アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第四節 ナチス
虚構のナチズム  
著者:池田 浩士 
 たいへん刺激的なナチズム分析である。ナチズム体制は、単に政治経済的現象であったのみならず、文学・映画・演劇その他マスメディアを含めた文化総体の同一化として、自己実現を目指したものであった。もちろん、独裁体制一般は、その権力維持のために、人間の内面を洗脳し、反抗的勢力を無力化し、支持者を再生産しようと試みる。その意味ではナチズムも例外であったわけではないが、古今東西の体制で、この文化革命を最も徹底して意識的に試み、そしてその体制のピークにおいて完膚なきまでに実現したという意味においては、この体制は歴史的には稀有な例であると言える。
もちろん、その後もスターリン支配下のソ連やその支配下に入った戦後の東欧諸国において、あるいは文化大革命下の中国においても、既存の「ブルジョア文化」の破壊と新たな社会主義文化の創造が試みられたが、やはりその体制の最も安定した時期においてさえナチズムほど成功したとは言えない。

 その最大の理由は、ナチズムが、特にゲッペルスに率いられた宣伝部隊が、ナショナリズムの高揚と経済成長という、一般大衆が最も身近に感じる精神的・物理的象徴を前面に出しながら、彼らの心理を巧みに掴み、操作するのに成功したからであった。特に、彼らが煽り立て、民衆のルサンチマンを高揚させた反ユダヤ主義も、当時のドイツにおけるユダヤ人人口が、どう見ても1%に満たなかったことを考えると、この主張自体、全くの虚構の上に繰り広げられたのであるが、それにもかかわらず大きな説得力を持った。そしてそうした虚構を熱狂し支持した大衆の心理は、まさにこの時代の文化的生産物の中にも明確に姿を現していた。ナチスが政権を掌握していく過程で、こうした文化的象徴が巧みに操作されていったのである。こうしたナチスの虚構が大衆の大きな支持を獲得したのは何故か?著者は、この問いを幾つかの文化現象の考察を通じて丹念に探っていくのである。

 まずその対象となるのは、初期ナチスにおいて時代を象徴する英雄に祭り上げられていった何人かの人物とその文化的取り扱いである。具体的には、まず第一次大戦後の1923年、ルール地方での反仏鉄道爆破事件で銃殺刑となった当時28歳のシュラーゲターと彼を戯曲の中で英雄に祭り上げたヨーストやメラー・ヴァン・デン・ブルック。そして初期ナチスのイデオローグD.エッカルトとA.ローゼンベルグ、そして有名なH.ヴェッセルとH.H.エーヴェルスによる彼の神話化である。

 1933年4月20日のヒトラー44歳の誕生日。この年の1月20日に彼が首相の座についてからはじめての誕生日であったこの日、H.ヨーストの戯曲「シュラーゲター」がベルリンの国立劇場で初演の幕を開けたという。ヒトラーの政権掌握後初めての誕生日を祝うこの演劇、及びヒトラーに捧げられその後ベストセラーとなるその脚本は、ナチ党による国民革命の意味を改めて問い直し、観衆の心に刻みつけるのに適した作品であると共に、ナチスによる文化革命の成功を象徴する出来事であった。

 1923年のシュラーゲターによる鉄道爆破事件と、その後の彼の処刑は、国民感情に残るベルサイユの怨恨を再燃させた事件であり、「革命の実践を超える衝撃と共感を国民の中に生み出した」。彼を国民的英雄に祭り上げることで、左翼からの革命を叩き潰すと共に、ナチスによる革命への強力な求心力をもたらしたのである。

 欧州最初の包括的なドフトエフスキー研究者であり、「第三帝国」という表現を広めた文壇の大御所ラー・ヴァン・デン・ブルックも、シュラーゲターを賞賛したひとりであるが、彼は共産党のラデックがアイロニーをこめて言及した「虚無に向かってさすらう」シュラーゲターの行為と人生を肯定することで、その後のシュラーゲターの神話的英雄化に貢献した。そして自分のドフトエフスキー研究の中で、マルクス主義の前衛論を批判し、むしろ知識人は大衆により指導されなければならず(「民衆を自分の鑑とする」)、その点でドフトエフスキーはマルクスを越えた、と論じ、主著「第三帝国」(この言葉を世に広めた作品)により大衆運動としてのナチズムを賞賛することになる。

