アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
ドイツ読書日記
第二章 政治
第四節 ナチス
アウシュビッツの地獄に生きて
著者:J.S.ニュ−マン 
休暇を使いアウシュビッツを訪ねた後、クラコフからワルシャワに向かう列車の中で、まだ収容所のイメ−ジが頭の中に鮮明に残っている状況で読了した。1942年、ブレスラウから家族全員でアウシュピッツヘ強制移送され、家族、婚約者、親友全てをそこで失いながらも解放まで生き延びた一ユダヤ人女性の回想録である。歴史的、社会学的、心理学的、文学的、芸術的な新鮮さはそこにはないが、一看護婦の視点で感情を交えながら語られていく物語は、それが庶民の率直な観察と回想であるが故の感動を与えてくれる。

回想はアウシュビッツにおける日常的な暴行、拷問、処刑、そして死体処理を延々と語っていく。次々に死んでいく家族や友人に対する悲しみ、ナチ党員の冷徹なサディズムに対する怒り。しかし、そこが既に感情が意味をなさない世界になっていることは明らかである。その中で、まだ生き抜いた人々がいたことの方が驚異である。著者によると、1945年1月、戦況がドイツに厳しくなってきたため、アウシュビッツの囚人20万人の強制退去が行われたということである。著者もその一団に加わり、そしてその隊列からすきを見て逃げ出すことにより最終的にこの地獄から解放されるのであるが、彼女が生き抜いたのは看護婦としての資格と生き延びるだけの体力、そして最後に奇跡的な幸運があったからとしか言い様がない。

この書を読みながらのアウシュビッツ訪問の感想は別の旅行記に書いたのでここでは繰り返さない(今回のHP化に際して、そのうちのアウシュビッツに係る部分を、以下に追加分として掲載しておきたい)。しかし、再び日本でも文春マルコポ−ロ事件を契機に、この戦後史を読み返す試みが行われ、またNHKのニュ−スでも、あたかもこの事件で傷ついた日本に対する国際世論のイメ−ジを回復するためか、突然アウシュビッツ体験者の証言をまとめる運動についての報道がなされたりしている。確かに、「アウシュビッツの嘘」の主張者が言うように、アウシュビッツの悲惨として記録されている事実の一部が、戦後ソ連やユダヤ人グル−プによるでっちあげで作られた可能性があることを100%否定することはできない。しかし、それでも一度この強制収容所の現場を見れば、この悲惨の主要部分を忘却することが如何に犯罪的であるかが理解される。こうした感覚が風化しないよう、それを絶えず想起し、将来の強烈な教訓にすること。人間が忘却する動物であり、世代の交替と共にまた同じ歴史を繰り返す傾向があることをもう一度我々は肝に命じておかねばならないのは確かである。

読了:1995年3月5日 (追記)  ポ−ランド旅行記                      
1995年3月4日〜6日

(序章)

私のポ−ランドへの関心は、理念的なものであったが既に学生時代から始まっていた。ソ連、東欧の戦後史を学ぶ過程で、ポ−ランドの近代史に接し、チェコ及びハンガリ−と共に、西欧民主主義の経験をそれなりに有するこの民族国家の運命は、国際政治の一つの赤裸々な姿と、それ故の世界の一つの方向性を示していると感じられた。そしてそれらの国が冷戦の中でなめさせられた苦渋と、それから脱却するべく、そこで間欠的に発生した政治・社会運動は、政治面のみならず、人間の限界状況における営為の運命と意味を理解する上でも無視することのできないものと思われたのである。

ポ−ランドでの反共産主義体制運動は、戦後まもなくのポズナニ暴動やルブリン事件といった歴史的知識とは別に、既に1970年、連帯の動きが活発となり、アンジェ・ワイダが「大理石の男」、「鉄の男」といった映画でワレサとその運動を映画化してから身近なものになっていたが、それがヤルゼルスキーの戒厳令という形で押さえ込まれたのが、私のロンドン赴任の直前、1981年のことであった。そして私のロンドン時代に、非合法化された連帯や地下に潜った知識人たちの理念が次第に根を広げ(私がク−ロンやスタニスキスの著作に接したのもこの時期であった)、1989年の東欧革命の中で共産党政権の崩壊と民主化となって実を結ぶのである。

