アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第四節 ナチス
ヒトラーをめぐる女たち 
著者:エーリヒ・シャーケ 
 英国スパイ列伝の次に読んだのは、ヒトラーをめぐる女列伝である。権力者と女は、歴史の常であり陳腐なテーマであるが、ヒトラーの場合は、若干異なっている。以前に読んだ秘書の回顧のとおり、あれほど狂気に満ちた政治支配を行い、権力のためには側近といえども流血の粛清を躊躇しなかった人間が、身近な女たちには極度なまでに臆病な紳士であった。自らの家庭を作ることについても、彼は常日頃「ドイツと結婚した」と公言し、まさに死の当日にようやくエファ・ブラウンと結婚するという状態であった。このヒトラーの「女癖の良さ」は何なのか。それとも、実際にはただ結婚という形式を嫌悪していただけで、実際には多くの愛人と好き放題の生活をしていたのか?そのあたりの下世話な関心から読み始めたのだが、どうもそうした下世話な関心は満たすことができなかった。著者は、詳しく紹介されてはいないが、ドイツのジャーナリストのようである。

 13人の女たちが取り上げられている。冒頭を飾るのは、最初の「女」である母クララ。最初の3人の子供を幼くして病気で失った後の4人目の子供であるアドルフに愛情を注ぎ、その後税関吏のアロイス・ヒトラーと再婚し、彼の連れ児二人と共にヒトラーを育て、1907年12月、47歳で病気のため死亡したクララは、ヒトラーの権力掌握と共に、「聖母」に祭り上げられ、彼女の誕生日は「ドイツの母の記念日」に制定された。また母を看取ったユダヤ人医師は、リンツのユダヤ人としては例外的にゲシュタポに保護され、米国に亡命できたという。
 この母親が、ヒトラーにどのような影響をもたらしたかは分からない(「取るに足らぬ女性であったが・・・。しかし母はドイツ国民に偉大な息子を贈ったのだ」)が、少なくともヒトラーが政治的に最大限に利用したことだけは間違いない。

 ヒトラーにとっての思春期の異性は、その辺にいる若者たちと全く変わりない。特権階級の女生徒に思慕の気持ちを抱き、友人にその悩みを打明ける。また23歳の頃にはエミーリエという内気な少女と恋人関係にあったようである。また第一次大戦の従軍期間に、「一等兵ヒトラーと性的関係があったという疑いをかけられた女性が少なくとも3人いた」というのも、何ら特別なことではない。特別なのは、ナチスの運動が拡大していく過程で、ヒトラーが、政治家としての個人的魅力で女性の支持者―そしてその内の何人かは崇拝者となるーを獲得していく第一次大戦後である。

 まずその初期にヒトラーの身近な生活の面倒を見たのは、ギムナジウム校長の未亡人で既に80歳を過ぎていたカローラ・ホフマン、及びミュンヘン上流階級の有閑マダムで、人種主義者の劇作家ディートリッヒ・エッカートが連れてきたパーティの招待客の一人であったヒトラーに惹かれパトロンとなったヘレーネ・ベルヒシュタインの二人で、特に後者はその後ヒトラーを多くの重要な企業家を含めた有力者に紹介したり、高価な美術品や装飾品を提供し財政的な援助も行ったという。またミュンヘンの富豪で出版業者の妻、エルザ・ブルックマンも自宅でのサロンにヒトラーを招待し、数々の援助を行ったという。更に企業家のみならず、貴族社会にもリリー・フォン・アーベク男爵夫人やゲルトルート・ヴォン・ザイドリッツといった信奉者がいたという。彼女らを含めた上流の有閑階級の婦人が、一兵卒上がりの貧相な男に何故ここまで魅せられたのか、というのは驚きであるが、少なくともヒトラーの「炎のような弁舌」が、時代の閉塞感の中で「ドイツの若いメシア」としての期待を抱かせたことは確かだったようである。そして重要なことは、これらの女性たちは、ヒトラーにとっては「女」としてではなく、あくまで権力への道具であり金づるとしてのみの価値しかなかったということであり、権力掌握後はとおり一辺の処遇を行った後は無視することになったという。

