ロ−マ教皇とナチス
著者:大澤 武男
ハワイでの休暇中の気晴らし、その1。ドイツ日本人学校事務長がまた新しい素材を見つけて一冊の新書にまとめた。こうした営為は、自分でも決して難しいものではないこともあり、改めて羨望の念を感じつつ、ホノルルの海岸と夜のホテルで読み流した。
「ヒトラ−の教皇」まで言われ、第二次大戦の勃発直前の1939年に就任し1958年まで在位したロ−マ教皇ピウス13世は、戦後その姿勢を巡って多くの論争を喚起した。ユダヤ人迫害から虐殺に至るナチの蛮行につき十分な情報を得ていたにもかかわらず、また各方面からそれについて発言することを求められながら沈黙してしまったこの教皇の姿勢は何故だったのか。著者は、教皇の幼少からの経歴を辿りながら、この疑問を自分なりに解明しようとしている。
生粋のロ−マっ子であったエウジェニオ・パチェリは、1876年、代々教皇に仕えた保守的な上層階級に生まれ、幼少時から驚くべき記憶力を示したという(この記憶力を武器に、後年、教会法学と教皇庁が世俗の諸国家との間に結ぶ政教条約=コンコルダ−トの研究、教会法大全の編纂への道を拓くことになる。)。市内名門中学・高校に通学すると共に、敬虔な信仰生活も深め、神学校に進学。但し持病を理由に、学校での厳しい修行生活は免れ、自宅通学という庇護の下で勉強し、23歳で司祭となる。既にこの「就職」の時から、親のコネで教皇庁、特別問題担当省というエリートコース路線が約束されていた。
このエウジェニオが生まれ育った時代のカトリシズムに「反ユダヤ」的傾向が強まっていたことは、後年の彼のナチに対する態度を考える上で重要であろう。時の教皇ピウス9世は、いったんはゲット−から解放されたユダヤ人を再びそこに戻したり、「洗礼を受けた」ユダヤ人の子供を家族から連れ去り、強引にキリスト教教育を受けさせるなどして社会の批判を浴びたこともあったという。また19世紀後半のレオ13世の下では、教会関係の出版物にユダヤ人の黒ミサの記事が掲載されたり、ユダヤ人批判のパンフレットが出されるなど、「ドレフュス事件」に象徴される社会全体の「反ユダヤ的傾向」に教会も便乗していた。
1903年教皇となったピウス10世も、反近代化主義を推し進め、教会を社会から孤立させることになるが、この教皇の下で、エウジェニオは、教会法大全の編纂という大プロジクトの実務担当者として20代から40代の時期を過ごすことになる。1917年、ピウス10世を次いだベネディクトゥス15世が、この大全を全世界に向け公布することになるが、この頃にはエウジェニオは教皇庁、全カトリック教会における教会法の第一人者になっていたのである。
法律の専門家であるエウジェニオは、世俗国家とのコンコルダ−ト交渉においても中心的な役割を果たしていく。それはヴァチカン外交の枢要を占める役割であり、特に第一次大戦が始まると、人道援助活動も含め、彼はほとんど休みを取ることなく働き続け、この超人的な働きが上層部の注目を引くところとなり、第一次大戦終了直前の1917年5月、大司教に昇格すると共に、大使としてドイツに派遣され、休戦交渉にも積極的に関与したという。しかし戦後ドイツの混乱の中で、左翼革命家が公館に乱入し、銃を突きつけられた経験もあり、エウジェニオの中の、反左翼=半ユダヤ意識は否応なく強まっていったとも言われている。そしてヒトラ−が活動を始めた1925年、ヴァチカンはドイツ大使館をベルリンに移すが、結局彼は1929年に教皇庁の国務長官としてロ−マに召喚されるまで、足掛け12年に亘りドイツ大使として活動することになる。その帰国時期は、ちょうど、ロ−マで、教皇庁がそれまでのイタリア国家との断交状態に終止符を打つラテラノ条約をムソリ−ニと締結した時期でもあった。