こうした過程を追いかけながらも、この国を訪れる機会をなかなか持つことができないでいた。しかし、最近になり2つの出来事が、私にポ−ランド旅行を思い立たせることになった。一つはスピルバ−グによる「シンドラーズ・リスト」の映画化、もう一つは第二次大戦終了後50周年を迎えた今年、数々の戦争関係の記念祭が行われる中、去る1月26日に現地で行われたアウシュビッツ解放50周年式典である。前者は、昨年のオスカ−を独占した傑作であるが、昨年2月、暗いドイツの冬にこの映画を見た後、以前から多くの文献に接してきたアウシュビッツのみならず、シンドラ−の舞台となったクラコフの町に対する関心が強まったのだった。そしてヘルツォ−ク独大統領ほかの欧州各国の元首のみならず、ノ−ベル平和賞受賞作家で、私も大学時代にその4部作に接して感動を禁じ得なかったユリ・ヴィ−ゼルも最前列で出席した今年の祝典。また時を同じくして、日本で発生した文芸春秋マルコポ−ロの「アウシュビッツの嘘」事件。こうした出来事が今回のポ−ランド行きを、数々の興奮に満ちたものにしてくれたのだった。

(3月5日 日曜日)

6時半に目を覚まし、バルコニ−から外を眺めると、向かいのバベル城が霧で霞んでいた。今日はいよいよ今回の旅の主目的である、アウシュビッツを訪ねる日である。昨日到着直後にホテルのフロントでアウシュビッツヘのツア−を尋ねたところ、日曜日はバスのツア−はなく、タクシ−をチャタ−して行くしか方法はない、と言われていた。「私が70ドルで全て回れるタクシ−をアレンジしよう」というカウンタ−の男の提案は、明らかに旅行者相手の、タクシ−会社とつるんだキックバックを前提とした商売であり不愉快であるが、時間も限定され、他の手段は一般のバスを使うしかない状況では己を得ない。110マルクの現金払いで午後駅に行くまで勝手に使うことを条件に受けたのだった。そう言えば、文春マルコポ−ロ事件の筆者の医者も、記事を書くのに特段新しい資料も使わず、ただアウシュビッツを案内人と回っただけであった、と報道されていたから、同じ方法でタクシ−をチャタ−したのだろう。確かに日本でタクシ−を一日借りて7000円程度、というのは安い値段である。しかし、この国でそれがいかに法外な値段かは、今まで経験した物価が語っている。せいぜいたっぷりと走り回っておこう、と考え、8時半、迎えに来た、色も車種も私のフランクフルトでの自家用車と同じベンツに乗り込んだ。

昨日クラコフに着いた時は快晴で、夜も暖かかったにもかかわらず、今日は一転雨模様である。傘を忘れたことを、高いタクシ−を使う自分への言い訳にしながらクラコフの町を後にした。運転手のKazimierz Paculaは、2歳の子供がいるという30代半ばの男。英語は問題ない、と聞いていたが、自分の説明は兎も角として、どうもこっちの言っていることは余り理解していない感じである。それでも、道すがらの山の上にある邸宅が、クラコフ総督だったナチの弁護士H.フランクが建てた別荘、今はホテルになっている、等の案内を加えてくれるのでまあ良しとしよう。外は雨から次第にみぞれ混じりの天気に変わっていく。結構飛ばした割には思ったより時間がかかり、丁度出発から1時間後の9時半にオビエンチムにあるアウシュビッツ第一収容所前に到着した(ガイドブックにバスで40分、とあるのはいい加減)。

言うまでもなく1940年6月にここに収容所が建設され、1945年1月に解放されるまで、ユダヤ人だけでも約600万人が虐殺されたと言われる20世紀最大の悲惨と恥辱の地である。当時は、この第一収容所に加え、車で5分程離れたビルケナウの第二収容所、そして手前にあるモノビッツ村の第三収容所の3つが存在したが、第三収容所は現在は撤去されているとのことである。この第一収容所跡が博物館として使われており、学生時代、東京で見たアウシュビッツ展は、ここの展示が移送されたものである。入場無料、寄付自由ということなので、10万Zの寄付のみ行い、構内に出た。みぞれは、今や雪に変わっていた。早朝ということもあり、客は私を入れて7〜8人。沈黙が死者の魂を包んでいる。

