ヒトラーに抗した女たち
著者:マルタ・シャート
マレー半島の日本軍支配時代の虐殺を扱った作品と並行して読んでいたが、双方とも余りに人の命が簡単になくなることに何ともやりきれない思いを拭うことが出来なかった。しかし、日本軍の虐殺の記憶を辿るよりも、ナチスに意識的に抵抗して命を落とした人々の記録の方が、まだ気分的には楽である。しかも、その抵抗は、占領地での被支配民族による抵抗ではなく、むしろ自国の中からの異議申し立てであった。ナチスの強制的同一化が進んだ1930年代始めから戦争中の40年代にあっても、まだ自国内にナチに抵抗しようとする動きは残っていた。そしてそうした抵抗の記録を残す作業は、ドイツの戦後史の中で意識的に行われてきた。それは、ドイツが、戦後の欧州社会に受け入れられるために、周辺諸国との関係においてはナチスの過去を徹底的に反省する作業を行うと共に、自国内では、決して自分たちがナチス政権を手放しで支持していたのではない、ということを示すことにより、国民にある種の安堵感と自己満足を与えることになる。なし崩し的に戦争に突き進んでいった日本の軍事政権と異なり、ドイツはナチスという明確な戦争責任者が存在していた故に、このナチスに対する抵抗は、それがどのような意図で行われたにしろ、戦後の時代に大きな評価を与えられることになったのである。そして実際、この作品でも取り上げられている1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件などは、その悲惨な結末にも関わらず、現代に至るまで英雄的抵抗として記憶されることになる。
こうした反ナチスの抵抗の新しい記録として、2001年に発表されたのが本書である。そしてこの作品の特徴は、様々な形で抵抗運動に関わった女性たちを抜き出して描いていることである。それはヒトラーによる政権掌握前の時期から始まり、その崩壊までの間続くことになるが、描かれているのは貴族的立場の女性から、アメリカ人ジャーナリスト、そして共産党系の活動家まで様々である。そして先に述べた1944年7月の暗殺未遂も、その周辺にいた女性の運命を中心に説明される。そして最後に白バラのゾフィー・ショルで幕を閉じるのである。著者は、1939年ミュンヘン生まれのドイツ人。在野の歴史家、作家として「フッガー家の女たち」といった、歴史上の女性を描いた作品で定評があるという。これは結構大部の作品であり、また著者の関心の広さから、一つのテーマ、人物から、連想ゲーム的に他のテーマ、人物に移り、また再び元に戻ると言った読み辛さも内包している。その結果、内容は多岐にわたるので、ところによっては内容紹介は簡単に済ませることにする。
1920年代のミュンヘン。第一次大戦の喪失感がまだ残る中で、台頭しつつあるヒトラーに貴族の女たちも魅せられ、ある者は彼のパトロンになったりするが、既にこの頃からヒトラーに批判的な女性たちがいた。著者がまず取り上げるのは、有名なドイツ語学・文学研究者で弁護士でもあるロバート・ハルガルテン博士の妻であるコンスタンツェ・ハルガルテンである。平和主義者で女性参政権運動にも関与していたこのユダヤ系女性は、1921年に既にヒトラーの演説を聞き、その空疎な内容に呆れると共に、この男の持つ「特異な才能」の危険性も見抜いていたとされる。しかし、これは当時の左翼系知識人や平和主義者が一般的に抱いていた気持ちであろう。
1932年1月、ハルガルテンがミュンヘンで組織した「軍縮かそれとも世界の破滅か」と題した大規模な平和集会に対し、ナチスのメディアは非難の嵐を浴びせ、それに対しハルガルテンは名誉棄損訴訟を起こし勝訴したという。しかし、1933年のヒトラーによる政権掌握後は、社会民主党の活動禁止を含め、反対政党が壊滅していく過程で、こうした明確な政党色を持っていないような市民による女性運動も抑圧されていく。1933年3月、彼女は危険を感じ、フランスに亡命するが、直後にドイツにある全財産が差し押さえられる。平和活動を通じてトーマス・マン一家とも交流のあった彼女はスイスにも一時滞在したが、結果的にはパリに住みつき、1940年6月のドイツによるパリ占領後は、逮捕と強制収容所送りの危険に直面しながらも、幸運もあり、何とか生き延び、米国にいた息子の尽力で、1941年11月、米国に脱出することができたという。
