スターリンの対日情報工作
著者:三宅 正樹
この新書を「ドイツ読書日記」に掲載するのは、やや無理があるかもしれない。というのも、この本が追いかけているのは、スターリン・ソ連の情報戦で、まさに混乱と戦争の1930−40年代に、スターリンが如何に欧州や日本に張りめぐらせた情報網を利用し、あるいは利用しなかったのか、という、ソビエト・ロシアが誕生して以降のスターリン・ソ連の対日情報工作の裏側に迫ろうと言う作品であるからである。
しかし、その諜報活動の対象となっているのは、欧州では主としてナチス・ドイツ、そして日本であり、そこからまさに1939年の独ソ不可侵条約や、1941年の独ソ戦開戦以降のスターリンの軍事戦略等、ドイツ問題から展開した当時の重要な歴史の裏側が見えてくる。即ち、スターリングラードでのナチスの敗北から、その後の戦況が一変し、そして最終的な枢軸国の敗北に至った一つの主要な理由が見えてくるのである。またこれに続けて今読み始めた、ナチス・ドイツ側からの諜報活動に関する本が次に控えていることもあり、まずはこの本をここに掲載し、次の本との比較もやってみたいと考えている。
さて、この本の主要なテーマは、第二次大戦前のクリヴィツキーと大戦中のゾルゲによる世間に良く知られた諜報活動で、それ以外では90年代以降新しい資料が出てきたため明らかになった「エコノミスト」と呼ばれた対ソ情報通報者の真相に迫ろうとしている点がおそらくはこの本の新たな付加価値といえるのであろう。しかし、クリヴィツキーやゾルゲについては、今までも多くの資料や著書が出されているが、偶々私は今まで細かい説明や分析に接するチャンスがなかったことから、それも含めて結構面白く読めたのであった。
まずは第二次大戦前のクリヴィツキーのスパイ活動。彼は「ソ連を仮想敵とする日独防共協定が1936年11月に成立する前に、ベルリンでの日本とドイツの交渉の中身を完全に把握することに成功した。」という。
クリヴィツキーの「スターリン時代」と邦訳名がついた著書は、この時代を集中的に勉強していた私の大学時代に耳にしていたが、結局読む機会がないままに長い年月が過ぎてしまった。しかし、この本で初めて、彼がスターリンの防諜活動で目覚しい成果を挙げると共に、結局は1937年、粛清の嵐の中でスターリンに反旗を翻しまずフランスに亡命、その後米国に移り、そのスパイ時代の活動をあからさまに語ることになったことを知った。同時に、1941年2月、亡命先の米国はワシントンのホテルで彼は謎の死を遂げたという。
亡命後の暴露活動やトロツキーによる引用、そして彼の死の謎も、それ自体面白い話しであるが、ここでの主題は彼があからさまに語ったスパイ時代の活動である。まず、モスクワ勤務時代の1934年にドイツで発生したヒトラーによるレーム粛清事件を受けたスターリンの反応―スターリンは常に親ヒトラーであったーという評価は、その後のスターリンの対独政策―特に1939年に世界を驚愕させた独ソ不可侵協定に至る動機として重要である。しかし、これはE.H.カーによる「独ソ関係史」でより詳細に分析されているところである。
彼のスパイ活動としては、1935年、オランド、ハーグに赴任したクリヴィツキーが、大島在独大使とリッペントロップの間で進んでいた秘密交渉の情報収集に注力し、大島が日本に発信する交渉の秘密電報の入手に成功、日独防共協定の秘密付属協定にあるソ連に対する共同行動に関わる情報を入手していたというのが、最も輝かしい成果である。この情報は、大島の交信を盗聴していたナチの親衛隊将校が、女優との情事のための金欲しさからこの情報を流し、モスクワの日本大使館から盗んだ暗号解読書で解読されたという。そして、クリヴィツキーは、これを受けて、スターリンは、英仏とドイツ包囲網を形成する表の政策をとる裏側で、ドイツとの関係を維持する努力を続け、これが前述の独ソ不可侵協定となったと分析しているというが、この分析については、学者の間ではいろいろ評価が分かれているとされている。