 第二の英霊神話は、1923年11月の「ビヤホール一揆」で生まれる。当初茶番として語られたその一揆で警察の銃弾に倒れた16人に加え、その際逮捕され、拘置所に収監された後、健康を害して翌12月に心臓麻痺で死んだディートリヒ・エッカルトが、ナチズムの運動の中で特別の意味合いを付与されるに至るのである。それはヒトラーが「わが闘争」の最後で彼を賞賛したからだけではない。むしろこの「草創期のナチ党が擁した最年長の文化人」が神格化されるのは、あの「二十世紀の神話」で、ナチスのイデオローグとしての名声を確立するA.ローゼンベルグが、この詩人を「下等人間」たちに支配された時代の犠牲者としてデマゴギー的に賞賛する作品で大成功することによってであった。著者は、生活人としてはモルヒネ中毒でもあったこの性格破綻者の生涯と作品、そしてA.ローゼンベルグとの出会いと、第一次大戦後のレーテ共和国を初めとする社会主義運動に対する戦い(ナチスの日刊紙、フェルキッシャー・ベオバハターを買収し、ヒトラーに提供したのはエッカルトであったという)を語りながら、この詩人の反ユダヤ主義の叫びが、この時代の雰囲気そのものであったことを示そうとする。そしてこのエッカルトの叫び(ナチス初期の代表的な闘争歌に挿入された「ドイツよ、目覚めよ!」は彼の詩から採られた)を理論化していったのがローゼンベルグであった、と考えるのである。

 そして続いてナチスの神話となるのは、あの有名なホルスト・ヴェッセルとハンス・ハインツ・エーベルスである。
 1930年9月の総選挙でNSDAPは、社会民主党に次ぐ第二党に躍進する。この選挙結果を受け、ゲッペルスは自分の主催する雑誌に高らかに宣言する。「旗を高く挙げよ!Fahne hoch!」この一句は、その後SAによって歌われ、ナチズム運動の歌として広く知られるようになっていた歌の、冒頭の一節であった。
その制服の色から、反ナチの亡命者に「褐色のペスト」と呼ばれたSA(突撃隊Sturmabteilung)は、そもそもはバイエルンの共産主義革命を粉砕した、第一次大戦の残党により構成された「義勇軍」の集合体であったが、初期ナチスの武闘部隊としてレームの指導下で成長していく。そして、既に紹介されたシュラーゲターやエッカルトに加えて、彼らの闘争の中で神話化されたのがその一員であったホルスト・ヴェッセルであった。
 SAの隊員としてそれなりの活躍をしたヴェッセルは、彼が22歳の1930年、部屋に乱入してきた数名の男に射殺されたが、単なる情痴事件であった可能性もあるこの事件を、ゲッペルスは、共産党によるSAの将来有望な指導者に対するテロルであると大々的に宣伝する。そして彼が生前作詞作曲した「旗を高く挙げよ」を、ナチズム運動のあらゆる隊列で歌わせることになるのである。そしてヴェッセル神話は、間髪を入れず作家ハンス・ハインツ・エーベルスが「ホルスト・ヴェッセルーあるドイツ的運命」と題する著書で、ナチス「街頭闘争の英雄」としてきわめていきいきと描いたことによって更に強められることになる。著者は、このエーベルスの作品と活動(例えば、義勇軍の活躍を描いた「ドイツの夜の旗手たち」など)を追いかけながら、彼の表現が、同時期に「ドイツよ、目覚めよ」で左翼からナショナリズムを批判したエルンスト・オットヴァルトのそれを凌駕していった背景を分析している。象徴操作においてもドイツ左翼は、ナチズムの軍門に下ったと言えるのである。
 こうした初期ナチスの神話を自由自在に繰ったのはゲッペルスである。次に著者は、その三流詩人・文学者としてのゲッペルスの思想形成を、彼の日記と、唯一の公表された日記体の小説である「ミヒャエル」を並行して見ながら読み解いていく。そしてまさに現実のゲッペルスの体験(特に親友の炭鉱での事故死や銀行勤務を通じての反ユダヤ意識の醸成)と思索(マルクス主義との出会いと克服)が、それなりに象徴化された形で小説の中に反映されていることを示していく。そしてその小説で描かれた虚構が、「日記という形式によって現実へと肉薄し」そして、結果的に現実政治でのデマゴギーとして効果を発揮したと考えるのである。

