アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第四節 ナチス
ホロコースト 
著者:芝 健介 
 シンガポールへの出発前の日本で、新聞の書評を読みストックとして購入した新書である。カンボジア旅行記にも書いたのだが、熱帯のダレた気候の中で、こうした暗い作品を読むことには相当の違和感を抱かざるを得ない。もちろん、現在公開裁判が行われている70年代のポルポトによる虐殺や、そしてもう少し遡れば日本軍の占領下でのシンガポールを含めたアジア全域での恐怖支配という前例が、この地域でもある訳だが、規模やその虐殺の方法論において、ナチの行為はあまりにも「冷酷」であり、東南アジアの気候・風土からは乖離したものを感じる。まさにアウシュヴィッツを訪問していた時に読んだアウシュヴィッツ体験記は、その地の2月の「暗い」気候と共に何ら違和感なく心に入ってきたが、この地で読むホロコースト論は、あまりに熱帯アジアの気候とは雰囲気を異にしていた。そして、これでもか、これでもか、と続く虐殺の描写とその検証に、正直やや胸糞を悪くしながら読み終えたといった方が良い。ここに滞在している間は、この世界からはできれば遠ざかりたいな、と思いながら、しかし取敢えずは冷静にこの作品を眺めていこう。

 ホロコーストについては、もちろん戦後間もない時期から多くの作品や研究があり、その内の幾つかには私ももちろん目を通してきたが、この新書は、そうしたホロコースト研究を整理しながら、ホロコーストの実態を整理しようとしたものである。その意味で、ここではホロコーストの一般的描写に加え、戦後のホロコースト研究やそれを巡る論争の鳥瞰図を眺めることができる。