初期のヒトラー批判者として次に紹介されるのは、アメリカ人ジャーナリストのドロシー・トンプソンである。ニューヨーク州生まれで、1920年代に米国新聞のウィーン特派員としてドイツ圏での活動を始めた彼女は、ドイツ語を直ちにマスターし、才色兼備のジャーナリストとして売れっ子になった。そしてヒトラーさえも、早い時点でこの米国人ジャーナリストとの会見を希望したほどであったという。
しかし、1931年11月、初めての会見が行われた際に、まず「わが闘争」を読み込んだこのジャーナリストは、これがとんでもない駄作であると見抜き、続けて行われた会見でも「一分もたたないうちに、驚くべき無意味さ」に気がついたという感想を持つことになる。彼女が用意した質問に対しては、内容のない一方的な長口舌が帰ってくるばかりであった。彼女は、この会見を雑誌記事にすると共に、「私はヒトラーに会った」という本にして出版するが、この本はもちろんヒトラー政権側を激怒させる。そして以降、彼女は、「この男が政権につくのか?」あるいは「その時この国はどうなるのか?」という問いを繰り返すことになったという。
ドロシーと交流のあった作曲家グスタフ・マーラー未亡人でピアニストのアルマ・マーラー=ヴェルフェルの話から、やや唐突であるが、このマーラーの姪でユダヤ人バイオリニストであるアルマ・マリア・ローゼの運命に話題が移る。1938年フランスで逮捕され、最終的にアウシュヴィッツへ送られた彼女は、「悪臭を放ってもうもうとたちのぼる火葬場の煙に中で」メンゲレやヒムラーのために、女囚からなる楽団での演奏を強要された。アルマは結局収容所でチフスに感染し死んだが、エステール・ベジャラノのように、この楽団のメンバーで生き延びた少女もいた。彼女は、戦後は歌手として平和運動に関わったという。
ドロシーは、1934年8月、ドイツからの退去命令を受け、その結果「彼女の名声は不動のものになった」(クラウス・マン)。ニューヨークに戻ったドロシーは、そこでドイツの「強制収容所と過酷なユダヤ人の運命についての報道」を行うと共に、米国でのナチス・シンパの運動に強烈に反対する活動を行ったという。水晶の夜のきっかけとなったユダヤ人青年グリュンシュパンによるドイツ外交官の暗殺事件を取り上げた彼女のラジオ・コラムの後は、「依頼したわけでもないのに、この青年の弁護に総額4万ドルの寄付があった」というほど、アメリカの世論に大きな影響力を発揮し、また日本との開戦後は、「ヒトラーのドイツを相手にした戦争を支援するのに、全精力をかたむけた」。一方、ゲッペルスの日記には、彼女に対する多くの罵詈雑言が記されることになる。ドロシーはまた米国へのドイツ人亡命者の支援にも尽力し、マン家の人々とは親交が続いた。
ヒトラーの自殺後、1945年6月、直ちにドイツに戻った彼女は、1944年の抵抗運動の記録(処刑された将校全員のリスト)を探す。残念ながら、その公式文書は完全に処分され見つからなかったが、その後この抵抗運動を称賛する報告を発表するなど、ドイツの抵抗の記録を残すことに貢献するのである。
ドイツ上流階級のヒトラー批判者の一人としてベラ・フロムが取り上げられている。大商人の父親の子供として裕福な生活が約束されていた彼女ではあったが、1930年代初頭、反ユダヤ主義が台頭してくると、新聞でコラムニストを務めていたユダヤ系の彼女の生活は一変することになる。
