アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第四節 ナチス
ヒトラーのスパイたち
著者:C.ヨルゲンセン 
 昨年最後に読んだ、「スターリンの対日情報工作」は、ソヴィエト・ロシアによる第一次大戦から第二次大戦に至る時期の対日諜報活動の成功例を、クリヴィツキーやゾルゲの例を中心に考察したものであるが、当然彼らの活動は、日本のみならず枢軸国として日本と結託していたドイツもターゲットにしていた。他方で、そのドイツも、西欧諸国やソ連を中心と仮想敵国をターゲットにした自らの諜報組織を作り上げ、それらの国への諜報と、それらの国からの諜報を阻止する活動を行っていたことは言うまでもない。そのドイツの諜報活動の歴史を、19世紀後半から、ナチ体制が崩壊する第二次大戦末に至るまで、恐ろしいまでの細部と共に示したのがこの作品である。大きな枠組みとしては、一旦第一次大戦で、それまでのドイツのスパイ組織が壊滅、それを再建することになるが、カナリスに率いられた国防軍の組織と、ハインリヒに率いられたナチス親衛隊の組織が並存し、結局この内部抗争により、全体としては失敗に終わる過程を描いている。しかし、ドイツが敗戦したことから、全体としては失敗という評価になるとしても、個々の工作では多くの成功事例もあり、特に私も愛読してきている逢坂剛のスペインを舞台にした未完の大河小説でも頻繁に登場するカナリスの存在感には、たいへん印象深いものがある。また特に大きな歴史的事件の裏で、こうした諜報組織がどのように動き、関与していたかを説明する、「戦争の裏面史」的な読み物としても面白く、当地としては珍しく終日雨が続く退屈な週末にいっきに読了することになった。著者は、スウェーデン人で英国で第二次大戦の歴史などを専攻した歴史家である

 この本は、いつものように細部に入ると、全くきりがなくなるので、ここでは、特に私が興味を抱いた事象を中心に整理しておこうと思う。

 まず注目されるのは、ドイツ国防軍情報部(Abwehr)と、それを1935年1月から1944年3月まで率いたW.カナリス提督の活動である。当初はシンパであったものの、第二次大戦が進むにつれヒトラーに幻滅した彼は、「総統のために忠実なスパイマスターの役割を演じようとする一方で、敵に対しては、わずかながらでも礼儀正しく接し続けようとした。それどころか、ほとんど活動を停止していたものの常に存在し続けていたドイツの反体制運動を支持していた」という薄氷を渡るような道を歩んでいたのである。他方で、「国防軍を全面的に信用したことのない」ヒトラーは、「親衛隊から若くて冷酷な情報将校を推し」、国防軍とは別に親衛隊保安情報部(SD)を創設させる。この将校R.ハイドリヒは、当初はカナリスの部下であったものの、後に不倶戴天の敵となり、SDは「ヒトラーが望んだもののカナリスが拒否、あるいは回避した汚れ仕事すべてを引き受ける部署となっていった。」この本は、まさにこの2つのドイツ情報組織とそれを率いた男たちの「裏切り、陰謀、あざむき、臆病、二重スパイ、反逆罪だけではなく、偉大なる武勇、知性、頭脳、冷静さの物語」となるのである。

 ドイツの情報機関は既に19世紀始めのプロイセンで誕生し、保安情報局(ND)として普仏戦争を始めとする、ドイツが勝利した19世紀末の戦争の裏で暗躍していたという。そして20世紀に入りとフランス・ロシア同盟を始めとするドイツ包囲網に対する危機感から組織の規模を拡大し、第一次大戦でも既に欧州に地歩を築いていた英国情報部のSISとの死闘を繰り広げることになる。この時期の大きな話題としては、オランダ人女性で、パリとマドリッドを中心にフランスとドイツの二重スパイを演じようとして、最後はフランス側に捕えられ銃殺されたマタ・ハリ(別れた夫と6年間滞在したジャワで得た芸名であったという)の悲しい挿話が挙げられている。