また、この独ソ協定を受けて平沼内閣が崩壊した日本では、この間の欧州での合従連衡をきちんと把握する能力がなかったことが語られている。ドイツ側では、ヒトラーの反ソ路線とリッペントロップの親ソ路線が存在し、日本側は、リッペントロップの路線に従い独ソ不可侵協定の衝撃の中で、日ソ中立条約を締結することになるが、結局これがドイツのソ連侵攻で雲散霧消し、そして今度は終戦直前にソ連に対日宣戦布告という形でしっぺ返しを受けることになるのである。クリヴィツキーによる「独ソ接近」観測については、当時の日本の論壇で紹介記事が出たが、政府筋は、これが謀略情報であるとして「クリヴィツキーは幽霊なり」という官製の反論を行っていた、というのも、日本側の情報戦の遅れを物語る挿話である。
続けて今度はゾルゲによる、大戦中の対日情報活動である。所謂ゾルゲ事件は、1941年10月、ゾルゲや朝日新聞記者の尾崎秀実他が逮捕され、その後の取り調べで、日本の対ソ外交方針がほとんどスターリン側に筒抜けになっていたという、日本の歴史上最大の諜報被害を受けた事件である。ゾルゲは、1934年9月に来日し、在日ドイツ大使館武官で、その後大使に昇格したオイゲン・オットの絶大な信頼を受けて、ドイツの最高機密を入手すると共に、尾崎らと日本での広範な対日諜報機関を組織するに至る。おそらく、ここで述べられている事実は、今まで一般に知られていることがほとんどであると思われるが、重要な点は、ゾルゲが、「ドイツ軍が1941年6月にソ連へ軍事攻撃を開始することを予見し、独ソ開戦後は、日本軍がシベリアに攻め込むかどうかを知るために全力を挙げた。」という点である。
ここでは、ゾルゲの経歴につき詳しく述べられているが、彼がかなりのインテリであり、日独の政治分析にかかわる本を出している他、フランクフルト社会研究所での講義を委嘱されたこともあるーということはこの研究所のメンバーとも関係があったということであろうー、というのには驚かされる。同時に彼は肝いりの共産主義者で、コミンテルンから始まり、最後は「赤軍参謀本部第四本部」という、ソ連の中枢からの指示で動いていたという。1930−32年にかけて上海で諜報グループを組織し、またA.スメドレーの紹介で尾崎と知り合うことになったという。こうした経緯を経て、1933年9月から日本での活動を始めるが、それまでに「フランクフルター・ツァイトゥング(現在のFRZであろう)」記者の立場と在日ドイツ大使館宛の紹介状、そしてナチ党員の資格を得ていたというのが、その後彼が特にオット大使から受ける信頼の根拠になった。
こうして、日本で再会した尾崎らの情報も受け、2・26事件の分析や日米交渉の情報など、膨大な情報をソ連に送り続けることになる。そして1941年には、ドイツ大使館の職員を通じて、独ソ開戦が近いとの情報入手し、それをスターリンに打電するが、この重要情報は、当時赤軍に不信感を抱き、トハチェフスキーを始めとする赤軍幹部の粛清を始めていたスターリンにより無視されたという。
著者は、ゾルゲ取調べの過程で、彼の所属がコミンテルンであるのか、赤軍であるのか、そして尾崎らの認識とのズレや、日本の検察当局が、ゾルゲの告白にもかかわらず、あえてコミンテルン所属と発表した理由などについてページを割いているが、これはやや重箱の隅を突っつくような議論である。またゾルゲ逮捕を受けたオット大使が、あえて本国にこの事件を報告せず、結果的に本国が満州新京のドイツ公使館から受けた情報でオットを詰問、結果的に解任に追い込むに至る経緯を詳述しているが、これも省略する(最近の在モスクワ日本大使の更迭なども、こうした情報戦の失敗による人事交代の最近の例である)。