ベラが主催していた外国外交官のパーティには、次第にゲシュタポの監視が強まることになる。一方、ベラは、1933年3月、ヒトラーと、彼のミュンヘン社交界へのデビューとなるあるパーティで直接会うことになるが、この時彼女の手をとってキスの挨拶をしたこの男に皮肉に満ちたコメントをすると共に、このパーティに関し彼女が書いた記事が騒ぎを巻き起こした様子が描かれている。その後も、上流階級の集まりの中で、ヒトラーやゲッペルスとの接触の機会が何度も訪れるが、ベラの彼らへの嫌悪感は変わることが無かった。特に、彼女はシュライヒャー将軍(1932年、ワイマール共和国最後の首相となるが、僅か57日で辞任)とその若い妻エリザベートと親交があったことから、ヒトラーによる彼らの残虐な殺害(1934年6月。著者は、事件を目撃した家政婦や学校から帰宅してこの事件を知った14歳の娘ロニィの後日談を含め、この事件を詳細に記載している)には強い嫌悪を覚えたという。
外交団に保護されていたとは言え、ベラは1934年に就業禁止令を受け、先に米国に出国させていた娘の後を追い、「水晶の夜」の2か月前に米国に出国。そこで、先のヒトラーとの出会いの様子を含めた「ヒトラーが私の手にキスした時」というドイツ語版タイトルの回顧録を出版するなどして、ナチスに対する戦いを続けることになる。出国までは、外交団との関係を利用し、他の人々の出国も助けたという。
続いて戦時中の抵抗運動に関わった女性を取り上げるが、まずは、非政治的で穏健なヒトラー批判者であるにもかかわらず、この政権の犠牲者となった人々の話から始まる。
まずエルフリーデ・ショルツは、「民族裁判所で扱われた何千件のうちの一つである」が、彼女が「国外追放されてニューヨークへ亡命した作家エーリヒ・マリア・レマルクの妹であるという点で、特別なケース」であるという。
言うまでもなくレマルクは「西部戦線異状なし」の作者であるが、この作品は1930に米国で映画化されたが、ゲッペルスはそのドイツでの上映を阻止すると共に、1938年に、彼のドイツ国籍を剥奪した。その5歳年下の妹であるエルフリーデは、ドイツに留まっていたが、1943年、私生活の場で公然とヒトラーを批判していたために、その発言相手の密告により逮捕され、民族裁判所で「国防力破壊工作」の罪で死刑宣告を受ける。著者は、その過程を当時の裁判記録をもとに詳述しているが、多くの嘆願申請にもかかわらず、刑は執行される。ベルリン民族裁判所長官フライスラーは、判決を言い渡す前に彼女に向かって冷たく言い放ったという。「残念だが、あんたの兄さんは逃した。だがあんたを逃しはしない。」レマルクの妹と言う立場が、ナチスによる格好の報復対象とされた犠牲者である。
続くエリザベート・フォン・タデンも、穏健なプロテスタント系の教育者でありながら、反対者として告発され処刑された例である。ここで紹介されている彼女の学校経営者としての経歴からだけ見ると、なぜこの女性が処刑までされなければならなかったのかは必ずしも明らかではない。
現在のポーランド領の地主の家に生まれ、広大な土地を引き継いだタデンは、女子の教育事業に情熱を注ぎ、ハイデルベルグに学校を設立、運営していた(1939年、戦争勃発と共にトゥツィングに移転)。しかし、1941年5月、タデンは、敵側の人間と交友関係にあり、また学校は戦争に協力していない、という理由で免許を取り上げられる。交友のある「敵側の人間」と指摘された一人が、ワグナー家で、一人英国に移り、反ヒトラーの記事を寄稿していたフリーデリント・ワグナーであったが、彼女の関係者がタデンの学校と関係があったというのである。著者は、その他、タデンが非難された交友関係を細かく記載しているが、それほど決定的な反ナチス的な運動と関わっていた訳ではないように思える。むしろ学校を取り上げられたことにより、タデンはナチスに批判的なグループに接近していったように思える。しかし、グループに潜り込んだスパイに、スイスにいる同胞への手紙を託した事件もあり、1944年1月彼女は逮捕される。再びフライスラーがタデンとそのグループの判決を下し、彼女は9月に処刑される。戦後「寛容と人間の権利を断固として擁護し続けた」彼女が創った学校は復活し、1994年には、処刑50周年の追悼式典が行われるなど、「プロテスタントの田園教育舎の伝統を守り続けている」という。
