ヒトラーの秘密図書館
著者:T.ライバック
昨年翻訳が出版された、ヒトラー物としては比較的新しい作品である。著者はアメリカ人で、欧州の歴史研究機関等で勤務しながら、ドイツ近代史に関わるノンフィクションを発表している他、新聞等への寄稿も多いという。この本では、16千冊と言われるヒトラーの膨大な書籍コレクションの中から、滅失・拡散を免れた数千冊につき、ヒトラーの実際の読書の痕跡や書き込み、マーキング等を丹念に追いかけ、ヒトラーの生涯での節目節目の時期に、どういった本のどのような記述が彼に影響を及ぼしたのかを検証しようとしている。
ここで取り上げられている作品、あるいはカテゴリーは10章。第一次大戦の従軍時代のベルリン観光に使ったこの都市の芸術・観光ガイド本から始まり、反ユダヤ思想との出会い、政治家として活動を開始した時期に唯一書き下ろした「我が闘争」を巡る顛末。あるいはユダヤ人絶滅計画の原点となった本やヴァチカン司祭の陰謀を物語るヒトラーへの献呈本。更にはオカルト本、軍事書、そしてソ連軍がベルリンの総統府に迫る中、最後の奇跡を夢見た「フリードリヒ大王伝」まで。ヒトラーの思想やそれぞれの時代の歴史背景には特段新しい事実や解釈が披露されている訳ではなく、むしろ良く知られている彼の生涯の転換点を取り上げ、彼の蔵書・読書傾向を通じて、その時の彼の内面に入っていこうという試みと言っても良いだろう。その意味で、これは決してアカデミックな研究書といったものではなく、むしろ軽い読み物であるが、それ故にそれなりに読者を引き込ませる数々の仕掛けを設けている。
著者は、同じく蔵書を人間の精神史そのものと考えていたベンヤミンを想起しながら、ヒトラーの残された書籍は、それなりに彼の精神形成を物語っていると考えている。高校中退で、高等教育を受けることがなかったヒトラーにとっては、まさに本の世界は自分の学歴に対する劣等感を克服し、高学歴の政治的ライバルや彼の指導を受け入れない将軍たちに対する自らの支配力を誇示するための巨大な力となったのである。そして実際、特に首相になってからは、彼は職務終了後の夜の時間に一晩一冊のペースで読書を続けていたと書かれている。もちろん、それは恐らく、私がこうして個々の作品の内容を丹念に追いかける作業を続けているのとは異なり、まさに自分の政治支配に合う書籍の、効果的な記述を手っ取り早く仕入れるための作業であり、自ら誇示しているように、「行動の人」としてその政治活動を行う上での必要な作業に過ぎなかったであろうことは間違いない。ただ、「読む本、あるいは蔵書の傾向を見れば、その人となりが見える」と言っても、ヒトラーのような人間は、その前に既にその思想は明らかであるので、結局この作業は、既に知られているヒトラーの思想に合う「種本」を残された蔵書の中で捜しているに過ぎないとも言える。しかし、それでも、幾つか面白い部分もあったので、ここではそれを中心に整理しておこう。
まずマックス・オズボルンという芸術評論家が書いた「ベルリン」という本は、第一次大戦に伝令兵として出征したヒトラーが大切に持ち歩いた本であり、この作品により、彼は「ベルリンへのこだわりと好戦的なプロイセン第一主義」を植えつけられたとして紹介される。また成功した劇作家ディートリッヒ・エッカートから送られた彼によるイプセンの叙事詩「ペール・ギュント」のドイツ語版は、筋金入りの右翼で反ユダヤ主義者であるエッカートの庇護と影響で、ヒトラーが反ユダヤ主義者として伸し上っていく契機になったとされる。むしろここでは、私は、イプセンによる「ペール・ギュント」(野望を抱いた男の冒険と夢破れた帰郷と救済の物語)という作品自体を今までほとんど知らなかったことに気付いたのであった。またこの時期に、ナチス党内部で博識の学者と論争した経験を契機に、猛烈に読書をするようになったと書かれているのも面白い。結局、エッカートらの支持を受け、彼はこの闘争に勝利してナチス党の中での支配力を獲得することになるのである。
「我が闘争」の執筆を巡る顛末が語られる。1923年の11月のミュンヘン一揆に失敗して軽い判決を受けミュンヘン郊外の監獄に収監されたヒトラーが、特権的な待遇を受け(自ら「国費でまかなわれた高等教育」と呼んだ)、そこでの時間を膨大な量の読書に費やすと共に、この本も書いたことは有名であるが、その動機は「政治的復讐」である以上に、裁判費用を捻出する必要があったからとされている。
著者は、この本のネタ本として自動車王フォードの「国際ユダヤ人」を挙げているが、これは次の章への導入である。この極端なアジテーションに満ちたヒトラーの本が、ナチス内部でさえ出版当初は物笑いの種になったというのは、まだこの時期が健全であったことを物語っている。言うまでもなく彼の全権掌握後は、この本は一切そうした異議を挟めないベストセラーになっていった。ただ、それ以外にも彼は、第一次大戦の回顧録や「我が闘争」第三部を計画し、後者は実際にカーボン・コピーが残っているという。しかし、彼の権力掌握と共に、この原稿は彼の意思で封印されることになる。後年、彼は腹心に向かい、こう言ったという。「1924年の時点で将来首相になると分かっていたら、決して本など書かなかっただろう。」彼は自分の言葉が、歴史の中に書かれた形で残ることに大きな不安を持っていたのだろうか?
