ゲッペルス メディア時代の政治宣伝
著者:平井 正
ワイマ−ル共和国の崩壊とナチの台頭の歴史については、学生時代の一般的歴史の勉強の後は、自明の時代背景として、とりたてて復習をしたり細部を掘り下げようと試みたことはほとんどなかった。私にとっては、むしろそうしたナチ化を支えた根源的な原因がどこにあるのかを探ることの方がより重要であり、フランクフルト学派への私の傾倒もその意味で歴史的な関心ではなく、社会哲学的な観点からのものであった。この点、ドイツとナチの近代史は、ソ連とスタ−リニズムの問題が社会哲学的な観点からというよりも、その生成という、歴史的な観点から分析されねばならないのとは異なっていた。そして今回のドイツ滞在にあたり、一般的なドイツ現代史の本もいくつか買いこんできたが、なかなか手を付けようという気にならなかった。
そうした中で、ナチの宣伝相として、ナチの強制的同一化(Gleichschaltung)を大衆心理面から支えたゲッペルスの役割を、彼の個人的な、そして1926年にナチのベルリン大管区指導者に任命されてからは、公表を意識して書かれた日記から浮かび上がらせようというこの本の試みは、久々に忘れていたドイツ現代史への関心を呼び覚ましてくれたのである。
幼少期の病気から人間嫌いの青春を過ごしたゲッペルスが、大学で博士号を取り、文士となるべく執筆活動を始めたのが第一次大戦後の混乱の中。そして職を得ることができないまま、「同じ分筆活動でも目分の志向と関連した政治活動とつながる方向」を見出し右翼国粋運動に関与したのが1924年のこと。1925年には、ヒトラ−の釈放後新たに結成されたナチ党に加盟。後に対立し、ヒトラ−と手を組み粛正するG.シュトラッサ−の下で機関紙の編集長を務めることになる。そしてこの時期から既に、日記にも現れ始め、生涯変節することのなかったヒトラ−への盲目的な忠誠と、生来のデマゴ−グとしての才能が三文文士の文化への関心と結合し、彼を次第にナチの中で押し上げていく。
著者はこの過程でのゲッペルスの心性を、彼が関与した政治的事件の客観的評価と、それに対する彼の日記の記載を対照する形で浮かび上がらせる。特に彼が大都市ベルリンで戦いを開始したことは、「新しい大衆社会状況の中で大衆を挑発するデマゴギ−という政治の新しい要素」(ヒトラ−)を実践する絶好の機会を与えた。1927年、既にナチの主要な政治手法となっていた大衆集会を、共産党の牙城、ファ−ルズ会館で挙行した時も、ゲッペルスは明確にそのセンセイショナルな性格を意識している。同様にベルリンの副警視総監バイスを、諷刺画を含めた攻撃の対象として選んだのも、バイスが最も大衆受けする攻撃対象であったからである。1928年、エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」に感激。これは後に「右翼の『戦艦ポチョムキン』を作るように」という彼の発言の原点になると共に、その後の芸術面での強制的同一化の契機となる。1930年には、共産党員に殺された突撃中隊長H.ベッセルを殉教者に仕立てる大キャンペ−ンを行った他、T.マンの反ナチ講演や映画「西部戦線異状なし」上映の妨害運動を行う等、文化的抑圧も強めていく。そしてナチが政権を奪取すると共に、ゲッペルスの日記も1932年1月から1933年5月までの分が、「勝利の日記」として公刊され、大ベストセラ−になるのである。
これ以前の日記が、ゲッペルスの宣伝哲学と共に、ナチ内部の権力闘争や、妻のマグダを始めとする女性関係に関わる情緒的、個人的な歓喜や憤懣に満ちていたのに対し、この「勝利の日記」は当然のことながら、彼らの政治闘争の自画自賛に終始する。ここにおいて、彼はまさに自分の日記もナチの大衆宣伝の中に取り込んでいくのである。しかしその限りで、ここには、予想外の私的領域が現れるという日記としての面白さはない。
1933年3月、ゲッペルスは国民啓蒙宣伝大臣に就任、絶頂期を迎える。前記の「戦艦ポチョムキン」を称賛したことで有名な、映画人への演説、ベルリン・オペラ広場での悪名高い焚書の演出、「メ−デ−」の「国民労働の日」への摩り替え、あらゆる文化部門を彼の下におく「文化院」の創設を経て、早くも7月に彼は「ナチ革命」の終結を宣言する。一方私生活においては、映画、演劇の世界の支配者となったことから、女漁りに拍車がかかる。「魚屋に猫がいるような」(平井)生活は、結局1938年にチェコの女優バロパとの情事が妻のマグダに離婚を決意させ、そこにヒトラ−が介入するまで続くことになる。
1939年の第二次大戦の勃発と共に、大衆デマゴ−グとしてのゲッペルスの時代は終わる。戦時の主役は国防軍や、ヒムラ−の親衛隊に移り、また外国向け宣伝は、ヒトラ−命令でリッペントロップが、また国内でも新聞はディ−トリッヒが担当していた。従ってこれ以降ゲッペルスは戦争ニュ−ス映画の作成や、「総力戦布告」の演説等で目立った動きをするが、これらはヒトラ−の関心を繋ぎ止め、党内権力闘争で有利な地位を確保しようという意図に基づいていた、と言える。戦況の悪化に伴い、ヒトラ−の側近が次々と彼の下を去っていく中、日記においてもゲッペルスの盲目的なヒトラ−賛美は留まることなく、最後もヒトラ−の自殺を見届けた後、家族と共に後を追っていくのである。
かつて丸山真男は、日本ファシズムについての著名な論考で、日本の軍国主義者が、無責任体制に犯された小心者の集団であったのに対し、ナチの指導者たちは、肝いりの確信犯、性格異常者であった、と書いた。確かにここで読んできたゲッペルスの日記の中には、他者への責任転嫁はなく、強い確信に裏付けられたあくなき権力欲があるのみである。しかしだからといって、彼が性格異常者であったかというと、少なくとも著者が引用している範囲で見れぱそうと断言できるだけの証左はない。そこにあるのはむしろ単に劣等感に苛まれた青春の代償と、その裏返しとしての権力欲であり、これらは彼と似たような境遇にあれば誰でも持つようなものである。おそらく彼に際立っていたのは、宣伝のテクノクラ−トとして、時代と人々の欲求を冷静に分析し、特定の目的のためにそれをフルに利用していく能力であった。それは方向こそ異なれ、現代社会の中でも、日々マス・メディアを利用した大衆操作として行われているものである。ゲッペルスはそれを初めて、且つ未曾有の規模で行ったのである。普通の人間であった彼が現代においてもなお乗り越えなけれぱならない対象であるとすれぱ、それはまさに彼の手法が道具主義的な現代社会の中でも依然として生き長らえているからである。
読了:1991年12月26日