 第一次大戦後、国防軍情報部として生まれ変わったドイツの情報組織は、敗戦国であるが故に10名程度の小さな組織として立ち上がった。そして当初からナチスとうまくいっていないことから誰も引き受ける者がいないこの組織を、1935年1月に海軍を退役したカナリスが率いることになる。同時に、国防軍を信用していないヒトラーは「別の情報源を手に入れるために」ナチスの親衛隊内部に保安情報部(SD)を設置し、1931年からはハイドリヒを指揮官に任命する。ヒトラーの政権掌握の過程で、このSDは、ゲシュタポと共に悪名高い組織になっていく。

 ここから大戦間の時期の個々の情報活動の説明に入っていく。ドイツが英国に作った組織網や、ポーランドのドイツでのスパイ活動(「ドイツ女性たちの一大ハーレムを築き上げた」ソスノフスキー伯爵)など、早くも攻守入り乱れた話が交錯する。1938年のヒトラーによるオーストリア併合にあたっては、カナリスが「転覆を手助けしながらも」、「SDのハイドリヒが手に入れてしまう前に、オーストリア情報部の職員と書類をすばやく確保する」など、ドイツの両情報組織の対抗関係が始まる。しかし翌年のチェコスロバキア併合に当たっては、カナリスはズデーテン・ドイツ党の穏健派ヘンライン党首などを使いヒトラーへの抵抗を試みたが、SDが優勢となり、スロバキアのナチス・シンパも使いながら併合が実現したとされる。

 ここでスパイマスターの二人、カナリスとハイドリヒの経歴が詳細に紹介されているが、ここで面白いのは、1922年頃、この歳の違う二人が海軍で家族ぐるみの友人となり、カナリスが「エージェントや暗号やスパイ行為に対する若いハイドリヒの好奇心に火をつけ、この師弟関係がハイドリヒが海軍に在籍しているあいだ、ずっと続いた」ということである。カナリスにとっては「スパイ行為の極意をすべて伝授する愛弟子」であったハイドリヒが、後に最大のライバルとなるのである。カナリスは複雑な性格を持った紳士で、「彼を悪く言う人間がほとんどいない」のに対し、自分の出世のためには手段を選ばない冷酷なハイドリヒは、敵のみならず、見方からも忌み嫌われたという。しかし、カナリスが「ヒトラーが暴れまわるのを阻止することに専念しすぎ」、またハイドリヒがヒトラーの汚れ役としての「ユダヤ人根絶や周辺国に対する攻撃計画など」にエネルギーをつぎ込み、スパイとしてはもっとも有能で成功することができなかったのに対し、ひたすら情報活動に打ち込み、ドイツ敗戦後もスパイマスターであり続けた第三のスパイ・マスターとしてゲーレンが紹介されている。彼は「東方戦線の陸軍情報部の組織を引継ぎ(中略)、ソ連の恐るべき敵といわれるまでにしてみせる」ことになった。

 1939年からの戦争に際して、国防軍とSDが関与した数々の活動が紹介される。まずはポーランド侵略に際して、開戦の口実の一つとして使われたグライヴィッツにあるドイツ放送局襲撃事件は、カナリスが断ったヒトラーの計画を、ハンドリヒが、ポーランド軍服を着たポーランド語を話す囚人のごろつきを使って起こした事件であったという(盧構橋と類似した事件である)。ドイツが鉄鋼(スウェーデン)や不凍港(ノルウエー)を確保していた北欧の国防軍情報部の「船舶エージェント」は、そこから連合軍の船舶情報を発信し、空軍による正確な攻撃を可能にし、またフランスのエージェントから送られた情報で、連合軍のスカンジナビア進攻を確信したカナリスは、先手をうってのスカンジナビア進攻をヒトラーに進言する。進攻のルートとなるデンマークの極秘調査やカナリス自身による偽名での実査の様子など、小説を読んでいるようである。またこの時期、北欧中心に活動していたロシアのバレリーナで、ソ連とドイツの二重スパイを巧みにこなしたマリーナ・ゴウビニーナの話も面白い。

 西部戦線でも、オランダ軍の制服調達などに情報部が関与する。それ以上に活躍したのは情報部「西方外国軍課」で、フランス進攻に当たりフランスの軍事力の配置情報などを正確に収集し、僅か7週間の戦争でヒトラーがこの国を占領するのに貢献したという。