こうして首相になった彼が「ユダヤ人絶滅」に向かった際に影響を及ぼした本が紹介される。特に彼が読み込んだと著者が考えているのが、米国人マディソン・グラントなる優生学者の書いた「偉大な人種の消滅」という作品である。この本は、「アメリカ建国の父たちによって掲げられ、独立宣言に明記されている価値観を損なっている移民の洪水のごとき流入を食い止めるべく、アメリカ人に対する高らかな宣言として書かれた」ということであるが、既に触れられたフォードの本と同様、1920年代のアメリカで、単なる黒人差別に留まらないアーリア人至上主義的な人種的偏見が満ち満ちていた、というのは興味深い現象である。「悪貨は良貨を駆逐する」ではないが、「金髪・碧眼」の北欧人種が、黒人やアジア人その他の劣等民族に駆逐されていく、という恐怖を展開したこうした本は、まさにヒトラーの人種差別観を増幅させる格好の素材となる。その他、ヒトラーの蔵書には同様のアメリカ優生学の本が多数含まれていたというが、特にこの本はヒトラーがある時に「この本は私の『聖書』です」とアメリカ優生学界からの訪問者に語ったというくらい強い影響を及ぼしたのであった。しかし、そうした影響を及ぼしたアメリカの参戦により、結局ヒトラーが打倒されることになったというのも、歴史の皮肉である。
著者は、続いてヒトラーの蔵書の中の哲学・思想書を抽出し、彼のその分野での関心を探っている。しかし、まずここで面白いのは、リーフェンシュタールが1933年に彼に贈ったフィヒテ全集を巡る経緯である。彼女自筆の献呈サインのあるこの全集は、彼女の後年の回想によると、ユダヤ人の取扱いに対する懸念を表明したり、ナチス殉教者の映画作製を拒否したことでヒトラーの機嫌を害した彼女が、彼との関係を維持するため、友人の映画監督の奨めで贈ったものであるとのことである。しかし、これは戦後、ヒトラーへの協力を批判された彼女の自己弁護のための嘘であった可能性が否定できないという。相互嫌悪の関係にあったゲッペルスに「荒れ狂う女」と称されるほどであったリーフェンシュタールの世渡り術と生命力を感じさせる逸話である。
ヒトラー自身は、後世の大方の想像に反し、哲学者としてはニーチェよりもショウペンハウエルを好んでいたとされているが、実はフィヒテこそ「ドイツ至上主義と悪しきナショナリズムの有毒なブレンドに哲学的基礎を提供」した「第三帝国の哲学者」であったというのが著者の評価であり、このリーフェンシュタールが贈ったフィヒテ全集が、現存するヒトラーの蔵書の中で唯一の本格的な哲学書であるという。そしてそれ以外は、むしろ「生物学的人種差別」や「ドイツ民族主義」に関する書籍が圧倒的に多く、それらには、彼が自己の思想を代弁する表現を見つけたことを物語る多くの書きこみがなされているという。そのように、自分の演説で使えるセリフを仕入れるという点で、ヒトラーの若いころからの数少ない友人の言葉をかりると、「ヒトラーの読書は余暇とか楽しみとかとは全く無縁のもの」で、「死ぬほど真剣な仕事」であったというのは理解できる気がする。
「ヴァチカンのナチス分断工作の書」と題された一章は、この本の中で取り分け面白く読めた部分である。まず著者は、ナチスの理論家とされたローゼンベルグの「20世紀の神話」につき、ヒトラーはこの本を全くイデオロギーとして信用しておらず、私の今までの認識に反し、ローゼンベルグが繰り返しこの本に党の「公式の地位」を与えてくれるよう要請したにもかかわらず、ヒトラーはそれを断り続けたという。しかしこの本が「ヴァチカンの禁書目録に入ったことで(中略)、この奇怪な本は一夜にしてセンセーションとなる」と共に、ヒトラーを、ヴァチカンとの対立という宗教問題に巻き込むことになる。
このヒトラーの微妙な立ち位置に気が付き、それをナチス内部からのローゼンベルグのような左派の排除と、基本的には共通点の多いカトリックとの連合(「ヨーロッパ最強の政治的・社会的勢力」としての「キリスト教化したファシズムの創造」!)に誘導しようと画策したのがオーストリア人司教のアロイス・フーダルであったとされる。
