アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第四節 ナチス
ヒトラー最期の12日間 
著者:ヨヒアム・フェスト 
 さて、元秘書の回想を受けた歴史家による人間ヒトラ−の最期の描写である。著者のフェストは、80年代の歴史化論争の際は、FAZの共同発行人としてノルテの論考発表の場を提供すると共に、自らもどちらかというとノルテら「修正主義者」の側に立った議論を展開したということなので、ハーバーマスあたりからすれば、これは「人間ヒトラー」の復活を促すような作品と決め付けられそうであるが、実際読んでみると、ヒトラーの妄想を彼の個人的な性格に求める傾向はあるものの、全般的なヒトラー及びナチスに対する批判精神は十分に残っており、その意味では「歴史を反省していないという批判を避けながら人間ヒトラーを描く」という優等生的な作品になっている。

 12日間とは、ヒトラーがベルリンの地下要塞で56歳の誕生日を迎え、ナチ首脳(ゲーリング、ボルマン、ヒムラー、シュペーア、ライ、リッペントロップら)が勢揃いした最後の機会となった1945年4月20日から、30日のヒトラー自殺、翌5月1日のゲッペルスの後追い自殺までの日々である。「広く近代史を眺めわたしてみても、1945年のあの破滅と比較しうるほどの破局的事件は見あたらない」と著者が考えるあのヒトラーの破滅への意志は何だったのか。またヒトラーをして、一切の政治的妥協を廃止、政治家として国民を守るという責任を一切放棄して所謂「焦土化作戦」に邁進させたのは如何なる衝動であったのか。こうした今までのナチ研究で繰り返し問われてきた疑問に対する答えを、ヒトラー最期の日々の中に見つけられないか、というのがこの本の課題である。その結果、先の女性秘書の回想では、単なる人間的な紳士然とした指導者が、ここでは破滅への意志に憑かれた偏執狂(既に30年代に「われわれは破滅するかもしれぬ。だがその時は一つの世界を道連れにしてやる」と語っていた)として描かれることになる。

 ヒトラー最期の日々は、まずジューコフ率いる赤軍部隊によるベルリン防衛線、ベーロ高地への攻撃から始まる。ソ連側の多くの犠牲にもかかわらず、4月19日、ソ連軍はここを攻略し、最早ベルリンに至る大きな防衛線は消滅する。その期に及んでも尚、ベルリンの官邸にいるヒトラーは、占星術による奇跡を信じていた。ルーズベルト逝去の報告が、彼に1762年にフリードリヒ大王を救ったロシアの女帝逝去の話を想起させていた。首相に任命された直後からシュペーアが設計し、建設した官邸の地下要塞で、ヒトラーは既に犬と調教のことを口にするほかは、世界に対する呪詛を呟くだけの状態になっていた。身体の衰えを感じながらも、取り巻きに対する不信感もあり、指揮権は手放さず、来客時は突然生気を取り戻し、ありもしない軍隊や秘密兵器による逆襲について語った、という。現実から目を逸らし、使い古された神話的世界へと向かう「おなじみの逃げ道のひとつ」しか最早頼るものはなかったのである。

 導入部に続いて著者は、破滅に至るドイツの歩みの根源を探る議論を短く整理する。そこで検討されるのは、修正主義論争も踏まえた、「ナチとヒトラーは特別であったのか」という議論である。アウシュヴィッツを主たる論点として議論されたこの問題は、実は人間ヒトラーの評価においても同様の角度から見ることが出来る。即ち、例えば「ヒトラーはプロイセンとビスマルクの正統な後継者なのか」という問いである。また著者はヒトラーを産んだ「ドイツ特有の道」論争にも言及する。ベルサイユ後の社会状況の帰結としてのヒトラーの成功、そして人々は「せいぜいムソリーニ並みの権威主義政権」といった程度にしか認識しなかったという指摘。しかしその後悲劇への坂を転落した歴史への反省からもし「ドイツの特殊性」を検討するとすれば「その本質的要素のひとつはヒトラー自身であり、そのことは過小評価すべきではない」と著者は指摘する。「ヒトラーを支援した人々が予想だにしなかったことは、空想と『冷血』な計算が入りまじった彼のヴィジョンをヒトラー自身が一字一句そのまま実行に移そうと決意していたことである。」そしてヒトラーをいかなる先人と分けるのは「個人を超える責任感、冷静に私利私欲を抑える労働倫理、歴史的道徳観といったものの完璧な欠如」であった。こうした彼の個人的要素が、ドイツの悲劇の大きな要素であった。そして彼の最期の日々に、こうした彼の性格が最も露骨な形で現れることになる。