 次のターゲットは英国であったが、これはフランスのようには行かなかった。まずは戦争初期、英国SISがドイツに築こうとしたスパイ網がSDにより壊滅させられる様子が語られる。しかし他方で、カナリスも「狂気の沙汰」と考えたという英国進攻計画(「アシカ作戦」)を受けて情報部が英国内に作ろうとしたネットワーク(「レナ作戦」)も悉く潰され、処刑を免れた者も逆に英国の協力者となり、偽情報をドイツ側に送り続けることになったという。その結果、この国の軍事情報は全く掴めないままであった。こうした英国側の二重スパイで名を轟かしたのが、ダイナマイトを使った銀行強盗上がりのエディ・チャップマンと「三輪車」と呼ばれたユーゴ出身のドゥシュコ・ポポフである。特にポポフは、ドイツの指示で、日本軍によるタラント視察に同行し、日本軍による港湾基地襲撃計画を察知し、更に同じくドイツの指示で米国でのスパイ網構築のために訪れた機会にCIA長官のフーヴァーと面談し、その情報を伝えたという。ただフーヴァー自身は、この「バルカン半島の道楽者」には耳を貸さなかったという。ただドイツ側でも、オランドで親ドイツの二重スパイ網を作り、英国側に偽情報を発信し続けた情報部将校ギスケスのような成功例もあったとされている。

 戦争中の中立国でのドイツ及び連合軍双方の壮絶なスパイ合戦が紹介される。まずスイスはそもそもヒトラーによる侵攻計画である「鷲作戦」の対象となり、情報部の活動も進められるが、スイス側、特に「猛烈な愛国者で民主主義者」であるギザン将軍の対的諜報の強化も含めた警戒の前に、失敗に終わったという。それどころか、スイスをベースにしたバイエルン出身ドイツ人のルドルフ・レスラーは、ドイツ側に情報を伝えるスパイとして活動し、ソ連にも送られた彼の情報が、ドイツ侵略後のソ連で、反攻を可能にする大きな武器となったという。また彼からの情報で「日本がソヴィエト連邦には攻撃を行わないことも確認した」とされているが、これはまさにこの前に読んだゾルゲの日本での活動と重複する動きである。どちらが決定的な情報であったかは、ここではもちろん明確ではないが、ソ連側で当初「信頼できない情報源」に分類されていたレスラーの情報は、ドイツのソ連侵攻以降は、相当信頼度が高くなっていたようである。

 このレスラーのスイスでの活動について、ドイツ側も手をこまねいていた訳ではなく、無線保安局がスイスからの通信を察知し、「赤い三点」と命名し、摘発に動いていた。しかし、ドイツの圧力を受けたスイス当局が1944年4月、レスラーとその一味を逮捕した時には、既にドイツは大きな打撃を受けた後であった。

 スイスでは別に1943年にベルンの大使館に送り込まれた米OSS局長アラン・ダレスが、反ナチスのドイツ外務省職員を始めとする情報網を構築し、ドイツのみならず、日本の情報も数多く収集していたという。

 他方、ドイツに警戒心を抱いていたアタチュルクが1938年に早世すると、トルコには親ドイツ政権が誕生し、ドイツはここで自由な諜報活動が出来るようになった。特にイスタンブールがドイツのスパイ活動の拠点で、ここからイラクにある英国の油田やバクーのソ連情報を収集したのみならず、アラブ諸国との連絡活動を行った。ここには元の首相である反ヒトラーのパーペン(戦後まで生き延びた!)が大使として赴任しており、彼と親しかったカナリスは、1943年頃からここで米国OSSと接触して連合国との和平を模索したが、あくまでヒトラー排除を要求する米国側との交渉は結局実らなかったという。しかし同じ頃、アンカラのSDは、英国大使館に勤務するトルコ人スパイ、暗号名キケロを獲得し、これは連合国側の貴重な情報をドイツにもたらしたとされる。キケロへは膨大な金が支払われたが、そのほとんどはSDが作った偽のポンド紙幣であった、という落ちが付いている。

 スペインでの情報活動の大失敗は「ヴィリ作戦」である。1940年6月、英国を出た「親ナチス」のウインザー公夫妻は、サラザールの招きでポルトガルに滞在していたが、リッペントロップは、彼を英国征服の際の傀儡として使うことを考え、SDに対し拉致を指示したのである。リッペントロップとハイドリヒは犬猿の仲であったが、SDのシェレンベルグがこの任務を遂行する羽目になり、拉致の準備を整えるが、計画を察した英国側は、夫妻を無事米国に移送するのに成功する。またドイツ側は、英国領のジブラルタルを確保すべく、最初は武力攻撃、それが困難と分かるとスパイを使っての破壊工作を計画したが、当地のMI5に悉く潰されたという。このあたりは、逢坂剛の前述のスペイン大河小説でも一部描かれている素材である。