’Arbeit macht frei’と書かれた有名な鉄製のゲ−トをくぐるとそこは30棟程のバラックが整然と並ぶ収容所である。案内板に従って4号棟から中に入ってみる。まず右側の部屋のガラスケ−スに入った毒薬、チクロンBの空き缶が目に入る。また2階の奥には、以前東京の展覧会でも見た覚えのある、30メ−トルに及ぶケ−スに積まれた髪の毛の山。5号棟は囚人達の所有物の集積所である。靴ブラシと歯ブラシ、鍋や洗面器、義足、眼鏡。靴は大人用と子供用に分けられている。そして、所有者の名前、住所、あるいは生年月日が書かれた鞄の山。全てが整理され、堆く積まれている。6号棟に入ると中央の通路一面に張られた囚人達の顔写真が飛び込んでくる。解放後に撮られた、痩せ細った人々の写真、収容所生活を描いたいくつかのデッサン、今年のファッション界で余りに似ているとして問題になった縦縞の薄汚れた囚人服、腕や足に刻まれた囚人番号の写真等。7号館は、囚人部屋である。入口近くの部屋は、右側には穀物入れを思わせるマットが一面に並べられ、左側の部屋には藁が敷き詰められている。奥に進むとブロック製の3段ベッドの部屋と木製の3段ベッドの部屋が向かい合う。その間に粗末な便所と洗面所。今回持って行ったアウシュビッツ生存者のJ.S.ニュ−マンの手記の中で、ビルケナウからアウシュビッツに移され、便所がありほっとした、という記載があったのが思い起こされた。

閑散とした早朝の収容所跡で、気持ちが段々暗くなる中、その他の展示館を早足で見て回る。10号棟と11号棟の間には処刑場であった「死の壁」が今だに残っている。11号館のゲシュタポ将兵の小ぎれいな部屋。その奥は構内の監獄であったという。16号棟から21号棟は、欧州各国の抵抗運動等を中心とした、まだ気持ちを落ち着かせる展示である。レジスタンスとアウシュビッツの解放。心は少し明るさを取り戻す。しかし、鉄格子の切れ目をくぐり、構外に出たところで、もう一つの地獄が待っていた。1947年、元収容所長ヘスの絞首刑が執行された処刑台の横に、不気味に聳えるガス室と死体の焼却炉。広々とした不気味な沈黙の漂うガス室と2台残った焼却器はこれこそがこの世の地獄と表現するに十分である。「芸術はアウシュビッツを語れない」(ヴィ−ゼル)、「アウシュビッツの後で詩を書くことはできない」(アドルノ)。「近代社会が夢見た階級なきインテグレ−ションがここで実現された」(アドルノ)地点であるガス室。「なぜなら、そこではユダヤ人という形式的同質性によって、全ての個性的差異が抹消されるからである。」

本館では11:00から映画の上映があると聞いていたが、映画はまたどこかで見る機会もあるだろうと考え、先を急ぐことにした。時刻は10:30。丁度1時間を第一収容所で過ごしたことになる。待たせたタクシ−に乗り、第二収容所であるビルケナウに向かった。

第一収容所から車で10分程度で、あの写真や映画で見慣れた、線路を跨いだ監視塔を有する収容所正門が見えてくる。こちらは草原の真っ只中にある広大な収容所跡である。ビルケナウ・ブジェジンカ、総面積175ヘクタ−ルの敷地に一面にバラックが建てられている。みぞれは上がっているものの、まだ霧雨が舞っており、通りがかりのドライバ−らしき男が一人正門の下にいる限りで、他には人影はない。列車でアウシュビッツに到着した囚人達がまず識別された線路脇の敷地をとおり、本造のバラックの中を覗いてみる。この第二収容所は、到着後の識別で労働に耐えられないと判断された人々をただちにガス室に送ったところである。バラックの中も、第一収容所がまだ人間が生存していた雰囲気があるのに対し、こちらは家畜小屋と呼んだ方が良い位である。

奥には撤退の際、証拠隠滅のため破壊されたガス室、焼却炉が残っているとのことであったが、時間もないので、このバラックを見ただけで戻ることにした。囚人達が歩いた道は、霧雨の中で所々水たまりとなり、寒風が草原を越え、周囲を大きく囲う鉄格子を抜けて流れて行った。鉄格子の向こうを走る路上を乗用車が音も立てずに行きかっていたのが妙に
頭に残ることになった。

11時丁度にビルケナウを後にして再びクラコフヘ。外の寒気に冷やされた体は、車の暖房で次第に弛綬していき、1時間の道程の間ついうとうとしでいる内に、正午前、車はクラコフの市内に入った。朝、ホテルのビュッフェで、ふんだんに朝食を詰め込んだため、腹はあまりすいていないので、まずシンドラ−巡りをすることにした。

