイラート(外務省)=トラウトマン(中国大使)という権力闘争の構図の中、外務省の意向を無視した陸軍の中国軍備拡張政策(クライン協定)が明るみにでることにより、その反動として外務省内部に有カな「対日宥和」論−積極的日独了解論を生み出し、前者へ権力バランスが触れていくことになる。
それでも1936年に日独防共協定の案文がドイツ側から示された際に、推進派が主張する軍事協定まで踏み込めなかったことに、国防軍及び外務省の抵抗の跡が見て取れる。スペイン内乱を契機に「反共十字軍」の旗のもとに日本を取り込むべきとする親日派と、極東で中国を刺激すべきでないとする親中派の抗争は続いていた。しかし最終的にヒトラ−が、反ボルシェミズムの観点から英国の評価を下げ、日本のそれを上げたこともあり、1936年12月、軍事協定には踏み込めなかったとはいえ、ついに日独防共協定が締結されるに至るのである。著者は、この権力抗争が決着した一つの要因として、国防軍=外務省連合の中の分裂−極東不介入の外務省に対し、ライヘナウら国防軍の親中派が中国との軍事協定まで踏み込もうとしたために、親日派に接近し、ブロンベルグら国防軍穏健派から一定の理解を引き出すのに成功した、と述べているが、権力抗争はいつの世においても一枚岩の数の論理が勝利することを物語っている。
以降は、むしろ後日談という趣を呈する。日独協定という成果を受けたリッペントロップの権力拡大と、それを阻止しようとする外務省=ローゼンベルグ(党外交政策局)の接近。リッペントロップ側からのロ−ゼンベルグ抱き込み計画とその失敗。そして最後はローゼンベルグが祭り上げられる形で、実質的な政策決定における影響力を奪われていく過程等。他方大島のその後については、彼が防共協定の軍事協定への格上げ努力を進める姿が描かれる。大島自身が、日本陸軍の対中侵略政策に反対し、反ソ連合を志向していたこと、駐日武官のオット−もこうした前提で日本陸軍との協力推進に賛同したこと、しかしドイツ側に「戦略的意味を有する書式の日独軍事協定の調印は断固として拒否」される中、彼は執拗に交渉を繰り返していた。更に大島の動きは、ベルリン駐在海軍武官の小島を通じて、日独海軍の動きに影響を与えていく。日中戦争勃発によるドイツ側との膠着状態はあったものの、既にドイツ外務省はリッペントロップが握っていたこともあり、最終的に大島が大使に昇格する前日の1938年10月、この軍事協定(対ソ情報交換、対ソ謀略工作及び毎年の両軍の定期協議)が正式に調印されることになるのである。これに基づき、リュシコフ亡命時の両軍による審問や、ウクライナ反ソ運動への大島の関与、そして極めつけは日独共同のスタ−リン暗殺計画といった動きが語られているが、結局1939年の独ソ不可侵条約でこうした動きも収まり、両国との大戦に突入していくのである。
本書の面白さは、最初に書いたように、大戦前の日独関係を3人の核を中心に、政策を巡る権力抗争の力学として描いた点にある。もちろん、ヒトラー政権下にあっても、彼の傘下の各部門はそれぞれの思惑を有し、またヒトラー自身も態度を示さず決着を先送りするという課題も多かった。そして極東あるいは対日政策というのは、ヒトラーにとってはそうした先送り事項の一つにすぎなかったのである。大島=リッペントロップ=カナーリス連合は、そうした権力抗争の中で勝利し、条約を実現することとなったのである。
こうした権力抗争を、私が毎日巻き込まれている、レベルは違うとはいえ、構造的には同じ状況の主体として捉えるか、それともこの著者のように観察者として捉えるかで、この書物に対する感想は大きく変わってくるが、少なくとも,主体として見る場合も、状況分析の方法として参考にできるものであることは確かである。
読了:2000年8月4日