 著者はまず欧州における反ユダヤ主義の起源と近代に入ってからのその隆興を、ナチの「人種的反ユダヤ主義」の前史として整理しているが、これは復習であるので省略する。そして若きヒトラーの登場と、ローゼンベルグらの影響を受けた彼個人の反ユダヤ主義の過激化の過程も語られる。しかし本論は、1933年1月、彼が政権を掌握してから崩壊に至るまでの「ホロコースト」政策決定過程とその実態を解明することである。
 まず政権掌握後のナチ党は、「党是とする反ユダヤ主義をどのように具体的な政策に移し替えていくか苦慮していた」という。これは対応を間違えれば国際的な孤立をもたらしかねないデリケートな問題であったという。政権掌握直後に、全国規模でのユダヤ人医師・弁護士の一斉ボイコットが、新たに国民啓蒙・宣伝省大臣に就任したゲッペルスの指導で行われるが、これは不況を一層深刻化する恐れもあり1日で終わる。そしてむしろ、その後は「非アーリア人」の公職追放といったより目立たない反ユダヤ政策が進められていく。ニュールンベルグ人種法によるユダヤ人の規定は復習であるが、ナチ政権は、当初不況対策の一環として、パレスティナのユダヤ機関と「ドイツ・ユダヤ人のパレスティナへの出国・資産移転」と「ドイツ商品のパレスティナ輸出」とセットにした「ハーヴァラ(移転)協定」を結んでいた、というのは初めて知った事実である。しかし、ドイツ経済の好転と共に、この協定はなし崩し的に消滅したという。
 1939年9月のポーランド侵攻後、ユダヤ人問題は新しい局面を迎えることになる。民族的「耕地整理」(ユダヤ人、シンディ・ロマの排除・抹殺)が、勢力を拡大した親衛隊の司令下で進められる。他方で、各地に散らばっている「民族ドイツ人」の帰還と、彼らのための空きスペースを作るため、ドイツ国内のユダヤ人のポーランドへの追放が加速する。同時に、精神障害者や身体障害者の、一酸化炭素を使った大量殺害やそのためのチクロンBの実験が占領下ポーランドで始まったという。まさにこれが後のホロコーストにつながっていくのである。
 1940年のフランス占領により、マダガスカル計画という新たな移送案が浮上するが、この考えは、既に19世紀末の人種主義者ポール・ド・ラガルドが提唱していたもので、決して非現実的なものではなかったという。また実際シオニズム運動指導者のヘルツルが、ウガンダでのユダヤ人国家建設を真剣に検討したことさえあったという。しかし結局マダガスカル移送計画は、制海権を握っていた英国との講和に失敗したため実現せず、1942年の英国によるマダガスカル占領で完全に潰えたという。そしてこの結果、ナチはゲットー集住化を中心とした政策を本格化せざるを得なくなる。
 こうしてポーランドに多くのゲットーが作られ、そこに押し込められたユダヤ人は「飢餓と病魔による大量死」に直面することになると共に、ナチスはこれを資産収奪の手段とする。またこうしたゲットーには夫々ユダヤ人の指導者が指名され、彼らはナチスと住民の間に挟まれながら、別の意味での苦難を甘受させられることになるが、ここでの何人かの指導者(住民側に立ちナチに処刑された者もいれば、ナチの手先となり恐怖支配を行いながら、結局自らもアウシュヴィッツに送られ殺された者もいる)の姿はいろいろな意味で印象的である。
 しかしこの「ゲットー化」も極限状況が深刻になっていくと、ナチもそのまま放置できなくなっていく。そして1941年6月のソ連侵攻と共に、ユダヤ人政策も「隔離」から「絶滅」へと舵が切られていくのである。
 ナチのソ連侵攻が、当初より戦時法規を無視した絶滅戦争として計画されていたことが説明されている。そして実際に戦闘開始後、占領地でのソ連側軍人、共産党員やシンパに加え、ユダヤ人の大量殺害が実行されていく。これ以降は、各種の資料に基づいた殺害規模の報告が次から次に出てくるが、まさにここからが冒頭に書いた、胸糞の悪い殺害の生々しい叙述に移っていくのである。
 当初、この大量殺害は射殺により行われていたが、これが直接の執行者たちに心理的抵抗を引き起こしたという。実際ミンスクでの大量射殺を見たヒムラーやアイヒマンでさえ気分が悪くなったと伝えられている。そしてそれ故に、今度はガスを使った大量殺人につながっていくのである。
 独ソ戦が、ドイツの占領地域が順調に増えていくにつれ、この地域へのユダヤ人の追放が問題の解決策として模索され、ヒトラー自身も1941年9月、このユダヤ人東方移送を正式に承認する。しかし、その受け皿となるポーランドの収容所は略満杯で、経過的な措置としても受入れは不可能という声が上がる。またドイツ系ユダヤ人の東方移住は、共産党との結びつきを強める、という懸念も東方から伝えられる。こうして、東方のスペースも十分確保できず、ゲットーも許容の限界に達するという状況下、1941年12月、ヴィスワ川沿いのヘウムノに、「人間の殺害のみを目的とした絶滅収容所」が設立される。そしてこのヘウムノでは、ガス・トラックが使用されたが、続く「ラインハルト作戦」で、それがベウジェツ、ソビブル(この収容所での脱走事件は、後に「ユダヤ映画」として作品化される)、トレブリンカという3つの「恒久的な絶滅収容所」に発展していくのである。1942年1月、ベルリン近郊のヴァンゼーで、国家保安省長官ハイドリヒによって召集された会議で、この絶滅作戦が確認されることになる。
 以降は、まさに知られている悪名高い収容所での殺人の実態とそこでの被害者数の推計という「胸糞悪い」世界に入るので、詳細は省略する。しかし、著者は、最後にこうしたポグロムはどのような経緯を経て決定されたのか、という大きな問題について、冷戦終了後、旧東独やソ連から公開された資料に基づく研究も含め、過去からの多くの議論を整理している。
 ヒトラー自身の反ユダヤ主義について異論を唱える研究者はいないが、実際にこのポグロムの意思決定にヒトラーがどのように関わり、また事態をどこまで把握していたかについては議論が分かれているという。またヒトラーのみならず、ナチの政策決定者の中で、こうした絶滅政策が、どのように意思決定されたのか、という論点についても、所謂「意図派」と「機能派・構造派」という2つの議論が併存している。前者は、この絶滅政策は当初から意図されたものであった、と主張し、後者は戦争が進展する中で、他のユダヤ人移送計画が潰えた結果、なし崩し的にこの絶滅政策に突っ走っていたとする。この両者の間では、当然、この政策が決定された時期についても異なる議論が展開されることになる。
 著者は、この議論を、ある意味で「不毛の議論」としながらも、少なくともこのポグロムを、戦争の一部としてではなく、むしろそれ自体独立した問題として議論するようになってきている点を評価している。そして戦後、かつて存在した欧州の「構造的・文化的共通性」が希薄になる中、こうしたホロコーストの記憶が「新しい歴史的記憶の重要なモデルになり得る」のではないかと期待して、この作品を結んでいる。

 欧州におけるユダヤ人問題が、結局このホロコーストに行き着いたように、数千年の歴史背景を持つこの問題は、一朝一夕に解決策がもたらされるようなものではない。そして当然ながら、ホロコーストの裏側としての、現代のイスラエルによるパレスチナ人抑圧や米国でのイスラエル・ロビーの暗躍といった、新たな「反ユダヤ主義」の温床となるような現象も依然残っている。こうしてホロコースト自体が、同種の行為の正当理由になるようであれば、それは再び人々の意識の中に沈潜し、社会が危機に陥るや否や、不死鳥のように頭をもたげ、燃え盛ることになるのである。それ故に、平時におけるホロコースト研究は、より客観的であり、且つ未来志向的なものでなければならない。数年前、ベルリンにホロコースト記念碑が建立されたという話は、この本にも出てくるが、決してルサンチマンだけで捉えられることのない、将来を見据えたこうした冷静な記憶を沈潜させることが、ホロコーストから既に半世紀以上を経た我々が行っていかなければならないことなのであろう。しかし、明るい熱帯の陽射しを浴びながら、繰り返しになるが、この世界からはやはり当面遠ざかっていることにしようという思いを抱いたのだった。

読了:2009年4月8日