スピルバ−クの「シンドラ−ズ・リスト」をフランクフルトで見たのは丁度昨年の今頃だったと思う。その時は、舞台になったクラコフの位置や、そのアウシュビッツとの関係について全く知識がない状態であったが、映画を見た後に解説のパンフレットを読み、地図を確認し、始めてそうした映画の背景を理解したのだった。シンドラ−という、ナチ党員にして軍需工ナメル工場の冷徹な経営者が、結果的に1000人以上のユダヤ人を絶滅収容所から救った、という歴史事実を、原作者T.ケネリ−が生存者への取材から再構成し、それをスピルバ−クがクラコフ、アウシュビッツでのロケを交え映画化したのがこの作品であるが、その中では、シンドラ−は、当初は単なるユダヤ人労働力の搾取者として、そして次第にユダヤ人の救済そのものを自己目的にしていったかのように描かれている。しかし、実際にはこの男の中では、資本家、経営者としての功利主義と弱者への同情心、あるいはナチの非人間性への反発が常に同時に混在していた、といった方が正確なようである。と言っても、シンドラ−を描く時の映画の単純化は、この作品の感動を弱めるものではなかった。今回のクラコフ行きの最も大きい動機はこの映画であったと言えなくはない。

運転手の案内でまず、ユダヤ人ゲット−とシンドラ−の工場跡に向かった。この日の夜から読み始めたT.ケネリーの原作で分かったのであるが、映画の中で1939年、ナチによる一斉手入れを受けることになるゲット−は、昨夜私が泊まっていたホテルのすぐ横に位置していたのだった。ナチによる襲撃と強制送還、身の回り品を詰めるのにもたもたしている者達の鞄がナチ党員によりアパ−トの上階から投げ捨てられ空中を無数に落ちていくシ−ンが頭の中に残っている。この捜索を逃れた者が、夜秘密の隠れ場所から動き始めたところを狙い撃ちするナチ党員。クラコフのユダヤ人にとって、この時まで安息の場であったゲット−が、一夜にして無人の廃墟と化していく姿が衝撃的であった。クラコフが戦争で破壊されなかったということなので、現在のゲット−もそれなりに、戦前の姿を留めているのであろうが、少なくとも、映画のイメ−ジのような複雑に入り組んだ構造のゲット−という感じはしない。中を抜ける通りも広く、単なる低所得者層のアパ−ト街という程度の印象である。心持ち暗く感じるのは歴史の連想と曇った冬空のせいであろう。15分程ゲット−の中を散策してから今度はシンドラ−の工場跡へ向かう。

Lipowa通りに面した、現在では’TELP0D’という会社名が門に掲げられている3階建ての建物が、かつては’Deutsche Enailwaren Fabrik’という名前のシンドラ−所有の工場であるとのこと。もちろん、ソ連軍によるクラコフ解放の直前、シンドラ−は従業員に最後の挨拶をして逃亡するのであるが、その後、社会主義政権下でこの工場がいかなる運命を辿ったのかは分りようがない。しかし、この場所で、シンドラ−が実質的現場監督のユダヤ人スタ−ンと共に徹夜で工場に連れ戻すユダヤ人リスト作成をおこなっていたのである。5分程そうした感慨に浸った後、今度は、ゲット−南西部にある丘に向かうよう、運転手に依頼した。先程書いたゲット−の手入れを、シンドラ−が愛人と共に乗馬の途中ここから目撃し、彼の心が次第に変化していくきっかけになったかのようにスピルバ−クが描いているシ−ンである。しかし何を思ったか運転手はゲット−背後の丘から離れた方向へ車を走らせた。「方向が違う」という私の指摘を「まあ、待って」と軽く無視しながら別の丘に登っていった。ここから下を見ろと言われ覗いてみると、崖下に空き地が広がっている。運転手の説明が要領を得なかったためその時は分からなかったが、後で原作を読んでいて、おそらくそこは、ナチ将校ゲ−テが君臨した、クラコフに最も近いキャンプであるプラゾウ(KLPLASZ0W)だったのではないか、と思う。この後、先程のゲット−を見下ろす丘に登り、それから再び市内に戻り、約1時間のシンドラー巡りが終了したのだった。