 女としてヒトラーの関心を喚起したのは、まずブレーメンの商家の娘で、美術出版社の息子と結婚していたハンフシュテングル婦人で、彼女は1923年11月、一揆に失敗し怪我を負って警察から逃げていたヒトラーを匿い、またそれが発覚し警察がハンフシュテングル家に来た際には、自殺を試みたヒトラーを止めたという。そして彼の出所後も家族的な面倒を見ていたというが、ある晩、夫が席を外した一瞬に、ヒトラーが彼女の前に跪き、自分は彼女の奴隷で、出会うのが遅すぎたと告白したというのである。しかし、ナチスの権力掌握後は、この関係も消滅する。
 それよりももっと持続したのはリヒャルト・ワーグナーの息子と結婚したイギリス生まれのヴィニフレート・ワーグナーとの関係であった。特に、戦後も彼女は、ヒトラーの思想と理念に感激したのみならず「純粋に人間的、個人的、親密な結びつき」があったことを認めた数少ない女性であった、と言う。
 孤児院育ちの、英国人とドイツ人の混血であるヴィニフレートが、厳格なコジマが支配するワーグナー家に近づき、ひとり息子と結婚するに至る経緯は、女としての成り上がり物語であるが、その後ヒトラーに心酔し、また1930年に義母コジマと夫のジークフリートが相次いで死ぬと、遺言により(ヒトラーとの)再婚はできなかったものの、バイロイト音楽祭を切り盛りする一方で、ワーグナー家の名前で公然とヒトラーを支援し、ある時は米国での資金集めに協力さえしたという(著者は、彼女の支援で、ヘンリー・フォードからの献金を受けた可能性を、1938年にフォードがナチスの勲章を授与された事実から示唆している)。戦後、ヴィニフレートは「犯罪者」として告発されるが、同時に強制収容所入りから救った人々もいたということで「軽度犯罪者」に変更され1980年死去した。祝祭音楽祭の指揮監督は、息子たちに引き継がれたという。

 以降、ヒトラーの周辺にいた女性たちの何人かが紹介されているが、詳細は省き、概略だけ素描しておく。ヒトラーの肖像写真家であったハインリヒ・ホフマンの娘で、ヒトラーの娘であるかのように育ち、ヒトラーが紹介したナチの貴族と結婚したが、後年ユダヤ人移送を巡りヒトラーと公然と口論をしたというヘンリエッテ・フォン・シーラッハ。犬の散歩で出会い、その後ヒトラーが思いを寄せたと言われるベルヒテスガーデンの一般市民の娘マリア・ライター。ヒトラーの姪であり、彼と共に贅沢な特権を享受し、ヒトラー自身が後に、「自分が結婚したいと望んだ唯一の女性であった」と語ったという、しかしヒトラーに自身の恋愛への横槍を入れられ、最後は彼との口論の末、拳銃自殺を遂げた(著者は、その理由を色々詮索しているが、それはエーファ・ブラウンへの嫉妬であったのではないか、と仄めかしている)アンゲリーカ(ゲリ)・ラウバル、「第三帝国の崩壊までその存在自体がごく限られた人々にしか知られていなかった」、「ごく普通の女性」であったエーファ・ブラウン、野心家で資産家との結婚を経てのしあがりながら、ユダヤ人のシオニズム運動家との不倫を経て反ユダヤ主義者ゲッペルスと再婚し、最後は熱狂的なヒトラー崇拝者として、自分のみならず6人の子供までヒトラーの道連れにしたマグダ・ゲッペルス、英国の小地主の娘で英国のファシズム党で活動した後、ヒトラーに魅せられ、強烈なアプローチの末ヒトラーに認知され、英国人ナチの宣伝塔としてメディアに持て囃された(しかしヒトラー側近たちは、常時彼女がスパイではないか、と疑っていたという)が、英国との開戦に絶望し自殺を試み、その後は1948年の死まで廃人状態であったユニティ・ミットフォード、今に至るまで評価が分かれるが、その映画監督としての才能と、2003年9月に101歳で死去するまで(この本では「97歳になった現在も」と記されている)、ヌバ族の写真集や水中撮影集を発表するなど、その創作への一途なエネルギーは否定しようもないレニ・リーフェンシュタール、そして依然に回想録を読んだT.ユンゲと共にヒトラーの最期まで「擬似家族の一員」として使えた秘書クリスタ・シュレーダー。
 
 クリスタ・シュレーダーが語っているように、「ヒトラーは磁石のように人を惹きつけるカリスマ性というたぐいまれな天賦の才の持ち主」であったことは確かである。この「カリスマ性」の磁石に、男のみならず多くの女たちも引き寄せられたのである。しかし、これらの多くの身近な女性に対し、ヒトラーは、例えばゲッペルスや、最近の日本の幾つかの新興宗教の教主が行ったように自分の権限を最大限に利用し「セクシャル・ハラスメント」の限りを尽くした訳ではなく、丁度T.ユンゲが書いているように、日常的には紳士的、そして場合によってはただのシャイな男として振舞っていたのも事実であるようだ。その意味で、これらの「ヒトラーを巡る女たち」の列伝は、あれほどの政治的犯罪とカタストロフをもたらした指導者が、実は女性関係においては非常にストイックな男であったという厄介な問題を提起している。ヒトラーは私生活においても野獣でなければならなかった。そうでなければ、あの政治的犯罪は決定的な画龍天晴を欠くことになってしまうからである。

 しかし、事実は事実であろう。この本の一般的な評価としては、「新しい資料を使い新しい事実を示している訳ではなく、既往の事実を面白くまとめただけの作品」ということであろうが、少なくとも従来のヒトラー像の修正を迫り、それによりヒトラーとナチの研究のある種の欠陥を指摘していると言えるのであろう。J.フェストの「ヒトラー最期の20日」のテーマにも重なるものであるが、政治的には狂信的な人間が、女性関係においては、それなりの自制心を持っていたという厄介な事実を踏まえ、我々はヒトラーとナチを見ていかねばならないのである。

読了:2007年8月19日