彼が書き、ヒトラーに献上した「国家社会主義の基礎」という本が、明らかにヒトラーが読んだ痕跡と共に残っているという。しかし、この本をヒトラーに認めさせようとしたバーペンは、ゲッペルスとボルマンの妨害に会い、また他方でヴァチカンも最終的に公式声明を出しこの本と距離を置いた。ヴァチカンとナチスの論争の正面に立っていたミュンヘン大司教のファウルハーバーもフーダルをヒトラーの「御用学者」と呼んだのである。結局、このフーダルの野望は実現せず、この本は忘れられ、著者も失意の余生を送ることになったという。
その次の二章は、いかにもこの主人公の狂気と理性の極度に乖離した姿を示すような読書傾向が語られる。まずは、彼の蔵書の中に多くの関係作品が見られ、また確かに彼が真剣に読んだと思われる「オカルト本」。そしてその中のある心霊本が、ヒトラーのポーランド侵攻を後押ししたとして、その決断前後の彼のこうした種類の本への傾倒を追いかけている。そこで抱くのは、いつの世もこうしたオカルト本は一定の支持を得るものであるが、それが絶対権力と結びつくと、後は悲劇しかないというごくありふれた感想である。
それに対し、戦争が本格化した状況で語られるヒトラーの軍事本への関心と読書量は、確かに常軌を逸したものがあるとは言え、ある意味ではこの政治家の力量を物語る挿話である。
言うまでもなく、権力掌握以降も、ヒトラー、あるいはナチスと国防軍の間では常に緊張関係が続いていた。そして大戦が始まると、この緊張関係は、一触即発の状況まで高まることになる。双方はお互いに相手を信用していなかったが、ヒトラーが軍部を従わせるために試みたのは、膨大な量の軍事関連本を読破し、その知識量を将軍たちに見せ付けることであった。ある研究者は、ヒトラーが約7000冊の関連本を読破したと評している。そして、ここでは著者は、ヒトラーの専属コックであり、夜の集りでのエンターテイナーでもあった狡猾な側近カンネンベルグが贈った、プロイセンの軍人「シュリーフェン」に関する蔵書を触媒に、その頃まさに開始されたベルギーへの侵攻からヒトラーが自ら軍の戦術上の決定にあからさまに干渉するようになっていった様子を語っている。戦いが圧倒的な勝利を続けている間は、彼の知識と雄弁が次第に将軍たちを圧倒していく。しかし、その本の中で書かれている、シュリーフェンが、ビスマルクを解任したヴィルヘルム2世を評したように、「彼には助言者たちの真の性質を見抜く能力が欠けていた。」それを読んでいたにも関わらず、ヒトラーは同じ陥穽に嵌まっていったのである。
こうして戦況は転換し、次第にヒトラーは追い詰められていく。この時に彼が自らへの慰めとした本が幾つかある。それが最後の二章で紹介されるスウェーデン人冒険家スヴェン・ヘディンが彼に送った自身の最新刊の冒険記であり、そして最後の瞬間の奇跡を信じたフリードリヒ大王の物語であった。前者のヘディンは、ヒトラーが少年期からその冒険記を熱中して読んだ人物で、また大戦勃発後は、新ナチスの立場から、「ヒトラーは戦争を回避しようとしたが、英国の陰謀でそれを始めざるを得なかった」とか、「戦争の真犯人はローズベルトだ」といった主張を訪問する各地で繰り返していたという。その彼の言葉はヒトラーの心を慰め、その頃の演説で彼はヘディンの本からの引用を度々繰り返していたという。しかし、その演説に対する聴衆の反応は次第に「礼儀正しいが控えめな拍手」に変わっていった。そして後者は、まさにヨヒアム・フェストの「ヒトラー最期の12日間」(別掲)で描写されているベルリンの首長官邸での最後の日々に、フリードリヒ大王の伝記を読みながら、彼に起こった奇跡の再現を信じていた様子、そして実際ローズベルト死去の知らせに「予言が実現した」と狂喜しながらも、その後の戦況に全く変化がなかったことから、以降その奇跡をいっさい口にしなくなった様子が、秘書ユンゲらの証言も交えて語られることになる。最後の瞬間まではあと数日が残されているだけであった。