 こうして「最期の12日間」の人間ヒトラーの描写は4月20日、ヒトラー56歳の誕生日から始まる。主要な政治指導者が一堂に会した最期の機会となったこの日、ヒトラーは当初の憔悴しきった様子から人々を前にして次第に生気を取り戻していったという。その直前、バイエルンへの撤収とそこでの徹底抗戦を持ち出したヒトラーに対し、ゲッペルスが「死すべきところはベルリンの瓦礫の中であるべき」と迫り、ヒトラーもその覚悟を決めていたという。誕生日のパーティーが終了し、ヒトラ−が人々の脱出を許可すると、ゲーリングを筆頭に一大脱出劇が始まることになる。ゲッペルスは、劣勢の原因は軍部の裏切りにあると非難し、「我々が退場するときは、世界が震撼するだろう」と嘯く。ソ連軍がベルリン防衛線を突破した後も、ヒトラーは部隊を近郊にまで撤収させず「反撃の絶好の機会」と勝利の幻想の中に引き篭もり、現実を認識することがなかった。「この期に及んでなお堅持されていたのは意志と自己欺瞞的な希望だけであった。」

 しかしこうした欺瞞も22日には潰えることになる。期待されたシュタイナー将軍による反撃がいっさいなされず、赤軍がベルリンに迫りつつある、との報を受けた軍事会議で、ヒトラーは怒りを爆発させ呪詛の言葉を吐きまくり、そして消耗したという。「この戦争は負けだ。しかしベルリンを去るくらいなら頭に一発撃ち込む。」ゲッペルスが妻と6人の子供を地下壕に呼び寄せたのもこの後である。ヒムラーは、ヒトラーを見限り、自らル−ズベルトとの接触を模索し始めていく。

 著者は、首都ベルリンが断末魔の混乱に陥っていく様子を描写している。戦闘員は武器の調達を前線で倒れた兵士の所に取りに行くため素手で敵陣に突入し、ヒムラーは監獄に収容されている政治犯の殺戮を始める。そしてその崩壊現象はヒトラーの身近にまで押し寄せ、地下壕にも終末観が漂うようになる。著者は、それでも、「かくも多くのドイツ人が思考を停止し、いわば最終ラウンドが終った後でもなお、破滅した帝国の廃墟の上で戦い続けた」というのは「大きな謎」であった、と自問し、それに対し「出口なき状況への偏愛は、はるか以前から、ドイツ思想の少なくともある一部に特徴的な性格だった」と考える。ハイデガ−の「虚無への不安に耐える勇気」という言葉さえ持ち出されたという。またスターリングラードの敗戦後、ゲーリングが「火と血からなるニーベルンゲン・ハレ」伝説を引用して行った演説やゲッペルスの総力戦への演出は、「権力者が自分の国をそこまでして空想上の、あるいは実際に迫り来る奈落の縁に連れていこうとした例は、この国を措いてどこにもない。」そしてそうした破壊と絶滅の美学は、他でもないヒトラー自身の最大の特徴だったのである。

 そのヒトラーは戦線が厳しくなるにつれ、ボルシェヴィズムに対する戦いでの英国の態度や、ムソリーニとの同盟の失敗について呪詛を込めて語ることになる。4月23日、ゲーリングから、いざという時に権力の委譲を求める電報が届くとヒトラーは怒りを爆発させる(ゲーリングのライバルであったボルマンやゲッペルスがヒトラーの怒りを掻き立てることに成功する)。しかしその翌日は、リッター・フォン・グライムとハンナ・ライチュの乗った飛行機が戦乱の中ベルリンに着陸し、ヒトラ−を狂喜させる。しかし28日にはヒムラーによる単独講和の動きが伝えられ「棍棒で一撃されたような」ショックと怒りをもたらす。エファ・ブラウンの妹マルガレーテの夫であるフェーゲライン(ヒムラ−の伝令官)の逮捕と処刑が行われた時、恐らくヒトラーは覚悟を決める。戸籍係が呼び寄せられ、形式が整ったエファとの結婚手続きが執り行われる。常々「一人の人間との個人的なつながりを持つことは許されない」と言ってきたヒトラーは、心中を決意した際に、死の床が非合法になることを恐れたのであろう。そして結婚式後の祝宴で「死は一つの解放だ」と嘯きながら、自室に戻り、政治的遺言と私的遺言を作成した。

