アジア・ドイツ読書日誌と
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ドイツ読書日記
第二章 政治
第四節 ナチス
私はヒトラーの秘書だった
著者:トラウデル・ユンゲ 
 ヨヒアム・フェストの話題作で、映画も好評である「ヒトラ−最期の12日間」を求めて訪れた本屋で、本来の作品がなかったこともあり、偶然見つけたこの本を先に読むことになった。ミュンヘンでの退屈な生活から抜け出したいと考えていた21歳の娘が、1942年11月、ダンサーをしていた妹の知り合いであるナチス幹部の紹介で、総統官邸の秘書に応募し、たまたま何人かの候補の中から採用されたことから約3年強に及ぶヒトラー秘書としての生活を送ることになる。東プロイセンの森の中に設営された「狼の巣(Wolfschanze)」と呼ばれた大本営から、ミュンヘンの「ベルグホーフ」、再度の「狼の巣」を経て、最期はベルリンの地下壕でヒトラー最期の日々を共にする中で、身近に見た、怪物でも何でもないただの人間ヒトラーを回想している。そもそもの回想は終戦直後の1947−8年にかけて書き留められ、最終的には、2002年、死の直前、彼女のインタビュー映画「死角(Im toten Winkel)」に合わせ、アンネ・フランクの伝記を書いたジャーナリストの序文を付されて発表され、ベストセラーになったという。

 第二次大戦後、ドイツの戦争責任が、特にユダヤ人虐殺を含めたその凄まじいまでの残虐性によりナチスとヒトラーに押付けられた結果、ナチスとヒトラーに係わる全ての記録は「負の記録」としての符号付けをされることになった。それは、むしろ終戦直後からのドイツの復興過程の中では、現実的には何らかの連続性(戦犯の復権)を必要としたが故に、中核的な戦争指導者とその思想への責任がより意識的に追及された結果であった。そうした状況で、確かに20歳を過ぎたばかりの娘による回想であったとしても、「ヒトラーの人間的側面」を語ることは大きなタブーであったことは間違いない。実際、彼女は、ヒトラーの最期を含め、戦後ソ連軍、米軍を含めた多くの戦犯追及者から尋問を受け、繰り返しヒトラーとの日々を供述させられたが、それは公共の視線に触れるものではありえなかった。更にヒトラーの取巻きの一人として、彼女自身の責任も追及される中で、様々な形で自己弁護をせざるを得ないと共に、日常生活では知りようもなかったナチスとヒトラーによる犯罪が次第に明らかになる中で、彼女自身の内面的苦悩も深めていったことは容易に想像できる。

 こうした彼女を巡る終戦直後の状況、そしてその後のドイツにおけるヒトラーとナチスを巡る政治・社会環境についての認識なくしてこの作品を読むと、多くの誤解を犯すことになるだろう。というのも、そもそもの回想では、まず彼女が有能な若い(そしておそらくは女として魅力的な)秘書であったため、ヒトラーが、彼女に対しては如何にも紳士的に、時には彼女を配下の男達から優しく守るだけの配慮もさえも持つ親切な上司として振舞っていた様子が一貫して描かれているからである。しかし、彼女がこれを書いていた時には、既にドイツは降伏し、彼女もヒトラー側近としての戦争責任を問われていたが故に、そうした非難の口実になるような記載は当然のことながら意識的に除かれていると考えるのが自然である。実際、彼女が折りに触れて回想しているベルリン総統官邸地下壕で、夕食後毎晩深夜まで行われていた取巻きだけ懇談では、多くの政策課題についての彼の独演会が行われていたにもかかわらず、彼女の回想の中では、ただ愛犬ブリッツの芸を喜ぶヒトラーの様子が繰り返し語られることになる。そしてそうしたごくありふれた人間としてのヒトラーについて、彼女は、「日常生活においてヒトラーは紳士であった。しかし、政治指導者として、どのような判断を下していたかは自分には知り様がなかった。」と繰り返し述べるのみである。もちろん彼女が、本当にそうした政策課題の意味合いを理解できない程度の人間であったのか、それとも責任回避の観点から意識的に「分からなかった」と主張しているだけであったのかは、最終的には判断のしようがない(法的には、彼女は責任なし、と判断されたのではあったが。)。

 いずれにしろ、次にこの作品も参考にしたヨヒアム・フェストの作品に進むことになる。それなりにドイツで評価を受けている歴史家・ジャ−ナリストが、この女性の回想を含め、「人間ヒトラー」を如何に処理していくかが興味あるところである。

読了:2005年7月31日