ゾルゲの最大の功績と言われる、独ソ開戦後の、日本軍のシベリア侵攻の可能性に関する情報活動であるが、この解明に登場するのは、1992年に英国に亡命し、ケンブリッジの教授と共著を出版したV.ミトローヒンという元KGB職員である。彼の持ち出した膨大なソ連時代の諜報記録が、このゾルゲらの活動とその実態的な影響を分析する有力な材料となるという。
それも含めて、この本で著者が主張しているのは、独ソ開戦後、日本が対ソ参戦をするのかどうかというソ連側にとって極めて重要な関心に対し、少なくともゾルゲ・ルートの他にも更に2つの情報源があり、結果的には、ゾルゲが主張しているように彼の情報に基づいて、スターリンが日本軍のシベリア侵攻はないと判断し、シベリアから対独戦線への兵力移動を行ったのではなく、他の情報源、特に「パープル暗号」と呼ばれた日本から在外公館への電報の暗号が少なくとも1941年にはモスクワで解読されており、それが最も大きな判断材料になったので、ゾルゲの情報はそれを裏付ける程度の役割しかなかった、と結論付けている。
更に、もう一つ重要な情報ルートとして最近明らかにされた「エコノミスト」というコード名で呼ばれたスパイがいたことを著者は指摘している。これは2005年に当時の共同通信モスクワ特派員がスクープした情報で、1941年の当時内務人民委員のベリヤから、スターリン、モロトフ外相に伝えられた「特別報告」にこのスパイからの情報として、日本政府の外交方針が性格に報告されているという。これによると、当時の日本の商工大臣が、ある昼食会で「対米関係悪化のためソ連とは和平を維持する」という政府の方針を漏らし、それがこのスパイによりベリヤに報告されたというものである。その四日後に日本は御前会議で、対米開戦の方針を固めており、極めて切迫した状況での生々しい情報であったと考えられる。
著者はこの「エコノミスト」が誰だったのか、という推理を行っていく。著者以前にも、この人物を推測する試みはあったようであるが、著者は1954年のラストボロフ事件という在日ソ連代表部書記官の亡命事件と彼の証言を使いながら、その事件で逮捕されたある人物がその「エコノミスト」であったと推理していく。その人物自体はさして重要ではないが、少なくともゾルゲ以外にもソ連の情報網は何重にも張り巡らされており、その多くは歴史の闇に埋もれているということ、更には現在も決してそうした事態が終わっている訳ではないということが、恐らく我々にとってはアクチャルな問題である。最後に著者は、米国でのソ連暗号解読プロジェクトである「ヴェノナ・プロジェクト」について触れ、この「第二次大戦での独ソ単独和平」への懸念から始まった計画が、戦後の冷戦期にも継続され、マンハッタン計画の情報流出事件などで、時折表に出てきたという(但し、この計画の秘密性故に、訴追された物理学者が証拠不十分で追及を免れた、という話も伝えられている)。
期しくも日本では尖閣での中国漁船衝突映像の管理不行き届きや公安情報の流出など、レベルの低い情報漏洩事件が相次ぎ、また世界規模ではウィキ・リークによる米国外交文書流出が大きな議論となっている。インターネット時代の情報管理と他方でそれを盗み出そうとする諜報は、昔とは様相を異にしていることはあるにしても、国家が存在する限り、なくなることはないであろう。今年、米国でのスパイ活動容疑で逮捕され、スパイ交換でロシアに帰国した「美人過ぎる女スパイ」が、ロシア最大与党の青年団指導者として政治舞台に登場した、という昨日の報道を読みながら、社会の闇に紛れて行われているこうした諜報活動は、現在もまだ世界の至る所で遂行されており、またこれからも延々と続いていくのであろうという思いを新たにしたのであった。
読了:2010年12月18日