 次に著者が取り上げるのは、直接ナチス運動に加担したわけではないにしろ、文化の基層でナチスを支えた官僚たちである。まず紹介されるのは文部科学相に相当するベルンハルト・ルスト。1936年、ハイデルベルグ大学で開催された国際会議での演説で、ナチスの文化行政の基本路線を世界に向け高らかに宣言したこの男の履歴を紹介しながら、この大臣のもとで官製の文化政策がどのように構築されていったかを跡付ける。特に、ナチスの文化政策において、「それまではマルクス主義的な文化運動だけが意識してきた「政治と文学」「政治と芸術」の問題を、文学・芸術の表現者たちを一挙に文化官僚に近いところに置くことによって、一挙に解決した」という指摘は面白い。
 また「退廃芸術展」(1937年ミュンヘン)に向けて展示作品の選定やその摘発・押収する仕事の総括者である、帝国造詣芸術院総裁のアードルフ・ツィーグラーも、陳腐な芸術家がナチス創世記に入党したことにより権力を持つことになった一例である。著者は、やはりこのナチス文化官僚の思想形成の後を追いながら、彼の反ユダヤ的な文化観と「実践的な理論」が、ある意味では時代の趨勢に沿っていたことを示そうとしている。また同様の役割を担った者として、教育学のアルフレート・ボイムラーやエルンスト・クリークらの実績も消化され批判されている。

 最後の章で取り上げられるのは、より広範囲の文化活動の中でナチスを支えた面々である。詳細は省略するが、二つの大戦の英雄として生き、1945年終戦末期に、ミュンヘン郊外のペンツベルクで発生した市当局への抵抗運動を圧殺した暗殺部隊である「人狼部隊」の隊員となり、その責任を問われ、戦後死刑を宣告されながら、共和国憲法制定による恩赦で減刑され、最後は釈放され1964年に死んだ文学者、ハンス・ツェーバーラインの作品や、第三帝国屈指の劇作家・詩人・評論家のクルト・エッガース、映像面で「結果的に」ナチスを支えたリーフェンシュタール、ヒトラーらの意向を受け、創世記のテレビ映像を担ったアルノルト・ブロンネンら、そして最後に、こうした特定の人間ではないが、「民衆の自発的文化表現」としてナチスに利用された「ティングプラッツ」の隆盛と、レーム事件を契機にした衰退の意味―ナチスの政権獲得による第二革命の挫折と突撃隊からヒムラーの親衛隊への警察権力移行―が分析されている。

 ここで分析されているのは、まさにナチズムを文化面で担った人々の、作品を通じての批判的分析であり、ナチスを支えた文化的基盤がどこにあったのかを探る試みである。一人ひとりの履歴と作品を丹念に追いかけながら、結局のところナチスの台頭が、ベルサイユの怨恨に加えて、ドイツ・ナショナリズムと右からの革命に対する人々の強い期待にあり、そうした雰囲気が神話とデマゴギーにより、如何に巧みに操作されていったかを辿ることができる。フランクフルト学派は、こうしたナチスの支持基盤となった民衆の感情を「権威主義的人間」と名付けたが、言わばこの作品は、この「権威主義的人間」を実際に支配した文化的環境がどのようなものであったかを我々に教えてくれるのである。

 現代においても、左右多くの文化人たちが、時代の雰囲気の中で多くの作品を日々産出している。その中で「ベストセラー」となるためには、時代の雰囲気に迎合する必要があるが、他方では新たな時代の雰囲気を作ることができるものもある。ワイマールの時代、ナチスはまさにこの時代の雰囲気に迎合する文化的産物を神話化することにより、政治化して利用し、次に更なる体制強化のために大々的なデマゴギーとして利用したのである。これはヒトラー・ゲッペルスに利用されたナチス文化人たちの思索と運命を辿りながら、現代の文化をもう一度考えるための素材である。一人一人を時代の中に位置付けていった著者の熱意と根気に敬意が下がる作品である。

読了:2007年2月3日