 東方でも、正規の戦闘以外に、ソ連とドイツの熾烈な情報戦が行われる。ドイツの進攻直後は、バルト諸国やウクライナは、スターリンの残忍な弾圧に起因する反ソ連意識から、情報活動面でもドイツに協力的で、赤軍の暗号表等を手に入れソ連軍に混乱を生じさせるような成果ももたらしたが、結局ヒトラーがこうした「スラブ民族を読み書きもできない野蛮人であるかのように扱った」ため、「これまで友好的であった国民を、占領国ドイツの新たな敵に変えてしまった」のであった。

 そうしたナチス指導部の傲慢さにも関わらず、1942年4月、東方外国軍課長を引き継いだゲーレンが目覚ましい活躍をし、ソ連に対するスパイ網を作り上げていった。特に「イーゴリ」と「グレゴリ」という二人の知性と能力を備えたスパイをモスクワの中枢に送り込むという「ツグミ作戦」は、最終的に「イーゴリ」の救出に失敗したものの、多くのソ連情報をゲーレンにもたらしたという。ゲーレンが個人的信頼を得てスパイに仕立てた、捕虜のソ連政治将校「フラミンゴ」は、「大胆な逃亡」でソ連に戻り、枢要な地位を得た後、ソ連国防員会等の情報を送り続けたという。しかし、他方で、ソ連はドイツ支配地域に「赤いオーケストラ」と呼ばれるスパイ網を構築しており、ドイツ側は彼らを追い詰める作戦を展開することになる。この顛末もそれこそ小説のように詳細に記載されているが、結局1942年末までに117人あまりが逮捕され、拷問にかけられた上でほとんどが処刑されることになる。

 情報活動とはやや異なるが、所謂「不正規戦」を行う特殊部隊の数々の活動についても、著者は一章を割いて紹介している。そのうちの最も有名な「ブランデンブルグ隊」は、カナリスが運営していた部隊であるが、カナリスは彼らにあくまで国際法を順守するように徹底させていたという。ポーランドやオランダへの進攻で、この部隊は戦功を上げ、後にロシアで最も効果的に利用された。特にそれを率いるスコルツェニーは、ヒトラーのお気に入りであり、1943年8月、政権から引き下ろされ幽閉されていたムッソリーニの救出作戦を指示される。それこそ映画になりそうな展開であるが、サルジニアからローマの東、スキーリゾートのグラン・サッソの山荘に移送されたムッソリーニの居場所を追跡し、グライダー部隊という意表を突く作戦で救出に成功、これでスコルツェニーの名声がいっきに高まったという。ヒトラーは、戦況が悪化する中、彼を使った幾つかのとんでもない作戦(操縦士の載ったV1での英国国会議事堂攻撃等)を思いつくが、実際に実行されたのは、ユーゴでのパルチザン指導者チトーの暗殺計画である。しかし、この「桂馬飛び作戦」は、チトーとパルチザンの抵抗に会い失敗、チトーは生き延びることになった。その他、ソ連側に寝返る工作を行っていたハンガリーのホルティー提督を拉致して、この国を最後までドイツ側で戦わせた「パンツァーファウスト作戦」は成功例、バルジの戦いでの米軍相手の「グライフ作戦」は失敗例として紹介されている。

 ドイツ諜報機関を主人公とするスパイ戦争は、欧州以外でも遂行された。バルカンの要、ルーマニアやブルガリアも戦況の悪化でドイツから離反していったが、ハンガリーのような工作は失敗。ギリシャではパルチザン対策で強権支配を行ったため諜報面でも成果を上げることはできなかったという。そして、ユーゴはセルビアのチュトニク、クロアチアのウスタシャ、チトーのパルチザンの三つ巴の抗争の中、ドイツも彼らに劣らない残虐行為を行い、混乱に拍車をかけることになる。

