ヒムラ−とヒトラ− 氷のユ−トピア
著者:谷 喬夫
著者は歴史の専門家ではなく、むしろ政治学、政治思想史の専門家であるが、ドイツ・ミュンスタ−での研究経験もあることから、政治思想としてのナチズムを課題として採り上げた。その際に、もちろん「わが闘争」や「テーブル・トーク」に示されたヒトラ−の思想に加え、ゲッペルスと同様、終生彼に忠誠を尽くし、暴力装置として政権を支えたヒムラ−の思想を二重写しにすることによって、政治思想としてのナチズムの特徴を浮き彫りにしようと試みている。それは、アドルノ/ホルクハイマ−により明確に示された、「啓蒙の弁証法」即ち、合理主義の徹底が、とてつもない非合理主義を生み出す、というテ−ゼを、抽象論としての思想の中にではなく、具体的に実行された思想の中に見ていこうという作業である。
既に1944年に発表された「ビヒモス」において、F.ノイマンは、ナチズムの矛盾を「魔術的、非合理的なイデオロギ−と、労働や生産性が必然的に要請する合理性の矛盾」に見出していた。またZ.バウマンは、ナチズムによるユダヤ人やロマ、精神障害者らの大量虐殺を、「完璧な美的世界を作るために雑草を引き抜く庭園技師の仕事と同じ」と述べるが、それは著者の言うところの「氷のユ−トピア」−「凍てつく<北方>の大地に生きるア−リア人種の、男性的な<規律>のユ−トピアであり、且つ18世紀啓蒙的ヒュ−マニティの自由や解放といった果実をすべて凍結させるもの」−を作る試みであったと総括される。
ミュンヘン工科大学で農学を勉強したヒムラ−は、時代の雰囲気の中で軍服への憧れを捨てきれず、レ−ムの指揮する私兵組織に加わり、ミュンヘン一揆に参加する。そして1924年頃、仮出獄したヒトラ−と直接会った彼は、レ−ムの傘下にいながらも(そしてその後は党内左派のシュトラッサ−の下で働いたというが)、その後終生変わることのないヒトラ−への忠誠に目覚める。「生真面目」さと、その後示される「冷酷さ」と「オカルティズム」が奇妙に同居したヒムラ−の性格が、その後のナチの暴力装置を支えていくことになる。
1934年6月30日の「血の粛清」によるレ−ムの突撃隊(Sturmabteilung-SA)の解体により、そもそもはヒトラ−のボディーガードとして設立され,1931年にはハイドリッヒの指揮下で警察・諜報活動も担当していた親衛隊(Schutzstaffel)の権力が強化される。粛清の直前にヒムラ−はプロイセン内務大臣のゲ−リングからプロイセンの秘密警察(Geheime Staatpolizei-Gestapo)の指揮権を譲り受けていたのであるが、言わばこれはかつての上司であるレ−ム、シュトラッサ−をヒトラ−の指示により裏切ったことに対する功労褒章であった。こうしてヒムラ−の親衛隊は、形式的には帝国内務大臣フリックの傘下に置かれたが、実質的にはヒトラ−のみに従い、警察権及び突撃隊から引継いだ強制収容所の運営を行っていくことになる。
ヒムラ−とヒトラ−の関係を見ると、ヒトラ−は効率的な暴力装置としての親衛隊を必要とし、他方ヒムラ−は、猜疑心が強く自分の地位を脅かすものを容赦なく粛清するヒトラ−の信頼を維持するために腐心したと思われる。しかし、ヒムラ−からすれば、親衛隊は「単なるボディーガードや警察といった支配の道具、装置であるだけでは満足できなかった。」特に次第に残虐な任務が与えられるようになると、精神的にも、また組織的にも「暴力装置の技術的精神を超えた大義。モラル」を必要とするにいたったのである。ここにおいて、ヒムラ−のオカルト的素質が現れることになる。その思想は著者によれば、「人種理論による親衛隊のエリ−ト主義は、主として19世紀の白人優位思想や、社会ダ−ウイン主義、そしてメンデルの遺伝学を取り混ぜたものであるが、理想主義者ヒムラ−はそれだけでは満足せず、さらに怪しげな歴史神秘主義と騎士団思想によって、親衛隊の擬似ロマン主義化を試みた」と総括される。それはJ.フェストによれば「奇怪な空想家と暴力の専門技術者が、いかさま医者と歴史の異端審問官と結合した」イメ−ジとなる。言わば、ヒトラ−に与えられた任務を遂行するに当たって、使えるものは何から何まで使おうという、すさまじい執念とアイデア力である。騎士団理念の導入は、その後実行された東方侵略の正当化のためのものであったが、そのためにヒムラ−はウエストファ−レンにあるベベルスブルグ城を親衛隊という「騎士団」のシンボル的な場所に改築し、そこで定期的に神秘的な工夫をこらした儀式を開催したと言う。