こうして混乱と戦争の15年が始まる。ドイツでヒトラ−とナチが台頭する中、教皇ピウス11世やエウジェニオは、「ヒトラ−内閣成立直後におけるナチ政府の宣言が(表面的にではあるが)、キリスト教信仰の宣伝をしていることを高く評価し、ヒトラ−こそ、教皇庁が最も恐れ、憂慮している共産主義に徹底抗戦することを公言した、最初にして唯一の国家元首であると評価した。」まさにこうした「反共姿勢」とドイツに対する個人的思い入れこそが、既にナチによる教会弾圧が明らかになってきた状況下、1933年7月にドイツとの政教条約=コンコルダ−トを締結し、またその後教皇となったエウジェニオが、ナチのより大きな犯罪性が示された時にも、それから目を背け、現場の信徒や連合軍首脳からの度々の懇請にもかかわらず沈黙を貫き通したことの最大の理由であったと考えられるのである(ナチとのコンコルダ−トについては、批准直前にナチによる悪用を巡りエウジェニオが非難声明を出す局面もあったというが、結局批准は予定通り行われ、その後エウジェニオは心労で体調を崩しスイスに引きこもってしまったという。)。
1939年3月、エウジェニオは順当な人事として教皇に就任し、教皇ピウス12世が誕生する。前任ピウス11世が、ヒトラ−批判の声を上げ始めていたのと対照的に、新教皇は、直ちにドイツ大使と接見し、自らのドイツへの思い入れを込めたヒトラ−への親愛の情を伝えることを要請するが、著者は、その登位挨拶状は他の儀礼的なものとは明らかに異なっていたとしている。そしてその後、ヒトラ−の侵略が進む過程で、エウジェニオはひたすら「教会を守るためにヒトラ−との良好な関係を維持する」という主観的な思い込みによる「宥和主義」に徹し、「世俗勢力の一方に荷担することを避け」続けたが、その結果、ポ−ランドのみならず、ドイツ国内のキリスト教徒さえも見殺しにしたのである。
著者は、教皇となったエウジェニオに対し、戦争中もドイツを中心とした信徒や各国首脳から、ナチ批判を行うよう要請された事例の数々を紹介しているが、詳細は割愛する。しかし、エウジェニオの反共意識は、独ソ不可侵協定で脅かされていたが故に、「バルバロッサ作戦」の開始は、再び「反共の砦」としての彼のヒトラ−への期待を回復させることになる。こうした共産主義に対する嫌悪が、彼を含め、この時代の政治家や教会関係者の情勢判断を誤らせることになったのは確かである。そしてそれは結果的にユダヤ人大量虐殺を含めた多くの犯罪に荷担する結果をもたらすことになったのである。
今回新たに知った事実としては、1943年9月、崩壊したムソリ−ニ政権に替わってナチがロ−マを占領し、親衛隊の指導の下、ロ−マのユダヤ人の強制収容所移送が実施されたことが挙げられる。その報に接したエウジェニオは、ナチを表向きは非難することができず、ひたすら神に祈ることしかしなかったという。但し同時に裏では教会に逃げ込んでくるユダヤ人を内密で保護したという話もあり、この辺、著者は、政治的な立場と個人的感情の相克に悩むエウジェニオにやや同情する議論を展開している。
こうして戦後、ピウス12世の「沈黙」を巡る論争が行われることになる。特に1963年からベルリンで上演されたドイツの劇作家R.ホーホフートによる「神の代理人」という作品は、ナチに対するこのエウジェニオの責任を正面から論じ、議論を呼んだという。ピウス12世自身は、1958年に亡くなるまで、在任中は何らユダヤ人に対する謝罪や遺憾表明をすることはなく、それは後任のヨハネス23世により行われることになる。教会としての権威の維持という観点からすれば、ピウス12世の沈黙はやむを得ない面もあり、またナチに対する中途半端な対応を批判されなければならないのは何も彼に限られる訳ではない。その意味で、むしろこの物語は、独裁と戦争の20世紀の中で翻弄された教会という組織と、そのトップに君臨した個人の悲劇として理解すべきであろう。60年代に始まったこの議論が、現在どのような位置付けとなっているかについては、著者は最終的な結論を回避しているが、少なくとも個人的には、このエリ−ト教皇の姿勢は、近代の教会史の中で消しがたい汚点を残していると考えざるを得ない。エウジェニオの政治判断が、如何に苦しいものであったかは、それなりに想像できるとは言え、中世の暗黒の教会史を含め、こうした過去を総括して初めて、世界的権威を持つカトリック教会も、現代においてそれなりの道徳的権威を回復することができる、と考えるのは、私だけではあるまい。
読了:2004年3月12日