このタデンと関係のあったのが、ゾルフ・サークルとして有名なハンナ・ゾルフである。1920年代の東京駐在ドイツ大使でもあった夫が1932年に退職した後、この夫妻のサロンにはその後抵抗グループに所属することになる多くの人々が集い、1936年に夫が逝去した後は、ハンナが「人間の尊厳、正義、平和を守るために、娘のラギと共に夫の活動を引き継ぐ決意をした」。ヒトラーの政権掌握時に上海に住んでいたラギは、そこでユダヤ人に対する援助活動を行っていたが、1938年にベルリンに帰ってからも、当局から度々尋問を受けながらも、その活動を続け、その周辺にはさらに実践的でナチスに批判的な人々が集まり、あるメンバーは、ユダヤ人老女を、ボーデン湖を泳いで渡りスイスに逃亡させることまでしたという。夫が日本とのパイプを持っていたために、ゲシュタポの監視にも関わらず、例えばベルリン大使の大島が、この母娘に肩入れし、それもあってか、ゾルフ・グループは摘発をしばらく免れることになる。しかし、ベルリンが空襲に晒されていた1944年1月に、ついにゲシュタポが彼女たちを連行する。そしてこの母娘を含む関係者は、強制収容所をたらい回しにされながら、拷問も含む厳しい尋問に晒されるが、重要な情報は一切白状しなかったという。ラギは収容所で多くの抵抗運動関係者の友人を得ることなり、著者は、その友人たちの説明にも時間を割いている。
1945年2月のベルリン空爆で、フライスラーが死亡する。その手にあったのが、ファビアン・フォン・シュラープレンドルフの書類だった(この結果、彼は命を救われた!)、という話は昔別のところで読んだが、フライスラーの死はこの母娘の運命も変えることになる。「ゾルフ・サークル」の友人70名が、終戦直前の混乱の中で処刑される中、この母娘は何とか生き残ることになったが、長い収容所生活の後遺症から、1954年、55年に相次いで逝去したという。
最後の章は、まさに確信に満ちた政治的な抵抗者の女性たちである。手短に名前だけ挙げると、リーゼロッテ(リーロ)・ヘルマン、ヒルデ・コッピ、リーナ・ハークらは、共産党員で、小さな子供を持つ母親と言う共通点を持っていた。1937年のリーロの処刑は、ドイツ国外で大きな憤慨の嵐を巻き起こした。ヒルデ・コップも「ローテ・カペレ・グループ(赤い楽団)」に属する確信的反対派であるが、彼女は逮捕された時に妊娠しており、刑務所で息子を出産するが、同じ活動を行っていた夫と共に処刑された。息子ハンスは、その後東独で学者となり、抵抗運動の歴史をまとめた本を出版したという。リーロと監獄での隣人であったリーナ・ハークは、この時代を生き延び、「初期に出版されたドイツ抵抗運動関係の記録」である著書「命の記録」を通じ、収容所の理不尽な実態と共に、リーロを含めた多くの人々の記録を伝えることになる。
ミルドレット・フィッシュ=ハルナックは、1942年に摘発された「ロート・カペレ」の活動家のアメリカ人の妻である。このグループは、妻を含めた家族が積極的に抵抗運動に参加したと言われているが、ミルドレッドの場合は、アメリカ人妻であったということもあり、特によく知られているという。米国留学中のドイツ人研究者と結婚し、1929年にドイツに渡ったこの「並はずれた美しさに恵まれた」女性は、そこで夫と共に研究を続け、ギーセンで博士号を取得する。しかし、情勢の変化と共に夫妻は反ヒトラー運動に関わっていくが、その際、ミルドレッドの米国大使館との関係が情報収集に大いに役立ったという。しかし、上記のロート・カペレの摘発で彼女も逮捕され、1943年、夫と共に処刑される。彼女は処刑直前に「そして私はドイツをとても愛していたわ」と語ったとのことである。
続いて紹介されるのは、今までの反ナチス運動とは少し毛色が異なる、ユダヤ人の夫を持つ、アーリア人妻たちの反対運動であり、東西ドイツで1980年代になってようやく認知されるようになった「暴力行使がないまま成功裡に終わった蜂起」である。
ナチスの言う「混血婚」の夫婦やその子供は、この時代多くの困難に晒されたが、1943年2月、ベルリンで始まった作戦では、ユダヤ人の夫と共に、「混血児」の子供が突然拉致され、収容所送りの列車に載せられたという。