 中東の要はエジプトであったが、ここでは反英感情を利用してドイツの諜報活動はうまくいくことになる。ここで面白いのは、ハンガリーの考古学者でドイツのエージェントであるラースロー・アルマーシが、エジプトの若手将校であったサダトとナセルと接触していたという話。「双方ともエジプトからイギリスを追い出したいが、その目的を達成する方法にはこだわらなかった」という。またロンメルは、アメリカ人エージェントからの情報で数々の戦功をたてることになる。しかし、ここでのスパイ網を補充するカナリスの試みは、道楽ものと「アメリカ人」のエージェントに振り回されることになった。その他、イラクやインド、そしてアフガニスタン等、現在でも対応が難しい国々でも情報工作は行なわれていた。またキューバやメキシコ、ブラジルといった中南米諸国で活動していたドイツのエージェントも紹介される。そしてさらに一章を割いて、国防軍とSD以外の情報組織として、「連合軍の電話を盗聴していたF局(調査局)」、「海軍の暗号解読していたB局」のようなすぐれた組織から、リッペントロップが動かしていた「INFV」のような効果を上げていない機関等が説明されている。著者は、こうした状況を「第三帝国の分裂した状態をよく表している」と総括するのである。

 そして最終章は、これらの機関、なかんずく国防軍情報部とSDの抗争の抗争と指導者たちの運命である。カナリスとハイドリヒの関係は冒頭に述べたとおりであるが、ハイドリヒがボヘミア・モラヴィア総督になると、国防軍情報部にチェコのエージェント「フランタ」が浸透していることが明らかになり、この問題を巡り二人は決定的に対立する。著者は、1942年5月の両者の会談以降、彼らは相互に相手の抹殺を意識し始めたとしている。そしてこの直後、ハイドリヒがプラハのトロヤ橋で暗殺される。著者は、英国によりチェコ人エージェントを使って実行されたこの計画の背後に、カナリスの関与をほのめかしている。そしてそのカナリスも、連合軍との和平交渉や反ナチ・レジスタンスと関係を持っていたが、戦況の悪化と共にスケープゴートにされていく。1942年11月、「巨大な侵略艦隊が英米陸軍を北アフリカに上陸させた」トーチ作戦での情報取得失敗(これも逢坂剛が小説で使っている)での叱責をはじめカナリスに対する包囲網が徐々に狭まる。そしてシュタウフェンベルグによるヒトラー暗殺失敗を受けた摘発の余波が続く中、1944年7月、カナリスはSD長官シェレンベルグにより自宅で逮捕され、翌1945年2月、長期に渡る拷問の末、ヒトラーの命令により「出来る限り野蛮で屈辱的な苦しい方法」で絞首刑に処された。「このとき、迫り来るアメリカ陸軍は、わずか136キロのところまで到達していた。」二人の第二次大戦中のドイツを代表するスパイマスターは、こうして双方とも悲劇的な最期を遂げた。そしてそれはドイツの情報活動そのものの敗北であったのである。戦後も生き残り、冷戦の中、対ソ連情報活動の責任者として米国の庇護を受け生き残ったゲーレンと彼の組織を除いては。

 こうしたこうした情報活動という「歴史の裏面史」を読むと、まさにこうした活動は、あらゆる意味での対立・軋轢がある場合は、組織による必然的な活動として常に発生することを改めて感じると共に、またいつの時代にも、そうした活動のリスクを一身に担う個人がいる。彼らは、ある者はある対象への忠誠心から、またある者は国家を手玉に取ろうという意図など、様々な動機からこの世界に入っていく。そしてそうしたスパイ達は、その性格上、常に二重スパイとしての宿命を負うことになる。そうした難しい立場を生き延びる最後の切り札は、雇用者の信頼だけである。その関係で、英国のスパイたちが、名誉だけを勲章に、社会的には一切表に出ることなくその任務を果たし終える、という英国スパイに関する本で読んだ言葉が、頭に浮かんでくる。英国のスパイ達は、自分の忠誠の対象が明確であった。しかし第二次対戦中のドイツ情報機関は、ヒトラーという稀代の独裁者を前にして、結局社会とその忠誠を誓う先が一つになることがなかった。それが英国のスパイとこの時代のドイツのスパイの「信頼度」を大きく異なるものとし、そしてそれが国家間の軋轢の最終結果にもなってしまったように感じるのである。

読了:2011年1月30日