ある人物の精神史を形成した書籍を追いかけるということは、それを機会に新たな書物の世界が広がるという楽しみがある。実際、自分が尊敬している人間の精神史を、その源泉にまで遡り、それを自ら当たってみるというのは、今までの私の書籍選択の中でも何度も行ってきた。しかし、今回のこの本が、そうした過去の経験と決定的に異なるのは、ここで紹介される本は、ほとんどオリジナルを読む気にならないものばかりである、ということである。例えば、ローゼンベルグの「20世紀の神話」については、学生時代に日本側の北一輝や大川周明に関心を抱いた際に、それに対するドイツ側での同種の思想的原点の一冊として興味を持ったが、その頃は結局読む機会がなかった。それ以来気になっていた本であったが、今回のこの本を読むと、結局思想書と言うよりもオカルト本に近い「奇書」として紹介されていることもあり、機会があれば「20世紀の神話」を読んでみよう、という気持ちはいっきに消えていったのである。ましてやそれ以外のほとんどの本については、別途原点に遡って読んでみようという気持ちが起こらないのは言うまでもない。
しかし、だからと言って、この作品が全く面白くなかったということでもない。確かにそこで紹介されている歴史的事実には、新たな興奮を抱かせるようなものは少なく、その意味で歴史物として読むと全く面白くない。しかし、同じ読書人として、ヒトラーという稀代の政治家が、書籍とどのように交わっていったのか、そしてそこからどのような果実を引き出していったかを想像するのは、まさに反面教師的な部分を含め、自分自身の書籍との関係をもう一度再考するきっかけを与えてくれたように思えるのである。
言うまでもなく、こうした読書を中心としたウェッブ・サイトを自ら運営していることから明らかなように、読書は私の生活のなかで多くの比重を占め、また量は限られているとは言うものの、自分の蔵書は、周囲に何と言われても、自分の分身のようなものであるのは、ベンヤミンの言葉のとおりである。そうした書籍に対する私の接し方は、ある意味でヒトラーなどと変わらない。即ち、全体としての書籍を捉えることと同時に、意識的にしろ、無意識的にしろ、自分自身がその時折に感覚的に関心を抱いていた発想に合う表現や記述があれば、それを抽出し、自分のために使うことが出来るようにするという本の読み方は、結局結局ヒトラーの書籍との接し方と基本的に異なるものではない。
しかし、私のそうした姿勢と彼のそれが決定的に異なるのは、まず言うまでもなく彼が独裁者として、直ちにその読書からの成果をみずからの政治活動に直接活用してきたし、またそれが大きな政治的な意味を持った、ということである。私の場合は、自分の社会的活動の中で、私が影響を受けた書籍から直接の果実を直接利用することはないし、また意識的にはそうした安易な実用本からは距離を置いてきたのが正直なところである。その意味で、私にとっては、このサイトで取り上げられる書籍の多くは、現在その中で仕事をしているアジア関係を含め、ヒトラーのように直接自分の職業に役立てることを考えた「真剣な仕事」ではあり得ない。それはもっと大きな人格的な成長に向けての知識と視野の拡大を目指した根源的な人間の営為なのであり、またそれを通じて現実の自分が拘束されている数多の限界を超えていく可能性を探る作業なのである。そして同時に、それが日常生活からの超越を探るという意味において、最高の気分転換をもたらすエンターテーメントの一つでもあるのである。その意味で、ヒトラーの書籍との関係を頭に置きながら、もう一回こうした自分と書籍との関係を考える良い機会を与えてくれたという点が、もしかしたら私にとってのこの本の最も大きな意味であったのかもしれない。
読了:2011年5月15日