夫や子供が家に帰ってこないことで、アーリア人の家族が彼らを探し求め、バラ通りにある収容所の前に150人を越える人々が集まり、家族の釈放を求めた平和的な抗議を行い、そこ結果逮捕者が釈放されたという。そして、その後、こうした「バラ通り」の混血婚のユダヤ人が再び逮捕されアウシュヴィッツへ送られながらも、再び釈放されたケースもあったという。戦後、この「バラ通り」の抗議運動を記念した彫像が東独で建てられることになる。
こうして女たちによる抵抗運動の歴史は、戦争終盤に入る。そこで取り上げられるのは、有名な1944年のシュタウフェンベルグ伯爵によるヒトラー暗殺未遂事件と、その背後で、クライザウ・サークルの抵抗運動の闘士としてこの暗殺事件に関わった唯一の女性で、ドイツのジャーナリストの中でも有名であったマリオン・デーンホフ伯爵令嬢である。既にフランクフルト大学在学中から「赤い」伯爵令嬢と呼ばれていたこの女性は、当初からヒトラーとその政党に対する確信に満ちた反対者であった。そして抵抗運動グループとして、「ヒトラー暗殺計画者を支える民間人のグループである」クライザウ・サークルに接近し、そこで、「ドイツにおける転覆計画が実行されたらイギリスとアメリカに伝える」という特別任務を負うことになる。そして何度もゲシュタポの尋問に晒されながらも彼女の正体は明らかにならず、そして戦後はロシア軍が自分の所領である東プロイセンに接近する中、そこから辛うじて逃れ、戦後も「ディ・ツァイト」の編集長、発行人として、ドイツ・ジャーナリズムに君臨したという。
彼女に加え、著者は、まさにこの有名な7月20日事件の首謀者たちの妻たちの運命にも触れている。この事件後彼女たちは、この計画に全く関与していなかったにも関わらず逮捕され、強制収容所や刑務所へ送られたが、そうした何人かの妻たちの内、シュタウフェンブルグの妻ニーナやモルトケの妻フライヤは戦後まで生き延び、処刑された夫たちや自分たちの運命につき多くの証言を行うことになる。
そして最終章は、「白バラ」のゾフィー・ショルと彼女を中心とした学生による抵抗運動の記録である。
これについては、既に多くの作品を読み、この書評でも取り上げているので詳細は省略する。ゾフィーの生い立ちから思想形成、交友関係と恋愛、そして「白バラ」活動と逮捕、裁判、処刑に至るまでの挿話に、それ程新しい情報はない。しかし、彼女たちの処刑から60年目の2003年の記念日に、レーゲンスブルグ近郊にあるヴァルハラ宮殿の著名人の胸像の中に、ゾフィーの彫像も加えられることになったことで、彼女とこの抵抗運動の記憶は改めて人々の記憶の中に刻まれることになったという。
冒頭に述べたとおり、ドイツはヒトラーというカリスマに率いられたナチスという明確な戦争責任者が存在したために、戦争責任をこの一派に押付け、戦後は徹底的な非ナチス化を行うと共に、多くは悲惨な結末を遂げたとはいえ、自国内でこの戦争犯罪人に果敢に抵抗した人々がいたことを記録に残すことにより、国民意識的な救済をもたらしてきた。それに対し日本の場合は、戦争責任の所在を明確に出来なかったことから、この戦争責任者に対する自国内の抵抗運動というコンセプトを創ったり、またそうした記録を発掘したりすることが出来なかった。もちろん共産党活動家などの「獄中・年」といった伝説もないことはないが、それは運よく処刑を免れた政治活動家の個人的な勲章に過ぎず、幅広い国民の中で多様な軍事政権への抵抗運動が存在したという記録は、残念ながら私はほとんど聞かないし、ましてや、そうした抵抗運動に関与した女性の話だけで、ここまでの本が書かれたということもないだろう。そもそもドイツ以上に同質的で集団主義的な国民性と、ドイツと比較してもまだ低かった戦争時の女性の自我意識も、こうした草の根の抵抗運動を育むことがなかった理由かもしれない。その結果、戦後は逆に「一億総懺悔」という、これまた責任の所在を曖昧にする議論により、一般国民意識の中の敗北感を救済しようとすることになったのである。こう考えると、こうしたドイツの反ナチス抵抗運動の記録は、戦後の国際社会での復活のために、戦争責任の議論を巧みに操作していったドイツ人の知恵の記録でもあるように思えるのである。
読了:2010年6月11日