こうして対ソ戦(バルバロッサ作戦)の開始と共に、ヒトラ−の東方ゲルマン大帝国の野望が実行に移され、ヒムラ−の親衛隊はその精鋭部隊として、特に軍事的に支配したポ−ランドを解体する試みの戦闘に立って虐殺や民族強制移住を含めた恐怖支配を行っていくのである。ヒムラ−は1939年10月「ドイツ民族性強化帝国全権委員(RKF)」に任命されるが、この役割は@に異民族の追放・強制移住(耕地整理−Flurbereinigung)とAにゲルマン化(民族改造−Umvolkung、再ドイツ化・民族帰還−Rueckvolkung)であったが、後者の政策においては、「民族ドイツ人の入植だけでは、1億人の東部ゲルマン帝国にはとうてい間に合わない」故に、異民族の中からゲルマン的な人間を選別しドイツ化するという気味の悪い政策まで検討したということである。
著者は、こうした一連の政策が「東部総合計画」と呼ばれ、ナチの政治構想の核心に置かれ、これが「ユダヤ人やポ−ランド人、ロシア人に対する、強制労働と絶滅、追放と奴隷化という野蛮な計画と不可分のものであった」としているが、これは言わば「単純化されたユ−トピア思想」であると言える。哲学や思想は、単純化すればする程、神話として宗教的説得力を持つ可能性が高いが、その過程で細部を切り捨てていく。その切り捨てられた細部にこそ真実が残る、という発想に立つとこうした思想の詐欺的性格が示されることになるが、その議論はひとまず横に置いておこう。いずれにしろヒムラ−はこの「東方ゲルマン・ユ−トピア」を中世騎士団のロマンと重ね、「農民と新貴族たる騎士団からなる<武装農村>」として構想した、というのも、今から見ればアナクロそのものであると言える。そしてさすがのヒトラ−も、ロ−ゼンベルグの「神話」に加え、ヒムラ−の神秘主義にも疑問を呈し、「ナチズムは『最も厳密で科学的な現実的理論』であり『祭祀的運動ではない』」と述べているが、これは拠って立つ位置の相対感からのコメントに過ぎない。しかし重要なのは、こうした神秘主義に、理性が取り込まれていった「オ−ム現象」であり、例えば社会ダ−ウイニズムに依拠するナチの人種理論に、怪しげな反ユダヤ主義者のみならず、生物や医学アカデミ−の権威ある教授たちが協力を惜しまなかった、という点である。こうした「科学的」外見をまとうことにより、障害者たちの「安楽死」から強制収容所での効率的な大量処刑という、ほとんど加害者としても耐えられないような蛮行を正当化していったが、そうした過程を個人的に最も象徴的に体現したのがヒムラ−であったと考えられるのである。そのヒムラ−は最後の瞬間にヒトラ−から和平工作を理由に解任されるが、実質的にはヒトラ−と最後まで行動を共にし、ヒトラ−死後、逃亡に失敗し英軍医に拘束されたまま、口内に隠した毒が見つかりそうになったところで、それを飲んで自殺することになる。44歳であったという。
既に述べた通り、ヒトラ−はヒムラ−の神秘主義を批判しながらも、ヒムラ−を最後まで重用し、またヒムラ−もそれに答え、神秘化を含め使える駒は何でも使用しながら、ナチの暴力体制を構築した。ゲッペルスによる宣伝工作も含め、ナチ体制が如何に豊富なアイデアに満ちていたか、そしてそうしたアイデアを持つ変人達を統合したヒトラ−の異常さはいまさら言うまでもないことではある。非合理主義が、最新の合理主義を徹底的に収奪した「啓蒙の弁証法」の世界は、この東方ゲルマン・ユ−トピアで終わったわけではなく、日常の場面でも、時折頭をもたげる事がある。神々が宿る「細部」を常に確認していくことにしか、こうした「近代・現代の神話」の呪縛を逃れるすべはないのだろう。
読了:2001年4月27日