アウシュビッツを近郊に有していることで、クラコフにはやや暗い印象が伴うが、前にも記したとおり、この町は14世紀から17世紀までポ−ランドの首都であった古都で、戦争でも奇跡的に破壊されなかったという。昨夜、地図も余り見ず中央市場広場の周辺をさ迷っただけなので、午後の残りの時間はクラコフ観光に過ごそうと決め、まずは、ビスワ川を見下ろすバベル城へ向かった。これも後で気付いたのだが、車を待たせた城の正面参道からすぐ通りを入った所にはシンドラ−のアパ−トがあったという。そしてこの城は先程運転手が別荘の紹介をしていたナチのクラコフ総督フランクが君臨していた場所である。城のチャペル、中庭を散歩した後、付属美術館で、ポ−ランド絵画やタペストリ−等を眺めた後、再び車で、中央市場広場へ戻った。時刻は2時に近くなり、さすがにお腹もすいてきたので、昨夜目星を付けておいた、スケンニッツェ(織物会館)の中にあるカフェ・レストランに入った。若い3人の音楽生がバイオリンのトリオでバロックを演奏するのを聞きながら、昼食をとった。ガイドプックで奨めていたポルシチ・チェルポ−ニイ(ピ−トから作るス一プ)にロシア風ホ−ムメイド・パスタそれにビ−ルというメニュ−にしたが、特に気にいったのはポルシチ・チェルポ−ニイであった。紫色のス−プに大きな春巻が添えられてサーブされたが、このス−プは今まで経験したことのない、やや酸っぱ味を帯びた不思議な味で、食べるに従いこくが浸みわたり、中毒になりそうな気がした(実際この日のワルシャワでの夕食でも、これを食べてしまった)。春巻の添え物も予想外で、パスタも量があったため満腹。代金も9万Z(360円)と法外な安さで、今回の旅行の中でも最も満足した食事であった。

食後は、織物会館の土産物屋で食事前に当たりをつけておいた、家族への土産を物色にいった。クリスタル・グラスや木彫りの置物等値段が手頃で面白そうであったが、計算違いは日曜の午後には店終いするところが多かったこと。当たりをつけた店が、食事を終えて出てくると既に閉店していた。しょうがないので、まだ開いていた数少ない店で二人の娘に、木の組み合わせ細工を購入するに留めた。再び外が霧雨模様になってきたこともあり、広場の東端にある聖マリア教会にある国宝の祭壇だけ眺めてから早めに駅に向かい、そこで一日付き合った運転手に110マルクの現金を渡し別れた。

16:15発のワルシャワ行き急行3504号の切符を、行きと同じ38万Zで購入、まだ時間があったので、駅の周辺部にあるバルバカンと呼ばれる城壁やフロリンスカ門を眺めてから電車に乗り込んだ。帰りのコンパ−トメントはポ−ランド人の老夫婦と2人の男、それにアメリカ人グル−プの一人らしい若い男。特段話しをする機会もないまま、私はニュ−マンのアウシュビッツ体験記を読み進め読了した。アメリカ人のおばちゃんとの短い会話とワルシャワ到着直前の、別のアメリカ人との喫煙を巡るやりとりがあった位で、電車は定刻の18:50、Warszawa Centralnaに到着、ただちにタクシ−で、この日の宿である、フォ−ラム・ワルシャワにチェックインした。部屋で地図をチェックし、7時半には既に町の探索に出発。旧市外まで歩いて30分程度ということなので、日曜の夜の人通りも少ない町を歩き始めた。

明朝の予定を作るため、旧市街にある市場広場を中心に散策した後、レストランを捜すが、クラコフに比較してレストランの数は少なく、且つ外から中が見えないレストランが多く、なかなか気楽に入れる店がない。ようやく、広場の一角で中の様子が分かるバ−レストランに席を取り、昼食時に気にいった例のス−プと肉団子にビ−ルという夕食をとった。客はまたしても途中から私一人になったが、二人のウエイトレスのポ−ランド娘は愛想も良く、値段も11万Z(440円)と相変わらずであった。

食後ホテルに向けて歩き始めると、王宮の側にある聖アンナ教会に人々が次々に入っていくのに気がついたので、私も後に続いた。日曜の夜9時にミサが行われていた。さすがに私は入りにくく、入口で見ていると、年輩者だけではなく、若いカップルが次々に入口で脆いては中に入っていくのだった。昼間の運転手が「ポ−ランド国民の90%が、敬虔なカトリック教徒だ。」と言っていたのを思い出す。確かに現ロ−マ法王を生んだこの国の国名も「法王の国」(Pole’s Land)だとこじつけられなくもない。社会主義時代に教会が反体制運動を支え、ミサが往々にして政治集会になった、という歴史を思い起こしたのだった。

ホテルの近所で周囲を睥睨するようにそびえ立つ文化科学宮殿まで回り道をしながら徒歩でホテルに帰着したのは10時を小し回った頃。「シンドラ−ズ・リスト」のペ−パ−バックを読み始め、クラコフでの幾つかの新しい発見に静かな興奮を覚えながら心地好い眠りについた。2日目の現金使用額はクラコフのタクシ−を別にして98万Z(4000円)。現金残高は173万Zである。
                                                
1995年3月    記尚、これを挟む、3月4日及び6日についての記録は省略致しました。