 29日、彼は愛犬ブロンディを毒殺するよう、飼育係に指示するが、これは明らかに自分のために青酸カリの効果を確認するためであったという。夕刻ムソリーニの死と、その後の無残な姿についての情報が届けられる。そして30日、側近たちにベルリン脱出を許可する最後の総統命令が下され、その後、自分の遺体が「永遠に発見されない」ために行われなければならないことにつき綿密な指示が下される。多数のガソリンタンクの調達を含めた準備が急遽行われることになる。熱烈なヒトラー崇拝者であったゲッペルス夫人マグダが、泣きながらヒトラーに、ベルリンを脱出するように懇請した様子や、最後のヒトラーとの別れの儀式の後、絶望的な状況を忘却するかのようなダンスパーティーが行われたことなど。そして、その銃声が聞こえたかどうかは議論があるものの、いずれにしろ青酸カリを飲んだ上で、喉から銃弾を撃ち込みヒトラーはエファと共に自殺する。側近たちは二人の遺体を地下要塞の外に運び出し、迫りつつあるソ連軍の砲弾が絶え間なく炸裂する中、用意したガソリンをかけて焼却する。こうして、どこで遺体が焼却され、またその灰がどうなったのかも謎に包まれているヒトラー最期の日々が終ったのである。

 既に1944年、ソ連軍が国境に接近した時点で、ヒトラーは国内における「焦土作戦」を指示しており、翌45年3月に「文明の砂漠」を作るという「ネロ命令」で、それを公然と表明したという。こうしたヒトラー個人の「破滅への意志」が、言わば国民に責任を負うことを微塵たりとも考えないナチの最期を演出した、というのが最期に総括される著者の見解である。彼の破壊衝動は、外に向けられただけではなく、ドイツ国民に対しても発動されたのである。

 実際、この前に読んだ、秘書ユングの回想が、全く政治と係わりない世界でのヒトラー像を描いているのに対し、こちらは、さすがに歴史家による作品であるだけに、政治家としてのヒトラー最期の日々を、その歴史的な意味を求めながら描いているだけに、深みは全く異なる。しかし、既にフランクフルト学派やその後の戦後ドイツ論に接したものからすれば、ナチ体制の成立と破滅を、単にヒトラー個人の破滅意志だけに求めるだけでは余りに不十分であることは自明である。ヒトラーとナチによる政権奪取と破滅への道を支えたのは、ドイツ国民一人一人の中に確かに存在した権威主義や伝統主義、そしてある種のルサンチマンがあったことは言うまでもないことであるからである。

 しかし、それにも係わらず、このヒトラーという余りにも特異な人物と、そうしたある種の「天才」の破滅の直前の個人的な姿を、このような政治的な文脈の中で理解するという試みは、それなりに面白い。個人としてのヒトラーを取り扱うことがドイツ戦後史の中でタブーとされてきたとすれば、こうした作品が話題になること自体が、ドイツの変貌を物語っている。それが「ドイツ戦後の風化」なのか、それとも「ナチ経験を消化した上での冷静な認識の始まり」であるのかはまだ分からない。少なくとも、欧州統合の中におけるドイツの位置付けについての議論を抜きにしては、この判断は出来ないのであろう。即ち、ドイツが欧州の共通の一員として機能して始めて、このフェストの議論は、歴史家論争でハーバーマスらが批判した「歴史の相対化」という批判を免れるのであろう。少し後に総選挙を控えたドイツであるが、この作品の含意についても、こうした今後の政治的文脈の中で眺めていく必要がありそうである。そして次は、この映像作品に接するチャンスを持たねばならない。

読了:2005年8月13日